どうにも気分が優れない。

 下半身から突き上げてくる快感は全身端から端までせりあがり、空も飛べそうなくらいの力がお腹の底から満たされてゆくというのに。どうにも分からない。くねくねと腰を揺すりながら、その感覚が膜ひとつ隔てた外の世界の事のように感じている。自分の身体が自分のものではないような、精神とその外側との剥離が激しい。そして胸の中にごぼごぼと音をたてながら、鉛のような塊が沈んでゆくのを感じる。
 シーツの海に沈む見知らぬ男の寝顔に両手を添えてみた。鉛が熱をもって、焼ききれそうな感情に変わる。

 違う、この人も、違う。

 最近はますます違和感と不快感と不安とが強く胸を取り巻くようになった。思い浮かぶのは逆巻家での日々だ。お兄ちゃんたちがいて、ユイがいる。多分わたしはそれなりにあの安穏としていて刺激的でもある生活を気に入っている。

 ぼろぼろに乱れたシャツから覗くわたしの胸は、大きくもなければ小さくもない、至って平均的な特徴のない形をしている。夢に浮かされたようにさ迷うごつごつと節のたかい手が、無遠慮にそれを揉みしだく。力がこもるごとにやわやわと形を変えるその胸は、男の瞼の裏ではどんな形でどんな重さでどんな柔らかさをしているのだろうか。

「まるで悪夢みたい」

 サキュバスとしての当然の営みに、妖魔として歓迎するべき負の感情に、足元から引き摺られそうなわたしは頭がイカれているのだろう。大きく持ち上げた腰を落とした瞬間に、お腹に一気に広がる生暖かい感覚は、快感と憂鬱を孕んで、わたしの全身に魔力を運んでいった。

















「……ナマエちゃん?」

 屋敷に帰った早々、玄関ホールでユイに遭遇した。外から扉を引いたわたしと、中から扉を押そうとしていたユイは双方驚きの面持ちで暫く見つめあう。さきに行動したのはわたしで、玄関ホールに入って声をかけた。

「ユイ、ただいま」
「おかえりなさい。どこかにいっていたの?」

 ちょっと食事に、なんて言ってもユイには伝わらないだろう。軽く首を傾げたユイを見つめ返して、はっとする。傾げられた事によってユイの緩やかなカーブを描くセミロングの髪の毛が、さらりと揺れ、首もとが露になる。大きく襟のあいた私服を着ているユイの、薄く髪のかかる首もとに、あかくて小さな傷跡が、いくつか点在していた。
 脳裏を過るのは、昨日見かけた、ライトに無理矢理吸血されていたユイの艶めかしい姿だ。ついさっき食事をしたばかりだからか、ユイから漂う本能をくすぐるような甘い香りに、そこまで強くは誘惑はされないけれど。
 胸に手をあてぎゅっと握りしめる。ごぽごぽと音を立てる固い塊。ユイもあの時、こんな風に胸の奥の鉛を感じていたのかな。急に申し訳ない気持ちが込み上げてきて、綺麗な睫で縁取られたユイの汚れのない瞳を見られなくなった。

「……どうしたの?」
「……どうって?」
「なんか、いつもとちがうというか、……悲しそう?」

 何かあったのなら私が力になるよ、楽になるかもしれないから話して、私たち友達でしょう、そういってユイはリビングにわたしを連れて行き、甘くてやわらかい味がするホットミルクを持ってきた。はいっと渡されたマグカップ。てのひらから、じんわりと暖かい温度が伝わってくる。
 隣に腰を下ろしたユイが、本心から心配しているような、どこまでも真摯な色をした瞳で、熱心にわたしをのぞきこむ。ソファーの右側と左側に座りあったそれは、まるで、なんていうか、そう。ニンゲンがよくやる、“お友達”の本来の姿みたい。

