我に返り、思いきり腕を引っ張ったら予想外にすんなりとライトのくちびるから逃れる事が叶った。からかうような瞳で見上げるライトに嫌な気分になって、今までにしたことないくらいの早さで後ずさりをする。血を吸われなくて助かった。それだけだ。結構な話じゃないか。……いや、全くもって結構じゃない。両腕両足全身を被う鳥肌がそう言っている。

「……」

 さっき、何も言わずさっさとこの部屋を後にしていればこんな事にはならずに済んだかもしれない。今度こそ、何も言わずに逃げよう。脱兎の如く駆け出したわたしが目指すはこの部屋唯一の出口である扉だった。といってもそれほど広い部屋を宛がわれた訳でもないので、大股で踏み出せば五歩とかからない。銀色に輝くドアノブを見つめながら、一歩、二歩、三歩と大きく踏み込む。ちょうど四歩目を踏み出した瞬間、わたしが手を伸ばすよりも早く、かちゃりとドアノブの回る音。何事かと驚いたけれど咄嗟に止まる事も出来ずに五歩目を踏み出した時に、扉が開いてその隙間から紫色の髪の毛をした頭が見えた。カナトだ。カナトが扉から室内へと入ってくる。わたしを見て、くまの刻まれた大きな瞳が殊更大きくなる。一呼吸もおかないうちに、二人が衝突したのは当然の流れだった。

「……っぅ」

 華奢な見た目とは裏腹にカナトはどっしりと床に構えていて、弾き飛ばされたのはぶつかったわたしの方。盛大に床に転がる。室内には金持ちの家特有の毛足の長い絨毯が敷かれており、痛みが軽減されたのがなによりの救いだ。まったく、なんてタイミングで現れるのか。わたしの兄たちは本当に神出鬼没だ。軽減されたとはいえ少し痛む臀部を擦りながら視線をあげれば、カナトは途方にくれた子供のような、今にも泣きそうな表情で立ち尽くしていた。ただでさえ幸福そうとは言えない顔が、下がった眉尻や引き結ばれたくちびるによって更に不幸そうな印象になっている。

「……カナト?」

 座り込んだ体制のまま下から覗き混んでみるが、カナトは依然顔を曇らせたまま自分の足元辺りに視線を落としていて、目を合わせようともしてくれない。心なしか、肩も震えているような。そんなに痛かったのかな、と、少しだけ申し訳ない気持ちにさせられるのはカナトの幼さの残る顔立ちのせいだろうか。確かにぶつかったわたしにも非はあったけど、ノックもせずに扉を開けたカナトも誉められたものじゃないと思うけれど。どうしてこんなに、わたしだけが悪事を働いた気分になってるの。暫くあたふたと考えてから、カナトの視線の先を何気なく追ってみた。伏せられた紫色の睫毛。向かうはカナトの足元。彼がいつも大切そうに抱えていたクマのぬいぐるみが、まるで事切れたようにぐったりと横たわっていた。

「……ひどいです……、テディが……テディが……」

 なにやらぶつぶつ言い出したカナトの声色に、ぞわりと肌が粟立った。まるでこの世の怨嗟の声を全て詰め込んだような、そんな深く暗い声。再び見上げたカナトはやっぱり泣きそうで、肩は頼りなげにぶるぶると震えていて、はた目から見たら怯える子供のようなのに、わたしの目にはどす黒い色の何かを背負って見える。よくよく見れば両手を前に広げて、そこに収まる筈のものが手元に無い事に全力の悲愴の意を示しているようだ。
 どう都合よく解釈しても、たった今ぶつかった衝撃のせいであのぬいぐるみを落としたんだ。ど、どうしよう。どうすればいい。ぐすりとしゃくりあげ始めたカナトに冷や汗が流れる。自分のせいで小さな子供を泣かせてしまったような、そんな罪悪感。
 少なくともわたしよりは長期間カナトと過ごしてきたであろう男に、助言を求めることしようか。くるりと後ろを振り返り、いまだ人のベッドの上で我が物顔のライトに、すがり付くような視線を向ける。
 これ、どうすればいいの? 精一杯のアイコンタクト。


「ね、カナトくんやアヤトくんもキミの血を気にしてたって言ったでしょ。あーあ、カナトくんも来ちゃったか。そのうち、アヤトくんもやってくるんじゃないかな?」


 ぴりりと張りつめた場にそぐわぬのんびりとした口調でいって、肩をすくめるライト。誰もそんな事は聞いていない。助けを求める相手が間違っていたようだ。
 わたしは這うように床を進むとカナトの足元に転がっていたぬいぐるみを抱き上げ、立ち上がる。いつまでも床に横たえたままでは哀れだ。


