頭がいたい。ずきんずきん、ぐわんぐわん、軋んで重たい。小麦はきっとこんな不愉快な痛みを経てから、小麦粉に生まれ変わるんだろう。まるで臼で磨り潰されているみたいに響く鈍い痛みが神経を確実にすり減らしてゆく。
 睡眠不足による頭痛に苛まれる頭を撫でながら、ゆっくりとベッドから起き上がった。持ち上げた頭が感じる、“いつもと違うな”って感覚。いつもと違うスプリングの弾力。いつもと違うにおい、おと、景色。ぐるりと見渡したらぐちゃぐちゃに散らかった、まだ見慣れない、けれど知らないわけではない部屋の内装が視界をおおいつくし、頭痛が酷くなるようだった。
 目覚めたら逆巻家唯一のわたしのテリトリーにいた。どうやら昨日の出来事は、夢ではないらしい。
 あの後部屋に帰ってみたらライトやカナトやアヤトの姿が消えていた代わりに、部屋の中が信じられないくらいぐちゃぐちゃに散らかっていた。ひとの部屋でどれだけ大乱闘を起こしてくれたんだろう。それを軽く片付けてベッドに潜り込む頃には既に朝日がのぼっていたので、わたしの睡眠時間はごく僅かなものだった。その昨日なんかは森での野宿だったし、深刻な睡眠不足だ。だけど今日は早起きをしようと決めていたのから、このままベッドから出ない訳にもいかない。重い身体を動かし身支度を始める。









「ああ、貴女ですか。おはようございます」
「……おはよう」

 昨日レイジに場所を教えて貰っていたダイニングの扉を押した瞬間に、当のレイジ本人と居合わせた。ぴたりと立ち止まり、気まずいようながっかりしたような気持ちで曖昧に挨拶を返す。
 わたしが今日早起きなのには、もちろん理由がある。実は、逆巻家の誰にも会わないような早いうちに起きて街に繰り出し、そして日がのぼるぎりぎりに帰ってきて寝泊まりだけ逆巻家で行おう作戦、を企てていたのだ。つまりこんな場所でレイジに遭遇している時点で作戦は早くも失敗らしい。まあ、わたしも流石にこんな作戦が上手く行くとは思っていなかったけれど、テンションが下がるのは仕方がない。レイジは兄弟の中でも特に聡いらしいので、露骨にがっかりした表情が表に出ないように必死だった。


「この家の者たちはこんなに早く起きては来ないので、驚きました。随分と早い目覚めですね」


 感心しました、とでも言いたげなレイジに少しだけ馬鹿にされているような気がするのは気のせいか。
 別にわたしは普段から早起きというわけでもないし、随分と早い目覚めなのはむしろレイジの方だと思うのだけれど、彼はこんな時間からなにをしているのだろう。優雅な足取りでダイニング内を動き回り、中央に据えられた長テーブルの上に、大小様々様な食器をいくつか並べている。まるでニンゲンたちが朝食や晩餐を楽しむときみたいな人数分の食器が、椅子の前に規則正しく配置されようとしていた。しかし彼らはヴァンパイアなので、ニンゲンのような形態での食事をする必要もないだろうし。謎だ。


「ねぇ、レイジ。なにをしているの」
「恐らくは貴女がたった今考えた事で正解でしょう。準備をしているのです」
「……準備?」


 それが当たり前というような顔で言ってから、大切そうに、愛でるように、白いシルクの手袋の指先でテーブルの上の皿の中の一枚をそっと優しく撫でる。元々この家に住んでいたのなら話も通じたかもしれないけれど、来たばかりのわたしには“準備”と単に言われても、せいぜい首を捻るモーションを起こすのがやっとだ。
 わたしが今考えた事といえば食事の準備に見えるって事だけど、彼らには血以外を口にする必要はないはずだし。やっぱりレイジの行動は謎の行動のまま。
 レイジはてきぱきと作業を続け、わたしには答えをくれなかった。首を捻ったままそれを見守る事になってしまったわたしに再びレイジが視線をくれたのは、テーブルの皿並べが終了した時分だ。せわしなくうごいていたレイジの手がぴたりと止まり、顔を上げた。レイジと視線が絡まる。
 どうやら彼のいうところの“準備”は終わったらしく、テーブルには綺麗に整列した食器たちがある。一ミリの狂いもなく並べられたそれらはレイジの性格を如実に表しているよう。