「……ユイ」
「うん」
「あなたは馬鹿なのかな?」
「ええ?」

 ユイは、大きな瞳を更に大きく、くりくりと見開かせている。

「あんな事があったばかりなのに、まだわたしの事をお友達だと思えるなんて、ちょっと理解できない」

 マグカップを見下ろす。ミルクには白い膜がはって、表面がゆらゆらと揺れている。ニンゲンとは違い、これを口にしてもわたしの糧には一切ならない。こんなものを用意してもらう資格は、わたしには無いんじゃないだろうか。
 わたしは昨日、彼女を裏切ったのだ。一度ならず二度までも。
 次に会うとき、ユイはきっとわたしを“お友達”としては扱わないだろう。わたしはそう覚悟して過ごしてきたし、それが当たり前の事だと思っていたのに、わたしは今ユイお手製のホットミルクを握りしめている始末。彼女の頭の中が理解できない。人間はもっと、計算のできる生き物だと思っていた。

「昨日、ユイはわたしに助けて欲しかったんでしょう? わたしは逃げた。ユイは以前、わたしを助けてくれたのに」
「確かに、昨日の事はすごく悲しかったけど、でも、ナマエちゃんにも事情があったんだろうし、私はこうしてピンピンしてるし、深く考えても仕方がないかなって」
「……え?」
「少なくとも私はナマエちゃんの事を友達だと思っているし、友達が何かに苦しんでいるなら力になってあげたいよ!」

 マグカップを握りしめた両手の上から、ユイの小さくて可愛い両手が重なる。ふわりと弱々しいニンゲンの力だったけれど、それでもぎゅっと力を込めて、わたしの手を包み込んでいた。
 なんてお馬鹿で能天気な子なんだろうというのが、率直な感想だ。こんな生易しいことばかりを言っているから、兄弟たちに付け入られて、ヴァンパイアのご飯の身に甘んじる事になってしまうのだ。
 ユイは教会の子供だとレイジあたりに聞いた気がするけれど、わたしの住んでいた村の教会のニンゲンもよく観察していたら、こんな風だったのかな。それとも、ユイがとりたてて能天気なのだろうか。よくわからない。わからないけれど、胸の奥にじんわりと暖かいような、そう、このホットミルクとちょうど同じ温度のよく分からない気持ちが広がってゆくのを感じる。それから、ユイがわたしのてのひらを包み込んでいるのと同じような力加減で、胸が締め付けられる。
 胸の奥に沈んだ鉛の重さは、半分くらいが何処かに行ってしまったように感じた。
 ユイの顔は魔に属するわたしには、いつも眩しいくらい。だけど今は、ユイのわたしを見つめる真剣な顔をちゃんと見ていたいようなきがした。

「泣いてるの?」
「え?」
「やっぱり、なにかつらいことがあったんだね」

 だいじょうぶ、だいじょうぶ、と呪文を唱えるようにして、更につよく手を握られる。目の前のユイが、ぐにゃぐにゃと歪んでいる。理由はよくわからないけれど、確かにわたしは泣いているようだ。妖魔にも涙を流す為の器官が備わっているんだなあ、と、他人事のように考える。
 よくわからない事態になってしまったけれど、とわたしは改めて考える。胸の奥の鉛の重さが、更に軽くなったように感じるのは気のせいなのか。ユイを見ていると、目が眩むと同時に、なにか気分が楽になってゆくような心地がする。
 ――たぶん、これは。
 妖魔と言う立場上、あまり認めたくは無いのだけれど、わたしは認めなくてはならないのかもしれない。
 ユイのてのひらをふりほどいて、頬にまとわりついた水分を手の甲で強引に拭う。すぐそこにある彼女の首筋を瞳に写しながら、至って傲慢に、わたしはいい放った。


「ねえ、ユイ。最近さ、ユイからいいにおいがするんだよね」
「え?」
「彼らの妹だから、もう察してるとは思うけど、わたしにもヴァンパイアの血が流れてるのね」


 それでね……、と、首筋を眺める視線に熱を込めた。赤い小さな傷口が、幾つも点在する、細くて白くて柔らかそうな、甘あい香りのする首筋。美味しそうな首筋。
 ユイは気がついた顔になって、ばっとソファーから立ち上がる。細い肩はぷるぷると震えているみたい。これでいい。ユイはたぶん、優しすぎるんだ。ニンゲンだから。どすどすと絨毯を踏みしめて、ユイが遠ざかってゆくおと。そう、これでいいのだ。

