「買い物にいこうぜ」



 それは唐突な申し出だった。いつもの調子で顔に余裕の笑みを貼り付けながら放たれたアヤトくんの言葉に、ちょうど彼の制服のシャツにアイロンがけをしている最中だった私は、びくりと身を強ばらせる。


「……買い物、って?」
「買い物は買い物だろ。そろそろオマエも普通に起きてられるまで回復したみてぇだからな。今から買い出しに行くから、ちょっと付き合え」


 今日の天気も気持ちのいい晴れだね、とか、今日は雲に隠れて月が見えないね、なんて当たり障りもない会話をするときと同じように放たれる言葉。現に彼は、なにもおかしな事を言ってはいない。お腹が空いたら料理をしたり、服が汚れたら洗濯をするように、買い物に行くのはなにもおかしな事じゃなく、当たり前の事。
 けれど私はその時、水槽の中の金魚のような気持ちを味わっていた。アヤトくんの部屋の中は環境の整えられた居心地のいい水槽だ。わたしはその中でだけぶくぶく言いながら、足をばたつかせている。足を一歩でも外に踏み出せば私はたちまち息が出来なくなって、干からびてしまうのではないかという恐怖が胸に寄生している。
 ぎゅうっとアイロンを握った手に無意識に力がこもる。真っ白なシャツをのせたアイロン台に居心地の悪さをを押し付けるよう、襟の部分をぴんとさせる作業に没頭する。こんな事をしていても仕方がないって、分かっている筈なのに。


「えっと、買い物って、なにを買うの?」
「何って事もねぇけど、日用品。レイジのやつに頼まれたから、たまには行ってやろうと思って」
「わ、私は――」
「おっと、『行かない』は無しだぜ。このオレ様に使いっぱしりさせるなんて、100年早い」
「でも」
「でもも無し」


 じっと見つめてくるアヤトくんの翡翠石の瞳は、何処と無く楽しそうだ。最近のアヤトくんはいつもそうだった。悪戯を企む子供みたいな瞳で、私の事をじっと見つめている。私が“思い出す”ことを期待しているのかもしれないけど、私はそれがなんだか怖かった。私はそんな彼の瞳を覗き返しながら、申し訳ない気持ちで一杯になるのだ。こうして不毛な時間ばかり消費して、アヤトくんに迷惑ばかりかけて。私が彼に与えられる物なんて、血くらいのもの。深い色をした彼の瞳にそんな私を責める色が含まれているのではないか、見た目も心までも醜く成り果てた私を蔑んでいるのではないか、見放そうと考えているのではないか、掻き分ける様にその瞳の真意を探ってしまう。
 今もまた翡翠石の輝きからぼおっと目が離せなくなってしまっていたようで、焦げ臭い匂いがした時、ようやくアイロンを襟に押し付けたままだった事に気が付いた。


「あっ、しまった!」


 慌ててコンセントからアイロンのプラグを抜き取り、襟をのぞきこむ。見た目にはあまり変化が無いようにも見えるけれど、室内には漂ってはいけない臭いが確かに漂っているのだ。確実に生地が傷んでしまったことだろう。
 焦げる香りに顔面がちりちりと疼くような感じがして、気づかれないよう奥歯を噛み合わせた。


「あーあ、ひでぇな。ひとの服になんてことしてくれてんだよ」
「ご、ごめん、アヤトくん……」
「ごめんで済む筈がないって、考えれば分かんだろ。どうやって詫びればいいかも、分かってんだろうな、名前?」


 アヤトくんは怒っているというよりもむしろ楽しんでいるような調子で、私はぱくぱくと空気を噛む。もしかしたら、私を見下ろしていたアヤトくんは、自分のシャツが火炙りの刑に処されていた事に気がついていたのではないだろうか。三日月のように細くなった瞳がその事実を物語っている。
 彼が言い出したら聞かないって事は毎日みる夢の中でもう思い出していたし、火傷をしてからの記憶だけでだって分かっていたのに、私はまだ抵抗を止められない。強引に腕を引かれ半ば引き摺られながら扉を潜るまで、私の抵抗は続いた。












「……っ」


 ごくりと唾液を飲み込む。私は金魚ではないし、アヤトくんの部屋も水槽なんかじゃない。外の空気を肺一杯に吸い込んでも、私の身体はどこもかしこも正常に動作していた。おかしな所があるのだとすれば、どきどきと心臓が煩すぎる事くらい。無意識にアヤトくんの腕にぎゅうっとしがみつきながら、月夜の道を歩く。繋いだ手のひらから感じるアヤトくんの熱のこもらない指先の温度だけがいつもどおりで、まるでそれだけが私の居場所みたい。