「さて。同居人として、貴女に言い含めておかなければならない事があります。よく聞くように」
「はあ」
「この家で暮らすにあたり、他の者が何をしていようが、特に別の者は干渉はしません。好きに過ごしてください。私としては貴女の良識に期待したい所ではありますが」
「……干渉しないと言うわりには、物凄く絡んでくる三人がいるのだけど。どうにかしてほしい」
「それはあの三つ子の勝手ですから、彼らに言ってください。先程自由に過ごしていいと言いましたが、しかし、わが家にはいくつかのルールが存在します」
「ルール……、それを守った上の自由、という訳か」
「ええ、物分かりの良い方は嫌いではありませんよ」
「分かった、守るよ。それで、ルールって?」

 レイジは眼鏡を押し上げるとテーブルの上をみやる。レイジによって並べられた食器が相も変わらず鎮座していた。食事を運んできて盛り付ければ、今すぐにでも豪勢な晩餐会を始める事が出来そうだ。

「まず一に、我が家にはたまにですが、こうして全員で食卓を囲み食事をする習慣があります」
「……まさか本当に晩餐会でもはじめる気なの?」
「ええ、それ以外に何があるのかと、逆に問いたいですね」
「わたしはあなたたちの事をヴァンパイアだと記憶していたけれど。血以外の食べ物を口にする行為に、意味があるの?」
「特に意味はありませんよ。これは命令ですから、我々の意思でどうこう出来る事柄ではないのです」

 レイジは誰の命令か口に出しては言わなかったけれど、横暴の化身である兄弟達に命令出来るような存在は限られている。逆巻家当主という絶対的な権力を手にしている、パパにしか命令なんか出来ない筈だ。

「――パパって変な事を考えるひとみたいだね。わたしもそれに参加しろってこと?」
「ええ。貴方も曲りなりにも我が家の一員なのですから、これは義務です。必ず出席するように」


 しかし、まさか本当にレイジが食事の準備をしていたとは。わたしもママと暮らしていた頃は食べ物から栄養を接種していたけれど、ニンゲンから搾取出来る年齢になった今、食事は必要がなかったりする。また食べ物を口に運ぶ手間を取られなきゃいけないなんて何とも面倒な話ではあるが、それがここのルールならば仕方がない。レイジも面倒だと思っているようで、眼鏡の奥の瞳が何処と無くうんざりして見える。




「貴女の席はこちらになります」

 レイジが示した席は、白いテーブルクロスの敷かれたダイニングテーブルの側面、扉側の真ん中の席だった。隣は誰だろう。なるだけ害の無さそうなあのニンゲンの女の子の席があるんだったら、彼女の隣がいいなぁ、なんて空想を巡らせながら椅子に向かったわたしの目の前に、障害物が現れた。レイジが指したわたしの席。椅子の上に紺色の布が乗っかっていて、わたしが座る邪魔をしている。綺麗に畳まれて沈黙する真新しいそれは、何処かで見覚えがある服だ。確かこれを、最近何処かで見た事がある。両手の人差し指と親指でつまんで持ち上げてみる。

「レイジ、この服は?」
「貴女の制服です」

 そう、制服だった。
 学校に忍びこんだ時に見たし、兄弟や例の女の子が着ていたのとデザインがよく似ている。……と、今のレイジの発言に引っ掛かるポイントがひとつだけあるわけで、わたしの摘まんだ制服の袖の部分が不安に揺れる。“貴女”の制服っていうのは、はたしていったい。どうしてわたしの席にあるのやら。眉を顰め制服からレイジへと視線を移したわたしに、レイジは口角を優雅につり上げて見せた。