「……! テディに汚い手で触れるな!」

 差し出す前にカナトにぶんどられ、ぬいぐるみは元の定位置に収まった。床に転がっているよりもカナトの腕に収まっている方が、ぬいぐるみに魂が込められたような、そんなしっくり来る感じがする。
 それからカナトはぬいぐるみを抱き締めたまま、泣いたり叫んだりわたしを罵ったりをし始めた。「あーあ、駄々っ子を怒らせちゃったねー」背後からの声はやっぱりのんびりとしたもので、嫌になる。わたしにだって非はあったから謝ってはみたけれど、ぬいぐるみはカナトにとって何にも譲れない宝物らしく、カナトの怒りは収まる事がない。4回謝って12回罵られたあたりで、もう疲れてきた。当初の目的、逃げる事をしようにもカナトが陣取っているのは扉の真ん前だ。退路は塞がれている。
 なんだろう、全部わたしが悪かったのかな。お人形さんみたいな容姿で何度も何度も罵られ続け、半ば洗脳されたようにそう思い始めていた。



「おい、血をよこせ!」

 ライトの予言通り、再び扉があいてアヤトが入ってきたのはそんな時だった。扉を開けるなりなにやら不穏な言葉を口走ったアヤトが、ずんずんと絨毯を踏みしめながらわたしの方に歩いてくる。
 わたしはそんな事よりもカナトの方が気にかかっていたので、視線はカナトの方に向かっていたけど。扉の前に陣取っていたカナトはアヤトが勢いよく開け放った扉に背中を強打され、その衝撃でまたしても両手からぬいぐるみをぽろりと取り落としていた。アヤトはそれに気がついてなかったみたいで、扉のちょうど裏に隠れてしまったカナトになんか一瞥もくれない。この室内に、カナトの存在すら認めていないのかもしれない。
 ずんずん近づいてきたアヤトはわたしの前で立ち止まる。その背後には、カナトが床に転がるぬいぐるみを呆然とした表情で見つめているのが見える。ヒステリックに叫んでいた先程とはうって変わった静けさが不気味で、冷や汗しか出てこない。


「あ? どっち見てんのオマエ。つーか何でライトの野郎がここにいるんだよ」
「んふ、アヤトくんと同じ目的ってところかな」
「へぇ。オマエ、あの変態に血ィ飲ませてたのかよ?」
「飲ませてない飲ませてない。ライトにも言ったけれど、あなたたちわたしの兄だったよね?」
「ああ。まさかたかだか血が繋がってるってだけでこのオレ様と同じ立場になったとか、思ってねぇだろうな?」
「いやいや、そういう意味じゃなくてね」


 この兄弟たちはわたしの事を物事を考える脳味噌も持たないような下級妖魔かなにかかと考えている節があるけれど、彼らと自分が対等だなんて大それた事考えた事もない。
 もう一度アヤトの背後を覗き見る。爆発寸前のカナトが、ちょうど爆発する瞬間だった。


「そうですよ! 君は所詮なんの力もない虫けらのような存在なんだから、ただ僕に怯えて言うことを聞いていればいいんだ! 怯えてればいいのに、テディを……テディを……こんな目に……」
「うを! カナトまでいたのかよ」
「アヤト! いつもいつもテディの事をいじめて! そんなに僕の事が憎いんですか……?」
「ハァ?」


 ぬいぐるみを素早く拾い上げ、アヤトに掴みかからん勢いで噛みついてゆくカナト。アヤトは、どうして自分が責められるのかも分からないというように面倒臭そうな顔で肩を竦めている。

「まーまー、カナトくん。少しは落ち着いたら」
「ライトは黙っていてください!」
「んふ、カナトくんたら、八つ当たりはよくないなー」

 ベッドから重い腰をあげ一応は止めに入ろうとしたらしいライトも、なんの力にもならなかった。事態はもはや混沌を極めるものとなっていた。一応ここは自分の部屋の筈だけど、この場で繰り広げられるそれを、何処か他人事のように見つめている自分がいる。
 もう、なにがなんだか、訳が分からない!
 出会ったばかりの兄弟の性格を二日目にして既に把握しかけていたわたしは偉いと思う。兄弟には、とりわけこの三人には、関わるな危険というのがきっと、逆巻家の教訓だ。
 やいやいと言い合いを繰り返す三人を横目に、わたしはそっと扉から抜け出した。扉の前を陣取っていたカナトは今、アヤトに食いかかるのに必死だ。わたしの部屋が無事で居られるのか心配だけれど、仕方あるまい。
 廊下に出ても扉の向こうから三人の声が聞こえてくる。わたしが逃げ出したことがバレないうちに、さっさと見つからない場所に身を潜め、ほとぼりが冷めるのを待とう。何度も後ろを振り返りながら、長い廊下を歩く。これから、どうしようか。


このまま真っ直ぐ進む

適当な部屋に隠れる

 
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