 それから、また、どすどすと絨毯を踏みしめて、足音が近づいてきた。驚いてわたしが顔をあげれば、ユイがペーパーナイフを握りしめて、そこに立っていた。ぽかんと放心状態になるわたしを尻目に、左手の人差し指にぐいっとナイフの切っ先を宛がう。
 慌ててわたしが手を伸ばすのよりさきに、ぷちっと皮膚が切れた音がした。玉のようになった赤い血が、ユイの人差し指の先からじわりと染み出てくる。すぐさま空中に飛散する、濃厚な甘い香り。

「ちょっ、ユイ、なにして……」
「全部はあげられないけど、わたしの血で楽になれるのなら、少しだけ」

 ユイがマグカップの上に人差し指をかざす。ぽたん、ぽたん、一滴、二滴と血が落ちて、ホットミルクの乳白色に赤色がじわじわと広がっていった。血とミルクの混じりあった色は、なんだかおかしな色だ。

 流石のわたしももう、両手をあげて降参状態だった。ユイはどこまでお馬鹿さんなんだろう。わたしの知る限りのニンゲンの中で、一番のお馬鹿さん。胸の奥に沈んだ鉛が、殆んど存在を無くそうとしている。


「――ああ、もう、降参降参、分かった」


 マグカップの上に差し出された痛々しい傷のついた手をぎゅっと握って、それから、ポケットに入っていた絆創膏を、指先に巻いてあげた。


「まったく、女の子が自分から傷なんか作っちゃ駄目だよ」
「でも」
「いいから」
「……、ごめんなさい」


 わたしの悩みは――悩みと認めるのはあまりいいことのように思えないけれどこの際悩みと認めよう、悩みは純粋なユイには話すことは出来ない。だけど、降参だ。認めよう。

 わたしはたぶん、ユイの事が好きなんだ。

 もちろん、異性として意識しているわけではないし、同性愛に目覚めたわけでもない。ニンゲンの言う愛は多種多様あって、わたしがユイに優しくされるたびじんわりと胸の奥が暖かくなるこの気持ちとか、ユイの笑顔を眩しいと感じてしまうあの気持ちとかは、友人に対するそれなのだ。適当に仲良くしておくつもりが、ユイは本当のわたしの事を見つめようとしてくれているし、わたしも彼女に本物の友情を感じてしまったというわけだ。ニンゲンに友情を感じるなんて、なんて間抜けな妖魔だろうか。
 けれど、わたしが求めていた愛っていうのはきっと、自分を見てほしいっていう感情はたぶん。

 お城のピエール・ド・ロンサールを思い描く。それから、ママの育てていたピエール・ド・ロンサール。わたしは、認めなければならない。ユイは、ママによく似ている。可愛くて柔らかくて甘あい砂糖菓子みたい。わたしはきっと、ユイみたいに可愛い女の子が羨ましくて仕方がないのだ。甘くてふわふわな、誰にも愛される資格をもったニンゲンの女の子に、わたしもなりたいと、そう思っていたのだ。
 わたしはたぶん、一生かかったってそうはなれないだろうけれど、でも――。
 手元のマグカップを見下ろす。ミルクとは思えない白濁した赤色はやっぱりおかしな色で、なんだか気持ちまでおかしくなってきた。ふふっと笑ったら、ユイが首を傾げてこちらを覗き込む。


「ナマエちゃん?」
「……ありがとう」
「えっ? ううん、こちらこそ!」
「ねえユイ、ここで提案なんだけど」
「うん」
「わたしとお友達になってくれないかな?」


 ユイの訳が分からないといったぽかんとした顔は、とても可愛らしい女の子の顔だった。


20130626

   
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