「二つ目のルールです。貴女には私達と同じ、嶺帝学院高校に通っていただきます」








 その後もレイジはニンゲンに正体がバレるような事はするなだとか何だとかのもろもろを、まるで口煩い母親が子供に圧力をかける時のような顔でレクチャーしてくれた。正直わたしは半分も聞いていなかったけど。
 ニンゲンの、学校に、通う?
 まさかそんな奇異な真似をしているヴァンパイアが居るなんて思わなかったし、そんな事を思うのはわたしが世間知らずだからとかではない筈。沢山のニンゲンに混じって四角い箱に押し込められ、つまらない話を延々と聞かされる様を思い浮かべたら息が苦しくなってきた。わたしはニンゲンが嫌いではない。けれどそれとこれとは話が別。ニンゲン諸君は大人になった瞬間にもう一度学生からやり直しを命ぜられた様を思い浮かべてくれればいいだろう。何が嬉しくて今更になって、ニンゲンの学生に擬態して学習せねばならないのか。
 といっても。パパの言うことを聞かなかった兄弟の話や、留年してしまったらしいシュウがどんな目にあったのか等の、おぞましくてえげつない話を聞かされたわたしは仕方なく部屋に戻って制服に着替えるしか道はなかった。
 姿見の前でくるりとターンを決めて、スカートの端を引っ張ってみる。制服は驚くほどわたしにぴったりなサイズでなんとなく気持ちが悪い。初めて制服なんてものを着たので似合っているのかはよくわからないが、大丈夫だろうか。胸元のリボンが何度直しても歪んでいる気がする。最後の一回鏡を覗いてやっぱり歪んでいる気がするリボンを慰め程度に整えると、全裸で歩くよりもよっぽど恥ずかしいような気持ちでリビングに戻る事にした。






「やあ、サキュバスちゃんじゃない。おはよう」
「おはようライト」


 リビングに戻る頃には大方の屋敷の住人が集まっていて、賑やかな晩餐会が幕を開けていた。いつもの軽い調子で挨拶をしてくれたライトはちょうど、こんがり焼けたオムレツのお腹をナイフで解剖している最中だった。本当にこんな事しているんだなぁと少し感心する。そんないい加減な性格には見えないけれど、それでもレイジがわたしをからかって遊んでるんじゃないかって考えが拭えなかった。ヴァンパイアがよって集まりわいわい言いながらスープやライスやオムレツなんかを頬張っている様は、それくらい愉快な光景だ。彼らにとってニンゲンで言うところの登校前の朝食みたいな感じなんだろう、並んでいる食事は軽めのものが中心だ。
 会話に混じってかちゃかちゃと時おり聞こえる食器の音。全員スマートな所作で食事をしており、なかなか様になっている。
 レイジ曰く、この光景を作り出したのはパパの命令だ。ちなみに、ヴァンパイアながらに学校に通わされているのもパパの命令。どんな人なのか等何も知らなかったパパは、わたしの中でかなりの変人という印象に書き換えられている。


「なんだぁオマエ、制服なんか着て」
 ライトの隣のアヤトが興味深そうに言う。
「アヤトたちも着てるじゃない。今から学校って聞いたけど?」
「それでどうして制服を。まさかとは思いますが君も一緒に来るんですか」
「わたしも出来れば行きたくはないんだけど」


 嫌そうに言うカナトに目を向ければ、オムレツの乗った皿を脇に押しやり、何故か一人だけ目の前にお菓子を広げている。それをぬいぐるみ――テディの口に持っていってから自分の口に運ぶという一連の流れを繰り返す。


「……なにを食べているの?」
「甘くて美味しいお菓子です。そんな物欲しそうな顔したってあげませんよ」
「別にいらないけど」
「強がりしか言えないなんて、可哀想な女だよね、テディ。え、仕方がないからオムレツを恵んであげようって? あんな女にまで気を回してあげるなんて、テディは優しいなぁ」

 主人不在のわたしの席に、カナトの手によって押しやられたオムレツの皿が二つ並ぶ。

「ねぇ、ぼーとしてないで優しいテディの好意をかみしめながら、早く食べたらどうですか」


 テディの好意というよりも、カナトのいらない物を押し付けられただけの気がしなくもないけれど、これ以上立っているのもなんなので、オムレツが二つ並んだ席に大人しく座る事としよう。ふと左隣をみれば、例のニンゲンの女の子がこちらを伺うようにして見つめていた。本当に隣同士だったみたい。

