コーデリアが死んだ。

 突き落としたときの指先の感覚。バルコニーから投げ出された身体で必死に藻掻き、つきだされた腕がボクに助けを求める。その時の瞳の中に灯る憎悪や恐怖でぐちゃぐちゃの色は、張り付いたようにいまでもぐるぐると頭をめぐっている。なのに、ボクの脳味噌はそれをどうでもいい事として処理しようとしていた。

 コーデリアの身体が群れて咲く深紅の薔薇を突き抜けて、地面に叩きつけられた。どんっと乾いた音が下から上ってくる。ボクの胸の中心にいつだって存在していた絶対的な物も、その音と共にぱあんと弾けとんで、跡形もなく消え失せた。どろりと流れ出た液体がピジョンブラッドのルビーのようにキラキラ気高く輝いているのに、横たわるあの人の身体をみるみるうちに覆い尽くしてゆくそれは、ボクの感情のどこにだって引っ掛からない。ただの、赤色。こみ上げてくる虚無感。ボクは急速にどうでもよくなってしまったのだ。手にいれるために突き落とした。ボクは手にいれる事はなく、失ってしまった。

 ボクは気がついた。
 愛なんてしょせん、まやかしだ。















 小屋のかび臭い室内は相変わらずだったけれど、少なくとも埃っぽさは感じなかった。ミケが毎日掃除や換気を怠っていないという証拠だろう。見回した室内は相変わらず家具も生活感も少ないけれど、それでもミケはここで慎ましやかな生活を続けている。

 ボクは開いたノートをぱたんと閉じると、傷だらけの床に放り投げた。表紙には観察日記と幼く整わない文字で書きなぐられている。ミケを拾ったあの頃は、まるで人間の子供のように、暇さえあれば日記をつけていた。
 子供の頃のボクはいまよりもいくらかまともで、純粋だったような気がする。アヤトくんやカナトくんはボクの事を変態だというけれど、昔は二人の方がよっぽど変な子供だったんじゃないかな。あの二人と違い、ボクには何もかもがなかった。ボクはあの人にとっていようがいまいが何ら変わらない子供だったし、ボクの瞳に映るあの人やあの人に抱く感情も、馬鹿な人間のする偶像崇拝と似たり寄ったりだった。
 ボクはただの愚かな子供だった。


「――ライトくん?」

 薄暗い部屋に背後から光が差し込んでくる。それは扉が開いた事によるもので、振り返ったら扉の向こう側に月を背負ったミケがたっている。少し驚いた顔をして、ボクを見つめていた。ここ最近はもう殆どといっていいほどミケをほったらかしにしていたから、自分は捨てられたとでも思っていたのかもしれない。


「よかった、やっぱり、ライトくんだ」
「やあ、久しぶり。勝手に上がらせてもらったよ」
「おかえりなさい!」


 ぱあっと顔を輝かせこちらに駆けるミケはもう、あの頃のミケとは違う。豊かにころころと余すところなく感情を表現するミケの表情筋は拾ったばかりの彼女からは想像できないくらいだ。ベアトップのワンピースから伸びるすらりと細く白い手足は、女の子を魅力的に魅せるに必要最低限の脂肪を蓄えて、彼女が足を踏み出すたびにぷるんと張りのある肌が揺れる。どれもがミケを“美味しそうな女の子”に見せていた。

「次にライトくんがきたらね、報告しようと思っていた事があるの」

 ミケは小屋の隅に配置された小さな棚をごそごそと漁り始めた。最初は何ら生活感もなかったこの小屋も、少しだけ家具や物が置かれるようになった。
 何かを見つけ出したミケの手が止まり、それをボクに押し付けるようにして差し出す。

「ほら、見て。ライトくんがくれた香水。もうすぐ空になるの」

 最後はライトくんの前で、だからわたし、待っていたんだよ。ミケが笑う。少しはにかんだようにして。ミケの手に握られたデザイン性に優れたあの香水瓶には、嫌でも見覚えがある。半ばほどまで満たされていた紫色の液体は、極薄い膜になって下に溜まっているような状態だった。もう一度でも使ったら、空になるだろう。

「わたし、ライトくんの好みに、なれたのかなあ」

 香水瓶が空になる頃に、きっとミケもボク好みの美味しい女の子になっているんじゃないかな。いつか言った言葉が、頭の中でリピートされる。確かにミケは変わった。どこからどうみても、柔らかくて、美味しそうな、女の子になっていた。
 けれど、ボクは――。
 なにも知らず無邪気に笑って見せるミケが、いまじゃ目の毒だ。腹立たしさすら感じる。


「ライトくん、わたしね、今日をずっとずっと、楽しみにしていたんだよ」
「――よ」
「……え?」
「もう、いいよ。ボクはね、そんなのもうどうでもいいんだよ、名前ちゃん」


