わたしが逆巻家にやってきた日は、満月のよるだった。そして今日は、わたしが逆巻家にやってきて二度目の満月の日。カーテンの隙間から忍び込む眩しいくらいの月の明かりで目を覚ました。身体中に満ちる溢れるような魔力。

 なんて素敵な一日の始まりだろう!

 始まりが素敵であれば素敵であるほど、その後によくない事がおこる可能性が高いだろうっていうのは世界中での共通認識だと思うのだけど、わたしの今日もどうやらその部類のようだった。だってこのお屋敷にはお腹を空かせたヴァンパイアたちがごろごろしているんだもの。腐り落ちそうな満月の光に触発された、飢えた野獣たちの巣窟。


 リビングのドアを開けた瞬間に、とろりと絡み付くような甘い血の香りがいっぱいに漂ってきた。屋敷中に漂っていた血のにおいの元は、どうやらここだったようだ。真ん中に据えられたソファーの上に、四つん這いになったアヤトの背中がみえる。ふわりとした赤色の髪の毛が、少しだけ乱れていた。ソファーに下ろされたアヤトの足の間から、すらりと細くて折れちゃいそうな、女の子の足が覗いている。アヤトに組み敷かれているのはきっと、ユイだ。

「アヤト!」

 彼らは食事をしているだけ。わたしだって食事をする。何もおかしな事はない、それは分かっていたはずだった。けれどわたしはその場から見て見ぬふりをして立ち去ることも出来ず、わたしの口から飛び出したアヤトの名前は、少し咎めるような色を帯びていた。

「んだよ、今いいとこなのに」

 チッと舌打ちをして振り向いたアヤトのくちびるは、彼の髪の毛よりも鮮やかな赤色に染まっていた。そしてその身体の向こうに、ぐったりとソファーに沈むユイの顔があった。顔は青ざめて、意識があるのかも怪しいくらいに朦朧としながら宙を見つめている。これだから満月の夜は嫌だ。いつもより加減がきかなくなっているのだ。
 これ以上吸ったらきっとユイはニンゲンではいられなくなるんじゃないかという予感に、胸の奥の方が氷のように冷たくなった。


「ユイが、ぐったりしてる」

 慌ててソファーに駆け寄る。背中に腕を差し込んで抱き起こしてみるけれど、ぐったりしていて反応がない。ちゃんと呼吸はしているみたいで、ユイの血色の冴えない薄いくちびるにかかった髪の毛は、ゆらゆらと揺れている。

「なに邪魔してるんだよ、ナマエのくせに。さっさとどけ」
「これ以上飲んだら、ニンゲンのユイは失血死しちゃうかもしれない」
「うるせぇ、オレ様はまだ飲み足りねぇんだ」
「それでユイが二度と起きなくなったら?」
「オレがチチナシを殺すとか、そんなヘマするわけねぇだろ。いいからどけ」
「それでも、もしもがあったら?」
「仮にんな事があったとして、そん時はそん時だろ。ククッ、オレ達の仲間として生き返してやるっていうのも、悪くねぇかもな」


 くつくつと、可笑しそうに笑うアヤトは、本当に、そんな可能性はないのだと自信があるようだった。ユイに対して、ヴァンパイアとは思えないほどの執着をみせている彼らが、ユイを殺すことなんかあり得ない。ユイを殺してしまったら、ユイの魂を自分達の元から永遠に解放する事になってしまうのだから。いくら横暴なアヤトだって本当の限界が来たら、ユイのことを休ませてあげるのだろう。
 そんなのは分かってる。だけど身体が言うことを聞かない。


「つーか、なんなの。美しい友情ごっことか、反吐が出るんだけど」

 機嫌を損ねた声色。それでもどかないわたしを見て、アヤトが笑みを消す。冷めた目で見下ろされて、ぞくりと背筋に氷を流し込まれた感覚がする。
 ヴァンパイアとサキュバス、天と地ほどの差がある。逃げろ、逆らうな、服従しろ、そうわたしの本能が叫んでいる。正直言って怖い。いくら妹といっても、わたしがヴァンパイアの中で満月から満月を跨ぐ長い間無事で暮らしてこれたのは、彼らの機嫌を大きく損なうような事をしなかったからだ。彼らが本気になればわたしなんてひとたまりもない。遺伝子に直接刻み込まれた、恐怖心。ヴァンパイアには平伏しろ。逆らうな。ごくりと自然に喉がなる。


「……」
「ふーん、どうしてもチチナシを助けたいってわけか」

 ふいに、アヤトの形のよいくちびるの、左の口角だけがくいっとつり上がる。いたずらを思い付いた子供のようなにやにやした顔で、わたしとユイとを交互に眺める。ユイを抱えるわたしの腕は、知らず震えていたらしい。


「いいぜ、チチナシを解放してやっても」
「ほんとう?」
「ああ。その代わり、飲み足りねぇ分、オマエの血で補ってもらうけどな」


 すっと頬を撫でられて、びくんと肩が跳ねる。獲物を狙うハンターの目で、アヤトがわたしの瞳をみつめ、耳元、くちびる、首筋、胸元、至るところに吟味するように視線を移してゆく。