「ひさびさの外の空気はどうだ?」


 目的地は繁華街にある、真夜中でもやっている日用品を取り扱ったお店らしい。人の少ない通りを歩いている時ですら、化け物の顔を包帯の下に隠した私は、人の視線が気になって気になって仕方がなかった。人がひとり隣を通りすぎる度に、緊張で踏み出す足に力が入り、アヤトくんの腕を抱く指先が震える。知らない人が隣を通りすぎてゆく。こちらを見るかもしれない。そう考えると、どうしようもなく怖かった。もしもいま、隣を通りすぎてゆくあの男性が振り返り、こちらを指差して私を化け物だと指摘したら。もしあそこで携帯電話を弄っている女性が顔をあげ、私をみて悲鳴をあげたら。
 どんな罵詈雑言でも足りないくらいに、私は醜い。また無意識に胸元のクロスを指先で探ってしまう。右手には十字架、左手にはヴァンパイアの腕、おかしな話だな、と、自分でも思った。


「ほら、ついたぞ」


 現実は心配するまでもない。こうして人混みに紛れてしまえば、存外人間はどうでもいい他人の事なんか気にしていなくて、私に好奇の目を向けてくる人なんてごく少量だ。たまにこの包帯をみて首を傾げるひとはいても、特に何もせずすれ違うだけ。他人は他人なんかに興味はないし、夜の暗さに紛れてしまえば私が包帯を巻いている事に気がつかれる事のほうがまれだ。
 それでも私は恐怖をぬぐいされなくて、ずっとアヤトくんの腕にしがみつきながら、やっとの思いで買い物を終えた。カートを押したのも、買い物かごに商品を放り込んだのも、レジで会計をすませたのも、全部アヤトくんだった。私は隣で、精神を削られるような思いを抱いていた。アヤトくんが私の腕を振りほどく事がなかったのは何よりの幸いだった。

 買い物を終えた帰り道でも、アヤトくんは私のてのひらをずっと離なさずにいてくれた。来た道と同じ通りを、今度は逆に辿る。踏み出す足が、だんだんと重みをます。
 少し、疲れてしまった。
 ぱんぱんにつまった買い物袋をひとりで持ってくれているアヤトくんは平気な顔をして歩いているのに、私の足は鉛のように重たい。人とすれ違う度に恐れていた精神が摩耗して、ついに限界を迎えようとしている。思わずぎゅっと手を握ったら、少しだけ前を歩いていたアヤトくんが立ち止まり、こちらを振り返った。

「なんだよ、疲れたのか?」
「……うん、少しだけ」
「病み上がりだし、しかたねぇか。なんならあそこのベンチでちょっと休む?」

 いつになく優しい物言いに、ぬぐいされない違和感のようなものを感じた。
 ほんとうは、今すぐにアヤトくんの部屋という安全地帯に帰りたかったけれど、これ以上アヤトくんの私より二倍は速い歩きについていける自信はなくて、大人しく道の端に据えられていたベンチで少し休憩を挟む事にした。青色のベンチは昼間はそれなりの出番があるのだろうけれど、眩しいほどの夜の街の明かりから少し遠ざかった目立たない場所に設置されていて、この暗さの中では闇に埋もれてしまっていた。きらびやかな街の中でベンチだけが取り残されているみたいで、親近感を覚える。
 そっとベンチに腰かけた私の隣に、彼の持っていた買い物袋が置かれる。こちらを見下ろしたアヤトくんは、隣に座ろうとはしなかった。

「あっちの自販機でジュースでも買ってきてやるよ」

 まただ、今日の彼が私に優しく感じるのは、馴れない外の空気を肺に取り入れて、私が不安になっているからだろうか。遠ざかり街の人混みに消えてゆくアヤトくんの背中を見送りながら、この広い世界に独りぼっちになってしまったような不安にかられる。離れた手のひらが淋しい。どきどきと心臓が激しく動き出す。
 おろおろと辺りを見回す。アヤトくんが近くに居なくなった途端に、行き交う人々全てが敵になってしまったように思えた。この街で動く大勢の人間全てが、醜い私の正体を暴き、化け物退治をしにやってくるんじゃないかと考えて、指先が震え出す。仮に私が不安になっているから彼が優しくしてくれているというんだったら、ずっと一緒にいて、ずっと手を握っていてくれたらよかったのに。
 額に滲んだ汗が顎の辺りまで落ちてくるころに、アヤトくんは帰ってきてくれた。私が不安に思うまでもなく、誰もベンチに座った女の事なんか見向きもしなかったし、アヤトくんの離れていた時間はごく僅かだった。それでもアヤトくんの顔を見た瞬間に肩から力が抜けて、ほっと息を吐き出す。

