焼きたてのオムレツの真ん中のトロトロの部分とか、雨上がりの蜘蛛の巣のキラキラとか、コウモリが大好きな子に想いを伝える時に出すこえとか。わたしがそれを例えるならたぶん、そう例える。他のものよりも少しだけ特別で、輝いていて、素敵な存在。

 そのお屋敷は確実に、この街で一番のトクベツだった。

 なだらかな階段をのぼった先の少しだけ高い土地に聳えたつ、歴史を感じさせるくすんだ色の壁。煤色に包まれた屋根と、屋敷を取り囲むうっそうとした緑。庭は綺麗に整えられていて、空から見たらまるで箱庭みたい。壁に伝う蔦が醸し出しているちょっとだけ怪しげな雰囲気も味わい深い。
 ただのニンゲンが寝泊まりする為の建物にしてはいいセンスをしていてちょっと悔しい。芸術には全く興味がないけれど、月と夜とが綺麗に映える建物は本当に価値のある物に感じる。



 ここと決めた街に空から降りて来る途中。わたしの目に止まってしまったのが、センスあるその屋敷の持ち主の運の尽きだった。サキュバスに目をつけられるだなんてある意味では運が良かったとも言えるのだけれど。空から見てこの街で一番大きそうなその屋敷に目が行ったのは運と言うよりは必然だったのかもしれない。どう考えても、わたしを呼んでいるように思えてしまった。サキュバスが男を誘惑するときみたいに腰をくねらせながら、「忍び込んでくれ」って訴えてるの。

 特に逆らう理由もないし誘われるがままにそこに忍び込む事に決めたわたしは、大きく迫り出している木製のバルコニーにそっと降りたって、ひとつ深呼吸をする。やっと地面と足とをくっつける事が出来たという安心感と、これからの初めての仕事に対する緊張感がぐるぐると混ざったものが唇から吐き出されて行く。少し目眩がするのは長旅による疲れからであって欲しいものだ。いまから怖じ気づいてなんかいたら話にならないし。



「……いこう」


 震えそうになる手足を大丈夫だと諌めて、そっとカーブを描く大きなガラス戸に手をかける。ひんやりとした感触。カーテンに遮られ向こう側は伺えないが、人が動くような気配や衣擦れの音は聞こえてこない。大きな屋敷だ、大小様々な沢山の窓が取り付けられていたけれど、そのどれからも灯りは漏れていなかった事は既に上から確認済み。唯一屋敷から少し離れて階段の下にあった街灯だけが誰にも頼りにされず寂しく瞬いていた。きっとこの街のニンゲンはまだ活動していないはず。ニンゲンの中には夜に活動する者もいるらしいけれど、少なくともこの屋敷の住人は大丈夫。音をたてないようそおっと忍び込む。不用心な話だけど不思議と鍵は掛かっていなかった。




 まるでちっぽけなネズミにでもなった気分だった。夜中に人の家をこそこそと徘徊して、そこいらじゅうをかじり回る。つるつるに磨かれて鏡みたいになっている廊下をそっと歩き、いくつかの扉をくぐる。あれだけ窓があったのだ。全ての部屋にニンゲンが居るとは思ってなかったのだけど、3つ目の扉をくぐって中を覗いた辺りから不安がもたげ、違和感を感じ始める。
 タンスやベッド、生活に必要な家具が揃えられた部屋。薄っぺらい書物や筆記用具、カバンや帽子、それに脱ぎ散らかされたような洋服なんかも見受けられる。今まで見てきた部屋は各々個性はあれど概ねそんな感じで、客間というよりは日常的に使っている部屋といった感じ。だけれどベッドの上には誰もいないし、それよりも明らかに異様な雰囲気を醸し出しているが床の上にぞんざいに置かれた棺桶だ。

 ここで当たり前といえば当たり前すぎる疑問をあげるとすれば、……なんで棺桶?