「……あ」

 わたしが見つめ返すと彼女は大きな瞳に気まずそうな色を写し、視線をさ迷わせた。

「おはよう」
「お、おはようございます……」

 何となく挨拶をしてみたけれど、何だか距離を取られているみたいに固い声で挨拶が帰ってくる。ウェーブのかかった薄桃色の髪の毛が、緊張からか小さく揺れている。初対面があれじゃあ警戒されても仕方がないような気もするけれど、彼女は唯一この屋敷で害がなさそうなので、是非とも和解しておきたい所である。
 そういえばわたしは、何故まだこの家にニンゲンが居るのかも、聞いていなかったし。

「わたし、今日からここで暮らす事になったんだ。よろしくね」
「あ、みんなから聞いてます。よろしくおねがいします」
「ここで提案があるんだけれど、出来れば、あなたと仲良くなりたいの」
「……えっ」


 少し戸惑ったような顔した少女。逡巡するように、凍りついている。どうやら妖魔とニンゲンとの感覚は、わかりあえない大きなズレがあるようだ。
 けれどそれも一瞬で、次の瞬間には彼女はまるで大輪の薔薇が静かに咲いたような笑顔を浮かべている。

「ぜ、ぜひ! このお屋敷には女の子がいなかったから、私も貴女と友達になれたらなって思ってたの」

 天使みたいにきらきら輝く彼女の笑顔は、何処かママの笑顔に似ているな、と思う。闇の生き物のわたしには、眩しくて、直視ができない。彼女の笑顔を見ていると、わたしは何だか、胸の中に、言い表しようのない感覚が渦巻くのを感じる。それは良いものとも悪いものとも、わたしには判断が付かなかった。

 それからオムレツを口に運びながら、二人で自己紹介をしたり、色んな話をした。この前助けて貰った事に関して深く感謝している旨もしっかりと伝えておいた。ユイはあの後、わたしを逃がしたお仕置きと称して兄弟から酷い仕打ちを受けたみたい。わたしに気を使ってか言葉に濁していっていたけれど、疲れた顔がそう物語っていた。



 そういえば左隣の席はユイだったけれど、右隣の席は誰の席なんだろう。隣の席には誰も座っていないけれど、食事の乗ったお皿が用意されているという事は空き席ではないと思う。ぐるりとテーブルを見回す。人参グラッセを優雅に口許に運んでいる最中のレイジと目があった。食事中は静かにしろと目が語っている。そしてスバルはその隣で無言の食事中。カナトは相変わらずお菓子を食べているし、ライトとアヤトも相変わらず。なるほど。だるだるヴァンパイア――もとい、シュウの姿が見当たらない。きっと右隣はシュウの席なんだろうな、あいかわらずだなあのひとは。










 がたがたと僅かな振動を伝えながら、静かにリムジンが進む。昨日はまさかこのダックスフントみたいな胴をした乗り物の中に自分が収まるなんて思っていなかったし、ニンゲンの乗り物に乗るのは初めてだったため、合わせた膝に手をおいてわたしはいい子ちゃんを続けていた。お尻から伝わる振動を噛み締めながら。あの後、シュウがユイに半ば引き摺られるようにしてリムジンに乗り込むと、学校を目的地に進みだした。


「昨日の今日だけど、本当にちゃんと手続きはしてあるの?」
「ああ、面倒だけど、ちゃんと手続きしておいた」


 三人ぶんくらいの席を陣取って寝転がったシュウがいう。たった一日でニンゲンですらないわたしを入学させるなんて、考えるからに煩雑そうな手続きだ。手続きはしておいたという事は、このめんどくさがりやがそれをしたのだろうか。そういうのはレイジの役目かと思っていたけれど、そうでもないらしい。シュウの留年がなんたらとレイジが言っていたし、もしかしたらこのだるだる男が我が家の一番の年長者なのかもしれないなんて、暇潰しに推理する。
 窓の向こうで目まぐるしく後ろへと流れては消えてゆく気色。嶺帝学院まであとどれくらいの時間があるのか知らないけれど、その間にこの家の事についてもう少し詳しく聞いておくのも良いかもしれない。


20130506

   
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