「おい、ナマエは居るか!」
がらりとドアが開かれるなり教室じゅうの端から端まで響き渡ったのは、わたしの聞き間違えじゃなければアヤトの声だった。それが聞こえたのは、今日も今日とてわたしの平穏な学校での一日が終了しようとしていた時である。
咄嗟に顔をあげたらやっぱり真っ赤な髪の毛と翠の瞳とが開かれた教室のドアの向こうにあって、すっかり帰り支度を終えているらしく鞄を肩にぶら下げているアヤトが突っ立っている。きゃあっと黄色い悲鳴や囁きあう声が聞こえてくる。逆巻兄弟っていうのはこの学園ではいろんな意味で有名らしいと、ここ数日で自分自身で体験していたため、教室がちょっとしたパニックになるのも頷ける。
「ああ、アヤト、どうしたの?」
ちょうどわたしも帰り支度を終えたところだったから、鞄を肩にぶらさげて、いろんな意味でざわついているクラスメイトのあいだを縫う。わざわざ一学年下の教室まで足を運ぶなんて、よっぽどの事だろう。
「一緒に帰るぞ」
「はい?」
「なんだよ?」
「あのアヤトがわざわざわたしを迎えに来て、一緒に帰るだなんて、何事?」
そもそも、毎日とは言わないにせよリムジンに乗り込んで一緒に帰っているのだから今更のような気がしないでもない。ぱしりと腕を掴まれて、教室から引きずり出された。
「ついてきたら分かる。つーかオマエに拒否権なんかねぇんだから、ぐちゃぐちゃ言わずオレに付いてくればいいんだよ」
「もしかして歩き?」
「んなの当たり前だろ。のろのろ歩いてんじゃねぇ、きびきび歩け!」
はいはい、分かりましたよアヤト様。わたしは彼らの奴隷のようなものなので、アヤトが来いと言ったら、とにかくその背中について行くしかないのである。
「……これは?」
アヤトに半ば引きずられながらきらびやかな夜の街を歩いた。連れてこられたのは様々な店が立ち並び、賑やかさに包まれた通りだ。こんな真夜中の時間帯、殆どのニンゲンはお家でぐっすり夢の中なのかと思っていたけれど、ここの人通りの多さを見ると考え直さなくちゃという気にもなる。
わたしはその時人混みの中、アヤトに渡されたパックに入った、ブラウンの丸い謎の物体を見下ろしながら首を傾げていた。その球体からはほかほかと湯気が立ち上って、嗅いだことのない香ばしいにおいが漂ってくる。さっきアヤトがそこのスタンドで購入していたから、食べ物ではあるようだけれど、見たことがない。この国の食べ物だろうか。
「たこ焼きだ」
「……それはなあに?」
「オマエたこ焼も知らねぇの? この世界で一番うまい人間の食いもんだ」
まあ食ってみろって、とアヤトが自信満々に促す。
再び手元のパックを見下ろす。相変わらずの茶色い球体がぐったりしながら、六つぶほど整列していた。上に乗っかった木屑のようなものが、まるで命をもっているかのように踊り狂っている。奇妙な光景だ。怪しい。これが世界で一番の食べ物だとは、とうてい思えないのだけど。というか再三確認するけど、アヤトはヴァンパイアじゃなかったのか。どうしてわざわざ買い食いまでしてるんだろう。
「べつに、食べたくないんだけど」
「はあ? このオレ様がわざわざ勧めてやってんのに、食わねぇとか言わねーだろうな?」
パックをアヤトに返そうとしたら、いいから食えと押し戻された。
どうやら逆巻アヤトはこの謎の食べ物――たこ焼教の熱狂的な信者、いや、教祖様であるらしい。わたしがこの謎の物体を口にして、「おいしい」と認め、そしてたこ焼教の熱狂的信者に仲間入りするまで解放してもらえないようだ。珍しく一緒に帰ろうなんて誘うから何事かと思ったけれど、彼には信者を増やすという任務があったに違いない。
仕方がなく球体に細い棒――ええと、たしか、“つまようじ”という名前だといつかユイが言っていた気がする棒を、フォークの要領で突き立てて、口に運ぶ。恐る恐る、そっと一口かじる。
「……おいしい」
なんということだろう。適当に誉めておこうと思ったけど、その美味しいは本心からのおいしいだった。球体の中身はとろっとしていて、火傷しそうなくらいに熱々で、ソースの香ばしさが鼻腔を突き抜け、初めての食感と味が舌の上にとろりと広がって行く。かなり、おいしい。
夢中になって歯応えのある蛸を咀嚼しているわたしに向かい、アヤトはにやにやと頬をゆるめた嬉しそうな顔をする。
「だろ? この店のが一番うまいんだ」
多分このたこ焼という食べ物を生み出したのはアヤトじゃないと思うんだけど、まるで自分の作品を誉められたかのように得意気だ。少年のような無邪気な瞳は、ちょっと可愛いとか思ったりして。ヴァンパイアにも、こんな一面もあるのか。
もうひとつ食べようと新たな球体に爪楊枝を突き刺して口に運ぼうと思ったら、すぐ隣からアヤトの頭が割り込んできた。わたしのくちびるのすぐ前にあった二つ目のたこ焼は、ぱくりとそのまま、アヤトのくちびるの中に消えていった。頬を、アヤトの髪の柔らかな感触が撫でて行く。
「ああ、わたしのたこ焼」
「はぁ? 誰のたこ焼だって?」
「わたしのたこ焼」
「バァーカ、これはオレのたこ焼だっつの」
「だってさっきわたしに食べろって……」
「誰が全部食べろって言ったよ、ほら、よこせよ」
わたしのてのひらからたこ焼のパックと爪楊枝が、アヤトによって強奪された。
「可愛い妹に食べ物を奢ってくれる優しいお兄ちゃんにでもなったのかと感心してたのに」
「オレの目には見えねぇな、可愛い妹なんてもんは」
アヤトはわたしに見せつけるようにちらちらこちらを見ながら、たこ焼をもぐもぐしている。わたしの胃袋に収まるはずだったたこ焼は、次々とアヤトの口に放り込まれていった。たこ焼教の教祖様は一度入信した者に対しては、至って冷血な仕打ちをするらしい。
ママ、今日も逆巻家は平和です。
20130622