「味見しようとするたび勿体ぶってるけどさ、“美しい友情”の為なら迷わず身を差し出すんだよな? 偉そうなコト言ってるんだからよ。ま、オマエの血が勿体ぶる程のもんなのかは甚だ疑問だけど、優しいオレ様はそれで我慢してやってもいいぜ?」


 どうだよ? と、耳許で低く囁いてから、首筋に顔を埋め、すうっと香りを吸われる。肌をくすぐる息がくすぐったくて、思わず変な声が出そうになった。アヤトのあのすらりと指の長い手によって、わたしの心臓が、ぎゅうっと鷲掴みにしされたような心地だった。全身から冷や汗が吹き出してくる。今すぐに逃げたい、逃げろ、逃げるべきだ、ヴァンパイアの餌になりたいのか、死ぬまで血を搾取され続ける事になるぞ。煩いくらいに鳴り響く本能。これは地獄へと自ら足を突っ込む道だ。進むべきではない。引き返す方が堅実だ。分かっているのに、後には戻れない。
 わたしがその時思い出していたのは、あの日のホットミルクの甘くて優しい美味しさだったのだから。


「……わかった、いいよ、吸っても」
「契約成立、ってか。女の友情ってやつはよくわかんねぇな」


 ククッとまた可笑しそうにわらったアヤトは、わたしがユイを部屋のベッドまで運んでくるだけの時間をくれた。戻ってくるなりソファーに押し倒されて、両腕をソファーの張りのあるベルベットの生地に押さえつけられる。月に理性を奪われた、獣のような瞳と息づかいとが、わたしを見下ろしていた。窓から差し込む満月に照らされたアヤトの顔は、妙になまめかしい。
 思えばこうして組み敷かれ、見下ろされるのは、初めての経験だった。普段はわたしが、眠っている男に跨がっているだけなのだから。
 だんだんと降りて、近づいてくるアヤトの顔。まず最初に首筋をふわふわの毛先がくすぐって、それから、くちびるのふにゃりとした感覚がする。ざらりとした舌先に何度か舐められたあと、ついにわたしの身体を、初めての感覚がおそった。
 つぷり、牙の先の尖った部分がまず、薄い表皮に穴を穿つ。ずん、ずん、とそのまま肉を割って突き進む牙。深く深く牙がねじ込まれるたびに、叫びだしたいような痛みと、腰がふわりと浮いてしまうような、感じたこともない感覚が身を突き抜けていった。セックスの快感とも違う、だけど確かに気持ちがいい。目の前がちかちかして、意識が飛んでしまいそう。


「……つ、う」
「気持ち良さそうな顔、してんじゃねぇか」
「なんか……きもち、いい」
「はっ、素直じゃんオマエ」
「噂で聞いてはいたけれど、ヴァンパイアに吸血される快感って、凄いね」
「癖になるってか? オレの牙は特別凄ぇからな」

 牙を引き抜くと、今度は傷口に思いきり吸い付かれた。ちゅっちゅっと音をたてながら、血を啜られる。魂までその場所から吸いとられてしまうんじゃないかってくらい、つよい吸血。牙に貫かれた時の、痛みを伴う快感とはまた違う。ただ甘やかされているみたいな、たまらない快感が首筋から広がって、全身を這ってゆく。
 ヴァンパイアの虜になってしまうニンゲンの気持ちを少しだけ理解した。きっとヴァンパイアは餌を確保するのに、たいした苦労は必要ないんだろう。だって、こんなにも、気持ちがいいんだから。おかしな気分になっちゃいそう。


「……っ、ん。なんだ、オマエの血。なんか……変な気分になってきた」


 顔をあげたアヤトはとろりととろけそうに熱い目をして、同じくとろけそうな顔をしているわたしを見下ろした。はあっと熱い息が漏れる。心なしか、アヤトは呼吸が荒いみたい。


「なに、わたしの血、へんな味がするの?」
「味はまあまあだけと、なんか……飲んでると……」

 はあ、とまた、何度目とも分からない熱い息。ちゅっともう一度肌を吸われた。それからアヤトはさも愉快そうに、リビング中に響くような声で笑いはじめる。

「頭の悪そうな女の血なんか飲んだら頭が悪くなるのは当然だし、……男を何人も食ってるような淫乱女の血は……ククッ」

 服を乱暴に乱されて、今度は胸元にがぶりと齧りつかれた。ぎゅっと拳を握り、痛みと快感に耐える。はあはあ、と、どんどん加速するアヤトの呼吸が皮膚を掠めるのが妙に気持ちがよくて、わたしの呼吸も乱れてゆく。兄弟だとかなんだとか、気にするだけ無駄だと言うような気もするし、このままではいけないというような気もする。ひどく悔しいような気分だけが、鬱陶しいくらいに胸に絡み付いてくる。


 思えばこの日からだ。わたしが彼らに吸血されるようになったのは。


20130627

   
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