逆巻家の地下から続くお城の庭には立派な薔薇園がある。香り高い品種や見た目に美しい品種、伝統のある品種など様々な薔薇が咲き誇る、とても美しい庭だった。
 アーチ状に設えた網を伝うピエール・ド・ロンサールの、青くたっぷりとした葉や蔦。柔らかな色をした大振りの花弁を広げうつむき加減に咲き誇るそれが、朗らかにわたしたちを見下ろしている。


「ねえ、レイジ。ピエール・ド・ロンサールは少しユイに似ていると思わない?」


 頭上のごく薄いピンク色を見上げながら言えば、レイジは一瞬、普段の完璧な雰囲気を打ち崩して拍子抜けというような顔を見せる。それから、理解しがたいみたいな、いつもレイジがわたしに見せてる顔に変化する。


「色が、でしょうか?」
「ううん、それもあるかもしれないけれど、違うの。イメージというか、なんというか」


 この薔薇園は、幼少の頃からわたしが慣れ親しんだママの薔薇園によく似ていた。規模は全く違えど、咲いている品種や配置は、ママの薔薇園をそのまま大きくしたようだった。もしかしたらママも昔同じようにここの薔薇達に囲まれる事があって、この場所をモデルに薔薇園を作ったのかもしれない。
 だからなのかここにいると、わたしは故郷に帰ったような気分になり、心が凄く穏やかなものになる。

 ママの薔薇園のアーチに伝うピエール・ド・ロンサールもそれは見事なものだった。気高い凛とした佇まいのものが数多い薔薇の中、そのつる薔薇は全てを受け入れて包み込むようなおおらかさと、優しく見守ってくれるような柔らかさと、それから可愛らしさや上品さを持ち合わせて一際に目を引いていた。わたしはそのアーチを見上げて、ママみたいな薔薇だなってずっと思ってた。
 けれどどうだろう、今はあのつる薔薇の印象に、ユイの姿が、とりわけユイの全てを包んでくれるような笑顔が重なって写る。ユイはママに似ている。前々から気づき始めたこの考えは、今や目をそらせないものとなり、頭の一部を占めていた。


「それはまた、抽象的な話ですね。ここの薔薇の手入れをしているのはもちろん私ではないし、私は園芸の趣味や、薔薇に対する特別な思い入れなどは持ち合わせていないですから。貴女の話にはなんとも共感し難い」
「そんなに深く考えてくれなくても、なんとなくのイメージなんだけどなぁ」
「下らない。貴女もそんな下らない話の共感を得る為、私を呼びつけた訳ではないでしょう」


 一刀両断話を脇に追いやると、早く用件を話せと目で語る。確かにこうして薔薇に包まれながら過ごすのは心地よくて、世間話に花も咲くというものだけれど、わたしだってそんな事の為にレイジを呼びつけた訳では無かった。潤滑剤としてくちびるを舌で湿らせてから、口を開いた。



「最近、ユイから凄くいい香りがするの」

 とろりと甘い、蜂蜜みたいな印象の、絡み付くような香り。けれどそれが蜂蜜の香りだったら、わたしは甘いとは思ってもいい香りとは思わなかっただろう。マカロンやチョコレートケーキのようなお菓子の甘さとも違う。今現在辺りに漂う薔薇の香りのような花のものとも赴きは違えるし、香水の香りという訳でもない。近くに居るだけで鼻腔に忍び込んでくる香りにたちまち唾液が溢れだし、頭がくらくらしてくる。本能に訴えかけ抗い難い強い衝動を煽る、甘い甘い香り。それは今までに無い感覚だった。
 この感覚に唯一似ているとすれば、そう。おいしそうな男を目の前にした時精子を頂きたいって思う感覚は、ちょっとだけ似てる。本能からの衝動。
 そんなような事を必死に説明するわたしの話を、レイジは当たり前のような顔をして聞いていた。


「わたし、どうしちゃったのかな。まさか同性愛に目覚めたって訳でも無いだろうし」
「貴女が目覚めたのは同性愛ではなく、ヴァンパイアの血にではないのですか」
「わたしがヴァンパイア化しているって?」
「ええ、貴女の中には半分、ヴァンパイアの血が眠っている。そしてそれが人の血を欲するのは、どこも可笑しな話ではないと思えますが」
「今まではこんな事、無かったのに?」
「我々と共に生活する中で貴女の中で忘れかけていたヴァンパイアの血がついに顔を表した、といった顛末でしょう」
「……うわあ」


 驚きの声というよりもうんざりした声を漏らしてしまった。逆巻の屋敷で暮らす事になって、わたしが一番に危惧していた事態だった。もしかしたらそうなんじゃないかと自分でも思っていて、レイジを呼んだのは確認作業の為だったのだけれど、見事に予想通りの結果だ。願わくばわたしの予想をレイジが覆してくれたなら、今日も安心して眠れたのに。
 周りを取り囲む薔薇にすら嘲笑われているような気持ちになってくる。