 しいんとした沈黙が、小屋の中を満たした。“名前ちゃん”は、ボクの言葉を聞いて、不思議そうな顔をしていた。名前、誰だろうそれは、という心底分かっていない顔。暫く考えて、名前というのは自分の名前だった事を思い出したようだ。はっと気がついたような表情を浮かべ、そしてさあっと顔を青くする。強ばった顔を豆電球の明かりがやけに鮮明に照らしていた。ボクの瞳はもう、それを名前として映し、ボクの脳味噌はもう、それを名前としか捉えない。

「…………なん、で?」

 捨てられた子供みたいに途方にくれた声がゆらゆらとぐらつきながら、ボクへと向かってくる。今にも泣き出しそうな名前の顔はボクの同情をひくことはないし、ましてや興奮を煽ってくれることだってない。ただ静かに時が進む。もう、どうでもいい。

「ごめんね名前ちゃん。ボクはもうキミの事なんかどうでもよくなっちゃったんだ」

 絶望をたたえる瞳を何色もしていない瞳で見つめながら。ゆっくりとこちらに近づいてくる彼女の肩が震えている。ボクを見つめながら、ただ「どうして、わたし何かした?」って顔をしていた。名前ちゃんはなにもしていない、“なにもしていない”んだよ。

「ライトくんは、わたしを好みの女の子にするって。そしたらわたしを、食べるんだって」
「うん、言ったね」
「この香水がなくなるころに、その時が訪れるって」
「うん、言った」
「だったら、……っ」


 白くなるくらいに握りしめていた名前の拳も、ぷるぷると震えていた。その拳の中には香水瓶。それに気付いた名前は、首もとへとそっと香水瓶を運ぶ。
 ノズルにかけられた名前の人差し指に力が込められようとしたのを見て、あの絡み付くような香りを思い出す。首筋に舌を這わせれば、いつだってボクを酔わせたあの香り。噎せかえるような艶かしさ。それはボクにとって特別な香りだったのだ、昨日までは。
 ああ、吐きそうだ。
 ボクは、咄嗟に腕を伸ばして名前の手から瓶を取り上げようとした。自分の意思でそうしたというよりは、衝動的に身体が反応していた。あまりにも必死すぎたからか、差し出した指先が瓶にあたって、名前のてのひらから瓶が押し出される。ボクにも名前にも支えられなかった瓶は、投げ出された。
 ぱりいん。
 その音はやけに室内に響いていた。
 地面に叩きつけられ、バラバラにくだけ散ったガラスの破片が、まるでコーデリアが地面に叩きつけられた時の再現のようだった。どろりと割れた瓶から垂れ流れた紫色の液体。

「……っ、ぅ」

 とたんに下から立ち上ってくる噎せかえるような香りに、ボクは酷い吐き気を覚える。あまりに濃密な香りが、この狭い密室を隙間なく埋め尽くす。咄嗟に口許を覆うけれど、絡み付いたにおいが離れない。まるで、あの人がここに甦ったような錯覚。目の前がちかちかする。くらりと立ってられないほどの目眩。ふらふらしながら、出口へと向かう。

 外と中を隔てていた扉を、思いっきり蹴り開けた。がしゃんと音をたて、外に向かって扉が飛んだ。出会ったころから既にボロボロだった小屋の扉は更なる年季を経て、限界を迎えたみたいだ。末の弟みたいに破壊衝動に生きている訳じゃないけど、こんなにも気持ちよく壊れてくれるんだったら癖になるもの頷ける。
 いくら名前が大切に大切に使ってこようと、地面に叩きつけられただけで、名前の打った釘は飛び、板と板とが外れ、辺りに飛び散った。もはや扉ではなく、ただの木片が土に紛れて沈んでいる。
 噎せかえるような香りが、ただの四角い額縁のような穴と化した、扉が嵌まっていた場所から逃げてゆき、いくらか気分が楽になる。
 名前はそれを呆然と眺めていた。扉を無くしたこの小屋は、もう小屋とも呼べない、ただの木材の塊だ。それがおかしくて、ボクは笑う。笑うたびに脳味噌がぐらぐらとして、吐き気は更に酷くなるばかりだ。


「アッハハ、見てよ、扉が壊れちゃった。キミの大切なお家が、壊れちゃったね」

 ぴくんと震える肩。

「これで名前ちゃんはここに帰ってくる理由がない。もうここには帰って来なくてもいいんだ。この小屋に縛り付けられる事もない」


 コーデリアが死んだ。ボクのあの人への愛はまやかしで、あの人が死んだ今ボクはもう、全てがどうでもよくなった。けれど今までボクの中心にべったりと張り付くようにあの人が存在していたのは紛れもない事実であり、ボクはずっとボクの中心にあるあの人への想いに素直に従って、生きてきた。
 名前の瞳を覗き込む。
 もう真っ黒な穴みたいな瞳でもなければ、かといってあの人のように、胸をざわめかせるような色をしている訳でもなかった。名前はあの人にはなり得ない。分かっていたけどボクは目の前のこの女の子にあの人に対するどうしようもないような感情をぶつけ、散々に弄んできた。名前はきっとボクのあの人に対する気持ちの燃え残りで、この女の顔をみているとボクはやるせない気持ちで満たされてゆく。もううんざりだった。


「キミを、自由にしてあげるよ」

 

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