 更に言えばこの部屋のひとつ前に覗いた部屋には中世の拷問器具、アイアンメイデンなんかが放り出されていたりした。全くもって意味が分からない。ひとつ時代を間違えている気がするのだけれど。この現代において、そんなものを使っているニンゲンがいるのだとしたら、ニホンというのはわたしが想像していたものよりも遥かにおかしな国なのかもしれない。

 それともこの屋敷は一昔前の遺物で、今は空き屋だとでもいうのだろうか。現代のニンゲンの建造物と比較して少し古すぎるような気がするし、なにより住んでいるにしてはニンゲンの気配が無さすぎる。恐いくらいにしんと静まり返るのみの空気。けれどニンゲンが住んでいないというにしても、それはそれで妙。綺麗に整いすぎているのだ。屋敷の掃除や飾り立てられた芸術品の手入れは、一体だれがしているのだろうか。

「……悩んでても仕方ないか」

 今は前進あるのみだ。





 不安を抱えながら階段を下りて少し歩くと今までよりも広い部屋へとたどり着いた。リビングだろうか。天井のシャンデリアはもちろんの事、奥に見える暖炉にも火は灯っていないから、少しだけ肌寒いような気がする。室内にゆっくりと視線を這わせる。月明かりを取り込む半月型の窓のお陰で暗くはないし、わたしたちは夜目が効く。絵画やシャンデリアといった豪奢な調度品に、部屋への真ん中に据えられた品のよいテーブルとベルベットのソファー。


「……あ!」


 次々と視線を移す過程で思わずこぼれてしまった声を、しまい込むようにして口許に両手を添える。よくよく見たらソファーの上に、人影があるではないか。もちろん手を添えたところで一度出た声が戻るわけではないのだけれど、幸いにしてソファーの上のニンゲンはわたしの声には気が付かなかったらしい。気にもとめず身じろぎひとつもしなかった。

 彼、もしくは彼女を起こさないようにそっと近づく。願わくは彼であって欲しいと思いながら。不自然なほど静まり返っている屋敷の中、鳴っているのは自分の息をする音だけなんて気がする。息を吐く音ですら静寂の中ではこんなにも響くなんてじめて知った事実だ。

 そっとソファーを覗き込むとはちみつ色の髪の毛をした男の子が身体を沈め、目を閉じていた。男の子と言うには育ちすぎているけれど、大人と言いきるにはまだ少し早い。ちょうど外見だけ見ればわたしと同じくらいの、ニンゲンの、若い男。もちろんわたしとニンゲンの彼とじゃ大分過ごしてきた年月は違うだろうけど。

 そのニンゲンを初めて網膜に映した時のわたしの正直な感想がこれだ。

 ……きれい。

 もう少し気を抜いていたらきっとそう口に出してしまっていただろう。そっと両手で彼の両の頬を包み込んで、彼が溶けて本物のはちみつになってしまうんじゃないかってくらいに凝視する。短く切られた今にも透けてしまいそうなハニーブロンドの髪は絹糸みたいにさらさらで、はちみつを垂らしたみたいにつやつやと輝いている。陶器のように滑らかな白い肌。髪と同じ色の、今は伏せられている睫毛は長い。眠っているというよりは綺麗な人形が目を閉じているといった感じ。作り物みたいで生気が感じられない。
 ニンゲンが描くお伽噺を読んだことがある。それに毎回のように登場する王子様というものはきっと、こんな人だったのではないかと思う。実在するとは思っていなかったし、わたしは実際、こんな風に眠るニンゲンを初めて見た。こうして間近でニンゲンを見るのは実は初めてだったのだけれど、遠くから監察していたニンゲンって、果たしてこんな風だったっけな。分からない。

 分からないけれど、その不思議な魅力に取り付かれそうになっている自分にはたと気がついて、わたしは急に恥ずかしくなった。わたしはニンゲンを誘惑しに来たのであって、ニンゲンに誘惑されに来た訳ではないのに。どうしたというのだろう。

 ぶんぶんと首をふり余計な考えを追い出す。ママに教わって何度も練習したのを記憶から捻り出してきて、彼の柔らかそうな前髪に触れてそっとかきあげる。実際に触れてみると想像よりも少しだけ硬い。そして現れた彼のおでこと自分のそれをそっと合わせて目を閉じる。ニンゲンにしては彼の額はひんやりと冷たくて、わたしの脳も冴えてくるよう。彼の理想の女性像を探り当てなくては。


