「なにをしているんですか、夜明け前に騒々しい。もうそろそろ眠る時間ですよ」


 それは救世主のようなタイミングだった。気がつけば音もなく、この場にもう一人ヴァンパイアが増えていた。眼鏡をかけた神経質そうな男だ。


「おや、彼女は……」


 もはやわたしの中で厄介しか運んでこないというイメージが付いてしまったあの扉の前に立った彼は、眼鏡の奥の瞳をぎらぎらと光らせてわたしの顔を値踏みするように眺める。彼の登場はわたしにとってプラスとなるのか、それとも事態を更にややこしくさせてくれるのか。それはまだわからないけれど、あの扉を背負ってる時点で後者の可能性の方がたかい。

 だったら彼の登場によって生まれたこの隙を、生かす他あるまい。

 わたしの回りを囲むヴァンパイアたちにとっても彼の登場は全くのイレギュラーらしく、僅かに生まれたその隙をつく。首にかかった手を振りほどくようにして外し、ソファーから転がるように飛び降りると、さしこむ月明かりに向かって一直線にかけた。扉が塞がれているとなるともはや窓から身を投げるしかない。幸いな事にわたしはニンゲンではないので、宙に浮ける。


「人が話している最中に席を立つとは、随分とマナーのなっていない客人のようですね」
「うぁ……っ」


 月明かりの元に身体を滑り込ませ、窓までもあとほんの数センチで届くという距離まできた時。すぐ背後から聞こえる声と、身体に走る衝撃。前に進もうとしていた反動で、逆に後ろに引き寄せられる。いつの間に、どうなってこうなったのかは理解出来なかったけれど、月明かりに向かい伸ばしていたはずのわたしの両手はぎゅうと後ろ手に捻り上げられている。僅かな隙はやっぱり僅かすぎたんだな、という事だけは理解できた。
 遠慮なく掴まれる腕の、余りの痛さに悲鳴をあげてしまいそうなのをぐっとこらえて平気な顔を装う。


「……やっぱり逃がしてくれるわけがない、よね」
「ヴァンパイアの屋敷に忍び込んでおいてまさか無事で帰れると思うほど、貴女も愚かではないでしょう」


 背後にぴたりと寄り添った男の眼鏡が月明かりを反射して鋭く光ってる。


「それで、貴女はサキュバスだとお見受けしましたが、こんなところで何を?」
「だからそれは……」


 尻すぼみになる声、怪訝な眼差しが突き刺さる。


「その質問、さっきから僕たちもしてるんだけどね。なんだかはぐらかされちゃうんだよね」
「そういえばここにくる前にシュウのやつとすれ違ったぜ。あいつとよろしくやってたんじゃねーの?」
「ほう、あの穀潰しと……」


 シュウというのは、三人が登場する前に出会った、あのやらたとやる気のないヴァンパイアの事だろうか。その名前がでた途端に、ただでさえ剣呑だった眼鏡の纏う空気がピシリと音をたてながら凍って行ったように感じる。相変わらず値踏みするような視線を向けられていたが、その視線の温度は先程と比べるべくもなく冷たい。


「穀潰し? やけに怠そうなヴァンパイアにならさっき会ったけれど……」
「なるほど」


 どんどんと冷える。まるで北極に全裸で放り出されたみたい。たまらず助けを求めるように視線を反らしたら、先刻の三人はまるで楽しいショーかなにかのようにこちらを鑑賞中だった。ああもう。ヴァンパイアにはどSが多いという話を聞いていたがほんとらしい。今日で五人ものヴァンパイアに出会ったけれど、内四人は確実にどSだ。


「まったく理解しかねますね。あの穀潰しと密会でもしてたというんですか」
「いや、そうではなくて……」


 口を挟むときっと睨まれる。捻りあげられた腕に走る痛みも、心なしか増したような。一体このヴァンパイアと先刻の怠そうな彼との間にどんな軋轢があるのかは知らないけれど、八つ当たりもいいところである。勘弁してほしい。