「ほら、ジュース」

 目と鼻の先に差し出された紙コップ。その時のアヤトくんの顔は何だか楽しそうで、それを見ていたらわたしも、何だか全てが馬鹿らしくなってきた。全てのしがらみから解放されたような気分になって、コップに手を伸ばしながら自然と笑いが込み上げてくる。
 もしかしたら、自分が心配するほど、私は変じゃないのかもしれない。こんなにも、びくびくしなくたっていいのかもしれない。アヤトくんはそれを私に伝えたくて、私を外の世界へと引っ張り出してくれたのかもしれない。


「ん、何がいいのか分かんなかったからオレンジジュースにしたけど」
「ありがとう」

 するり、手が滑った。
 アヤトくんの手から私の手へと。渡された筈のオレンジジュースの入った紙コップが、私の手をすり抜けて空を舞う。座った私に差し出したアヤトくんの手はちょうど私の顔の上の位置にあって、滑ったそれが下を向き、顔へと降り注いでくる光景がスローモーションで写る。
 ばしゃり、ひんやりした感覚が顔を打ち付けた。柑橘系のさっぱりした甘みの香りがあたり一体に立ち上る。包帯が液体を吸い込んで、べとつく。顎を滴り落ちる液体。完治した訳じゃない顔に、ひりひりとしみる。

「――っと、わりい、手が滑った」
「……っ」
「べとべとだな。こんなもの早く取らねぇと」

 直ぐ様伸びてきたアヤトくんの手に、オレンジジュースを拭うことに懸命になっていた私は気が付かなかった。顎をぐいっと持ち上げられて、包帯に手がかかる。ぺりぺりと強引に端から包帯が剥がされて行き、何十日かぶりに外気に晒される顔を覆う肌。私を守る盾を少しづつ、少しづつ、剥がされていくような気分だった。私は手足をばたつかせ必死に抵抗を試みたけれど、今日のアヤトくんは手加減なんかしてくれるきは無いらしく、包帯はどんどん地面に落ちてゆく。
 翡翠石の瞳が、じっとこちらを見つめていた。私の一番、誰にも見られたくない部分が、私の一番見られたくない人の前へと晒されてゆく。顔のすーすーする面積が広がってゆくたびに吐き気が込み上げて、震えが収まらなくなってきた。
 やめて、見ないで、私を見ないで。
 化け物の私は綺麗な彼と、包帯という防御壁をはって初めて対等に向き合えたというのに、それを剥がされているいま、彼の焼けつくような視線に射ぬかれて、まともに呼吸すら出来なくなった。目の前の光景が、絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたみたいになって、崩壊してゆく。私が私ではなくなってしまう、怖い、いやだ。
 ぎゅっと目を瞑る。顔を覆ってしまいたかったけれど、顎を掴むアヤトくんの手を退かせられない。もうだめだ。拳を握りしめて、絶望を噛み締める。


「服も髪も顔も、すげぇ汚れてるぜオマエ。なんか拭くもんが必要だな。仕方ねぇ、そこのドラッグストアで買ってくるか」


 真っ暗な視界の中ではざわめく繁華街の声が、鮮明に聞こえた。その中でもアヤトくんの声は殊更はっきりと耳に届いて、その声はなんのことのない普段と何も変わらない色をしていた。そっと、薄く瞳を開いてみる。座る私を見下ろしたアヤトくんは相変わらずで、彼の表情も相変わらず。普段通りの余裕に満ち溢れた、アヤトくんだった。その瞳は化け物をたしかに映しているはずなのに、不快感や哀れみなんかの感情は一切みてとれない。少しもそらすことなく、真っ直ぐにこちらを見つめるその瞳を、思わず見返してしまった。魔力を秘めているんじゃないかというくらいの、美しい翡翠の輝き。満足げな表情を読み取れる程に、生き生きしていた。

 

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