 頭と頭を合わせることで直接ニンゲンの脳味噌にアクセスをして、そこに蓄積された記憶や意識、思考回路から好みの女を探り出す。普段女なんて興味がないなんてふりをしているような男だって、実際に興味がない男だって、その意識水面下では必ず好みのタイプがある。それは遺伝子レベルでニンゲンに刻まれている子孫を残すための本能と直結したなんたらかんたら、とママが言っていた気がするがそこから先はよく覚えていない。とにかくわたしの仕事は膨大な意識や記憶の中からそのニンゲンの求めているものを探りだし、暴き出し、演じる事だ。こうして額をとられた限り、その意識を覆い隠す物はない。もう彼は裸にされたも同然。

 ……の、筈なんだけれど。

 暫く目を閉じてそうしていたのだけど、一向に額の向こうの意識が伝わってこない。伝わってくる意識のそのあまりの膨大さに好みのタイプが探り当てられないなんていう失敗ならよくある話だ。だけど、意識自体が伝わってこないなんて言うのは、ちょっとない話だ。これは一体どういうことだろうか。必死になっておでこに神経を集中させるけど、やっぱり何も音沙汰なし。なんだかごく情けないような気分になってくる。



「あんたさっきから人の顔をつかんだり頭擦り付けたり、やりたい放題だな」
「………………えっ」


 ふいに聞こえたその声で、わたしの集中力は一気に霧散する。声、わたしの下から聞こえてきたような気がするけれど。この部屋にいたニンゲンといえば一人だったし、そもそもこの屋敷で出会ったニンゲンだって一人しかいない。つまりわたしが思うに、これが長旅の疲れによる幻聴じゃなかったのだとしたら、たぶんその声は、


「な、ななな、何で起きて…………」


 目を開けてみれば、当たり前のようにわたしの下にあるそのニンゲンの二つの瞳も、わたしの事を面倒臭そうな様子で見据えていた。雨上がりの森の中みたいな色の瞳。ぱくぱくと口を開け閉じしながらも、そのつややかな深い青に吸い寄せられるように視線を奪われている。まただ。不思議な力を感じる瞳。目が反らせない。


「知らない奴が勝手に忍び込んできてまとわりついてきたら、嫌でも目覚めると思うけど?」
「お、音をたてないようしてたのに! なんで……なんで!」
「ハァ……うっとおしいな。そんなもの気配で分かるだろ」
「ていうか君、起きてたの? いつから?」
「あんたが入ってきたところから」
「全部じゃない。起きてるなら目、開けてよ」
「あんたうっとおしそうだった」


 実際うっとおしいしな、なんて本当に鬱陶しそうな気だるげな声が言う。
 しかし訳の分からないニンゲンだ。意識を探られている最中に覚醒出来るニンゲンというのもまず聞いたことがないし、起きたら知らない女が目の前に居たこの状況で、このどうでも良さげな対応は一体。近所の猫や犬が迷い込んで来たなんて場合の方がよっぽど大きなリアクションが貰えそう。


「……って、ちょっと」

 ぐるぐると考えている間に、何を思った目の前の彼は、首もとで控え目な存在感を放っていた音楽プレイヤーらしき物体をいじりだした。好みの音楽でも再生してるのか、イヤフォンを耳元に持っていこうとしていたので流石にそれは阻止する。慌てて両手をむぎゅっと掴んで、顔を覗き込むと途端にすごく嫌そうな顔があらわれる。


「なに、俺の邪魔しないでくれる」
「いやいやいやちょっとおかしいよね。君随分冷静だけど、普通“知らない奴“が忍び込んで来たってわかったならもう少し騒がないかな?」
「煩いな、どうでもいい」
「えええ、この状況でそれはどうなの……」