「シュウというヴァンパイアに会ったのは本当だけど、別に示し会わせてあった訳ではなく……、えーと」
「はっきりと物を言わない方ですね。そうでないのならば、しっかりと、一から十まで、分かりやすく説明をしていただきたいのですが」
「だから、このお屋敷に忍び込んだのは偶然であって、シュウというヴァンパイアには一切関係ない話なの」
「偶然? ヴァンパイアの屋敷に忍び込んでおいて、偶然というのですか?」
「ヴァンパイアの屋敷って言っても鍵が空いていたんだもの。それって凄い不用心だと思う」


 と、そこまで言ってハッとした。こちらを睨む眼鏡の奥の瞳が、マイナスを通り越してもう色すらなくしかけている。今までのヴァンパイア達は何だかんだで寛容だったけれど、彼は人一倍ヴァンパイアとしての矜持に拘りを持つタイプらしい。失敗した。


「ほう? 実に興味深い意見だ。それでは貴女は強盗に押し入られたり強姦にあったり通り魔に襲われたりした場合、加害者ではなく隙を見せた被害者の方に、全ての非があると仰るのですね」
「いや、それは……」
「いいんですよ、私も全くの同意見ですから。所詮隙を見せた者こそが、悪なのです。愚かなるは弱者だ。ですが今回の場合、弱者というのは私達ではなく、貴女の方ですがね」
「……う」
「だってそうでしょう、サキュバスごときにヴァンパイアがどうにかされる訳がない。それを知りながら忍び込んできた貴女は、どれだけ愚かな存在なのでしょうね?」


 そこでくいっと眼鏡を押し上げてみせる。片手で拘束されているため、隙は一切生まれないのだけれど。もはや一回失敗した時点で、逃げるのは絶望的だった。だったらもう、本当の事を言ってしまえ。それでどちらに転ぶのかは分からないんだから。非常に高い確率で事態が悪化するような気がするけれど。


「……ま、間違えたんです」
「はい?」
「だから、間違えたの! ここがヴァンパイアの屋敷だとは思わなかったの! そのシュウとかいうヴァンパイアの事もニンゲンだと思ったの! だから、本当にヴァンパイアさまを襲おうだなんてそんな大それた考えは抱いてなくてですね……はい……ごめんなさい……」


 じゃなかったらこんな恐ろしい屋敷、誰が好き好んで忍び込んだりするものか。とまでは言えなかったけれど、言いたい事は大方吐き出した。なんと情けない姿だろうか、ママに見られていたらさぞかし嘆かれていただろう。


「だから本当に……ごめんなさい……許してください……」


 これは流石の彼も予想しえなかった流れらしく、暫しの沈黙。そしてどっと巻き起こった笑いの渦は、リビングだけでなく屋敷中に響き渡る程だった。


「フ……ッ、ハハハ……! 貴女はあの穀潰しが何の能力もない、ただの人間だと思ったんですか……!」
「ま、まあ……流石に途中で気がついたんだけど……」
「ハハハ……!」


 実に愉快そうで大変結構な事である。他三名なんて涙を流しそうなくらいの大笑い。内一人半酸欠状態。わたしのちっぽけなプライドに入ったちっぽけな傷なんて、本当にどうてもいい事なのだから、笑ってくれて結構だ。ええ、ええ。


「じゃああれですか、貴女はヴァンパイアと人間との見分けもつかない自らの無能さは棚にあげ、あまつさえ屋敷に鍵がかかっていなかったなどと見当違いな説教まで披露しようとした訳ですか」
「……うっ」
「フフ、わたしは嬉しいですよ。ここまで躾のなっていない方に出会うのも初めてです」
「……」


 両手が軋む。眼鏡の奥の瞳は、もう笑顔の残り香すら消え失せていた。十分に笑い終えた他三人も、わらわらと集まってきて周囲を取り囲まれた。


「ふいの珍客に私も驚きましたが、せっかく訪問して下さったのですから。たっぷりと丁重にもてなしてさしあげないと、失礼に当たりますね?」


 その時のわたしは度重なる危機の到来のせいで、脳みそがどうにかしていたに違いない。一番に感じたのが身を刺すような危機感ではなく、実に呑気なこんな考えだったのだから。

 これこそが本当の四面楚歌というものなのか。


20130116

 
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