「特に、小森ユイの血は他の者よりも上質ですから。彼女に対する吸血衝動はいかに中途半端な貴女といえど抗い難い」
「完璧なヴァンパイア様であるレイジはさぞ凄い衝動に駆られているんでしょうね」

 ふふんと鼻を鳴らしながら言ってみる。完璧な八つ当たりだったのだから、レイジに睨まれてすぐにわたしが小さくなってしまったのは、自業自得だったのだけど。















 地下から屋敷に戻る螺旋階段を登っていると、とろりと甘い香りが漂ってきた。その香りは階段を一段上がるにつれて、だんだんと濃く、濃密になって、鼻腔を満たしていった。まるで空中に漂う香りの粒子ひとつひとつが磁石のような働きをして、わたしを引き寄せんとしているような、そんな誘惑を孕む香り。
 今日は一段と強くて濃い、甘い香りがする。レイジの言う通りわたしがヴァンパイア化していて、嗅覚が強くなっているのかな。それとも、誰かがユイの事を吸血しているのかもしれない。

 廊下に続く扉を押し開けた瞬間に、空気中を占領するこの誘惑の香りの原因が判明した。


「そうだよビッチちゃん、暴れないでね」
「……っ」

 ユイとライトがいる。
 壁際に追い詰められたユイの首筋から、どくどくと滝のようにあふれでていた。彼女に覆い被さったライトが、まるで理性を無くした獣のように、あふれでた血をなめ回しているのが見える。ちろりちろりとのぞく、赤くてぬらりとひかる舌先。ぴくんと小さく反応する、ユイの細い腰。

 ごくりと唾を飲む。

 まるで性行為そのものを見せつけられているような、なんともいえない艶めかしい光景だった。ユイが吸血されているのを見るのはこれが初めてではないけれど、こんなにも胸がざわざわするのは初めてだった。むせかえる程の甘い香りはどんどんと甘くなり、こちらまで酔ってしまいそう。

 ぎゅっと目を瞑ってただ耐えているユイは気づいていないようだったけれど、ライトはすぐにわたしに気がついたようで、くるりとこちらを振り向いた。普段よりも血色がよくなった頬と、血のいろをしたくちびるが、綺麗。


「やあ、サキュバスちゃんじゃないか。いやだなあ、そんなところで覗きだなんて。ビッチちゃんが興奮しちゃうじゃない」
「……こんな廊下で始めてるほうが悪いんじゃないかな」
「んふ、ボクには見られたってなんら困る事はないからね。むしろもっと見てほしいくらいさ」


 会話が耳に届いたのだろうか。はっとしたように、ユイが固く閉ざした瞼を持ち上げる。こちらを見て、ただでさえ紅潮した頬を恥ずかしそうに染めて、身じろぎをする。


「ああ、ほら、ビッチちゃんが興奮しちゃったじゃない」
「嫌がっているように見えるのはわたしだけかな?」
「ビッチちゃんは嫌がる“ふり”をするのが得意だからね。ほーら、暴れちゃ駄目だよ」

 ぐいっと壁に押し付けられて、ニンゲンの力では到底抗えない力に、ユイは大人しくなった。相変わらず恥ずかしそうな顔で、こちらをちらりと見ては、目を伏せる。その瞳の奥のほうには確かに吸血に対する快感の色も見ては取れるが、恐怖心の方が大きそうだった。その目尻には屈辱の涙が滲んでいるのだ。わたしに、助けを求めているように思える。


「“ふり”、には見えないけれど」
「分かってないなぁ。それとも、サキュバスちゃんも交ぜてほしいの? さっきからビッチちゃんの事、物欲しそうな目で見てるけど」

 指摘されて、はっとする。首筋でぬらぬらときらめく、すでにこびりつきはじめた赤色に、どうしても視線を奪われている自分に気がつく。

「んふ、どうしてもって言うなら、交ぜてあげるのもやぶさかじゃないよ。女の子同士っていうのに興味もあるし」
「まさか!」


 思わず大声が出てしまった。先が見えない程の長い廊下に、悲鳴に似たわたしの声が反響してゆく。恥ずかしくなってぶんぶんと首を振ったら、見透かしたようにライトが笑った。くすくすと絡み付いてくる笑い声に、思わず目をそらしてしまった自分が凄く悔しい。ぎりっと奥歯を噛み合わせる。


「……なんでもいいけど、ほどほどにしてあげなよ」


 それだけ何とか吐き捨てると、わたしはその場を後にした。すぐに再びライトが吸血を始めたおとが背後から聞こえてきたけれど、コツンコツンと響くわたしの足音が被さって、掻き消してくれる。絡み付くような甘い香りは、背後からずっと、何処までもわたしを付け回す。
 わたしは逃げたのだ。
 以前こんな状況になったとき、ユイはわたしを助けてくれた。けれどわたしは、ユイとは違う。わたしは砂糖菓子のように甘くて、ふわふわした女の子じゃない。いくら願っても、ピエール・ド・ロンサールにはなれないのだから。



20130627

   
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