 襲われたニンゲンよりも襲った方が慌てているというのも大概おかしな話だけれど、慌てるわたしにたいして彼といえば相変わらず。面倒臭そうな顔でのんびりあくびなんかしてる。なんだか眠そうだ。知らない奴に両腕拘束された状態ですら、どうでもいいのか。イヤフォンを着けるのは諦めてくれたみたいだけれど、ソファーに沈めた身体を起こそうとすらしない。なんて動じないニンゲンなんだろうか。ふん、そうかそうか、ならばこっちだって考えがある。
 再び眠ろうとでもしているのかすっと瞳を閉じた彼の額に、わたしも再び頭を乗っける。ぎゅうと両腕は掴んだままソファーに押し付けてやった。眠りたいのなら眠ればいい。これは奥の手になるのだけど、サキュバスは額を合わせたニンゲンを強制的に眠りにつかせる術だって使えてしまうのだ。さあ、眠ってしまえニンゲン。


「……なああんた、俺を襲いにでも来たわけ?」


 再びの面倒臭そうな声。短時間しか一緒に過ごしていないわたしにすら彼の面倒臭そうな色をした瞳が容易に思い起こされて、目を開くのが嫌になった。そうですね、効くわけありませんよね。分かってたけどね。


「襲いにきたというか……まあ、間違ってはいないけどね」
「そんな格好で男を誘惑しようだなんて、たいした度胸だな、あんた」
「う……。そこはほら、触れないでもらえるとありがたいかな」


 顔の辺りから腰の辺りまでじっくりと見上げられて、馬鹿にするように笑われた。確かに長い空の旅を終えた直後のわたしといえば、入念にとかしつけてきた筈の髪も、長い時間をかけて選んだお気に入りの服やアクセサリーだって、見てられない程のぐちゃぐちゃっぷり。まさに嵐の後のような格好だ。自覚がありすぎるのだから反論をする気もおきない。だけどその人をくうような笑みは常識とか外聞をとにかく気にする種族、ニンゲンとして如何なものだろうか。
 そもそもサキュバスは相手の理想の女に化けるのだから、本来ならば本人の魅力なんかどうでもいい話。つまり理想の女を読ませないこの男が全て悪いのだ。そうに違いない。



「別に大人しく襲われれてやってもいいから早くしてくれない」
「え?」
「ただし俺は指一本動かす気はないからあんたが勝手にやってくれ」
「うわー、人の正体も知らないでよくも不用心な」
「知ってる。あんたは夢魔だ」
「……わあ、ニンゲンのくせにわたしの正体まで知ってるのか」


 本当に何者だこのニンゲン、と思ったところで、目の前の瞳が「面倒臭そう」から「馬鹿を見る瞳」に変わったのに気がつく。


「な、なにその目」
「馬鹿そうな顔してるとは思ってたけど本物の馬鹿だったとは、っていう目」
「どういう意味?」
「まさかとは思うけど、あんた俺を人間だと思ってたわけ?」
「えっニンゲンじゃない?」
「ふん、人の正体も知らないでっていうのは、こっちの台詞だったみたいだな」


 なにを言っているんだろう。ぱちりと瞬きをする。その一瞬の隙に、彼の腕を掴んでいた筈のわたしの腕が、逆に彼に掴まれていた。これはどういう事かと考えている隙もなく腕をぐいとひかれて、気づけば目と鼻の先にあるのが彼の顔。再び、目がそらせなくなる。


「こんなに近くに居ても相手の種族すら見分けられないなんて、サキュバスっていうのは随分と馬鹿な種族みたいだな」
「……! えーっと、あの、つまり君……いや、あなたは」


 何となく分かってきた。彼の言葉を信じるならば、彼は人間ではないという事になる。確かにわたしの術はニンゲン以外には効きにくいし、わたしよりも魔力の強い存在には殆ど効果がない。彼の瞳のもつ不思議な吸引力のようなものの理由を理解する。ああ、つまり、とカチリと歯車が噛み合うあう音がする。


「もしかして、あなたは悪魔やヴァンパイアみたいな――」
「ヴァンパイアだ」
「う……」

 くらくらしてきた。

「うわーうわーうわー、わたしはなんて恥ずかし勘違いを」


 慌てて腕と身体を離す。両手で顔をおおってもう前が見られない。ニンゲンの屋敷に忍び込んだつもりで、ヴァンパイアの屋敷に忍び込んでいたとは。考えただけで鳥肌が立ってくる恐ろしい自体だ。そしてそれ以上に恥ずかしい。まさかニンゲンの住む街にヴァンパイアのお屋敷が建っているだなんて誰が考えよう。仕方がないじゃないか。


「で、俺待ってるんだけど。襲わないの?」
「お、襲わない襲わない」
「ふうん、じゃあ早く消えてくれる。あんたみたいなのに耳元でぎゃあきゃあ騒がれたおかげで、すっかり目が覚めたんだけど?」
「わ、わかった! 今すぐ消える!」


 よくよく考えてみたら目の前の彼がニンゲンな訳が無いのに。背後からふわりと沸き立つような、何処と無く心地いいオーラというか、なんというか。それは彼から漏れ出る魔力に、わたしの本能が無意識に引き付けられていたからだったのか。幸いな事に彼はだるそうに寝転がるばかりで、わたしの馬鹿な勘違いに腹を立てている様子もない。

 今のうちに逃げてしまうが吉。そう判断したわたしは、彼から1歩足をひく。ヴァンパイアの領域を犯しただなんて、自殺行為もいいところ。ライオンに捕まったヌーみたいにばりばりと食べられたとしても文句はいえない事態なのだ。わたしはそんなのは嫌なので逃げさせてもらおう。


「あ、あの、いちおう謝っておくね……ごめんなさい。じゃあ、さようなら」
「満月の夜は喉が渇く」
「……へ?」


 そのままそっと身を翻す予定だったけれど彼が小さく呟いた言葉に、身を固める。それはわたしに向けてというよりも、独り言が漏れでたというような声色だった。


「俺はあんたには全く興味がないし、あんたが消えてくれるならそれで満足だ。今日が満月じゃなかったらきっとあんたも逃げられたんだろう。……だけど残念だったな」
「どういう意味?」
「迷い込んだ哀れで愚かな子羊は今日が満月ばかりに飢えた狼に嗅ぎ付けられてしまうんだ。可哀想に」
「訳が分からないんだけど」


 だけど何故だか寒気がする。ごくりと喉を鳴らすわたしに、もう彼は何も答えはしなかった。けれどその代わりに、口角を片方だけ吊り上げるとその綺麗な顔を歪ませててみせる。彼の瞳にわたしはうつってはいない。視線はわたしの方に向いていたけれど、その焦点は僅かにわたしから外れ何処か一点に集中しているように見えた。そう、わたしの背後、わたしがこの部屋へと足を踏み入れた扉の方へ。たらりと冷や汗が流れる。紫色のまがまがしい物体が禍々しいオーラを撒き散らしながら、背後でこちらを伺っている。そんな錯覚を覚える。全神経が背中に集中している。なんだというのだ。わたしは恐る恐る、ゆっくりと振り向いてみた。

 誰もいないし、何もない。

 そこにはわたしがこの部屋に入ってきた時と同じ、繊細な装飾の施された扉がはまっているだけ。万が一何かあった時に素早く脱出できるよう、半分開けっぱなしにしたのもそのまま。隙間からは誰もいない長い廊下が延々と続いている様子が見える。

 首を捻りながら再び視線をソファーの上に戻したら、既にそこに気だるげな彼の姿はなかった。空っぽのソファー。座り心地良さそうなベなめらかな生地があるだけ。乗っているとしたら、空気くらいのもの。すこし目を離した隙に、一人になってしまった。音もなかったし、風や空気の振動すらも感じなかった。こんなところでやっぱり彼は本物のヴァンパイアだったんだな、なんて実感させられてしまう。残ったのは彼の残した謎めいた言葉のみ。かといってこうやって突っ立って思考の海に身を投じている訳にもいかないし、わたしも早くここの屋敷から離脱しなければ。再びくるりと身を翻し、身体を出口へと向ける。



「やあ、サキュバスちゃん、こんばんは」
「……!」



 そこでは一つ二つ三つ……、先程までは確かに誰も存在しなかったはずの空間で、興味深々といった様子のヴァンパイアらしき影たちがこちらの様子を伺っているのだった。


20130106

   
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