学校を休んでしまった。
 頭痛がする訳でも、喉がいたい訳でも、ましてや熱がある訳でもないのに、ベッドに横たえたままの身体が酷く重くて、どうしても布団の中から這い出すことが出来なかった。まるで背中に根っこが生えてしまったんじゃないかと思うくらいにべっとりと、シーツと背中がくっついている。
 寝返りも打たずに自室の天井ばかりを見上げている。ちくたくと時計の秒針が進む音と、母親が一階のキッチンで何かをしている音だけが聞こえてくる。僅かに首を動かせば壁掛け時計を確認できるけれど、それをしようという気もおきない。
 部屋の中が随分と暗くなってきたから、夜間学校である嶺帝学院の授業はもう、始まっているだろう。そろそろ夕飯時かなあとは思うけれど、それには自信がない。母がキッチンにいるということは、夕食の支度をしている所だとは思うのだけれど。両親の中でわたしは風邪だという事になっていそうだから、優しい母は、お粥を作ってくれているのかもしれない。
 両親には余計な心配をかけてしまって、申し訳ない事をしてしまった。
 あれから、昨日今日とずっと思考を巡らせて、わたしはある一つの、あってはいけない可能性に思い当たってしまったのだ。
 昨日、アズサくんと授業を抜け出して、アズサくんの腕の中でわんわんとみっともなく泣きわめきながら、わたしは一体何を考えていた?
 あの時、背中に回されたアズサくんの腕に、わたしの心臓は壊れそうなくらいどきどきと言っていた。
 わたしは気がついてしまったのだ。アズサくんの姿が瞳に写る度、アズサくんの声が耳に届くたび、ぎくりと大きく跳ね上がる心臓。その罪悪感の影に巧みに隠れ、わたしの目を盗み、すくすくと、少しづつ育っていったその感情に。なんて事だろう。もうアズサくんに合わせる顔がない、そう思った。

「…………ごめんなさい」

 酷く重い両手を持ち上げ、目元を覆う。今までで一番のごめんなさいだ。謝罪を受け入れて貰えていたら、楽だったのに。

「……一人でいるときも、謝ってるんだ……。それって君の、口癖だったんだね」

 真っ暗闇の視界の中、ありえない声が、上から降ってきた気がした。その声を聞くといつもそうなるように、胸がどきどきと鳴り出す。悩みすぎて、空耳まで聞こえるようになってしまったのだろうか。
 視界を覆っていた両手を、ゆっくりと外す。
 電気はつけていなくとも、カーテンを引いていない窓から差し込む月明かりが、充分に明るかった。アズサくんがベッドサイドに立ち尽くし、わたしを見下ろしているのだって、ばっちりと瞳が捉えてしまう。頭上に浮いたその顔は、どこか途方にくれた子供のようにも見えた。

「こんばんは、名前さん」
「……っ、あ、アズサくん……?」
「どうしたの、そんなに口をぱくぱくさせて……?」
「どうして、アズサくんが、ここに……!?」

 あんなに身体が重かったのに、その顔を見た瞬間にぱちんと何かが弾けたような感覚がした。がばりとベッドから飛び起きて、大きく目を見開き、アズサくんの方へ身体を向ける。寝間着のままだし、顔も髪もきっと酷い有り様だろうという事に羞恥心を覚えるような余裕はあるらしい自分を、憎憎しいと思いながら。

「お見舞いだよ」
 そう言ったアズサくんは、なにを当たり前の事を、という表情だ。
「君が、風邪で休んでいるって聞いて、心配で来たんだ……。また、一人が辛くて、泣きそうな顔をしているんじゃないかって」

 やっぱり、母はわたしが風邪だという事で、学校へ報告をしたらしい。細い指が伸びてきて、すっと目元を撫でられる。
 ここにいる理由ももちろん聞きたかったけれど、どちらかといえば手段の方を聞いていたのだけれど、彼には伝わらなかったみたいだ。家を教えた覚えもないし、わたしの部屋は二階なのに、階段を上がってくる足音もしなかった。母が誰かを出迎えた、というような音すら聞いていない。耳を澄ましても、やはり母はキッチンで鼻唄を歌っているというのに。

「やっぱり、思ったとおり……」

 アズサくんの顔がくしゃりと歪み、目元を撫でていた指はすうっと下りて、頬を擽りだす。
 くすぐったくて顔を反らしたら、窓が僅かに空いているのが見えた。もしかしたら、あそこから入ってきたのだろうか、と、有り得ない考えがふと頭を過ったのは、アズサくんがわたしの中で、まだまだ未知のひとだからかもしれない。

「……そんなこと、無いよ。家にはお母さんがいるから、一人ぼっちでもないし、大丈夫」
「でも、泣きそうな顔」
「大丈夫だから……!」

 アズサくんの顔を前にしたら、理由とか手段とか、そんな事、すぐにどうでも良くなってしまったのだけれど。
 殆ど叫ぶように、彼を突き放すように言っても、彼には伝わらないみたいで、ずいっといつものように顔が近づいてくる。疑うような眼差しで顔を覗き込まれる。わたしはベッドの上を這うようにして後ずさる事しか出来なかった。月明かりを反射する長い睫毛や、小さな傷のある鼻や、いつもわたしの血を飲み込んでしまう口がすぐそこに、わたしの部屋にあると思うだけで、どきどきと胸が暴れまわって仕方がない。それは確かに罪悪感からくる音だったのに、それ以上の感覚が、胸の奥から込み上げてくるのだ。
 わたしはきっと、アズサくんの事を、好きになってしまったんだと思う。
 わたしの事を心配して、家までやってきてくれた、アズサくん。どうしよう、いけないと思うのに、すごく、嬉しくて、それから辛い。どうしようもない感情が大きくなってしまうのに、アズサくんの顔を見ているのが辛い。
 嫌いな、憎んでいる相手から好意を寄せられるなんてきっと、気持ちが悪いだろう。それとも、アズサくんはわたしへの復讐のために、わざとわたしが彼に好意を持つように仕向けたの? アズサくんがどうしてもそんな事をするような人に思えない自分と、そうされても当然だと思う自分と、けれどこの気持ちは仕組まれたものじゃなく純粋な好意として胸に抱いていたい自分と、気がついてしまったばかりに戸惑いと色々な気持ちが溢れてきて、もう訳が分からない。
 彼に会ったら、こうなってしまうと分かっていた。
 学校を休んでしまった。わたしは謝罪も何もかもをほっぽりだして、アズサくんから逃げようとしていたのだ。けれど、もう逃げ場はなくなった。
 後ずさっていた背中は壁に当たって、身動きだってとれなくなった。アズサくんもベッドの上を這って、こちらに近づいてきている。

「……名前さん、俺、どうして最近君が元気が無いのかって、どうして風邪をひいたのかって考えてたんだけど……もしかしたら、昨日、あのまま何もせずに帰っちゃったでしょ? 痛いのが足りないから、嫌なことを忘れられずに、風邪をひいちゃったのかなって。それでね……」
「……っ、来ないで」
「え?」

 しまった、と思った時にはもう遅い。アズサくんはわたしの拒絶の言葉を聞いて、ぽかんと呆けた表情を浮かべ、這っていたベッド半ばでぴたりと止まった。わたしは彼を拒絶する資格なんかないのだから、絶対に言わないようにしなければと思っていた事を、ついに口にしてしまった。
 アズサくんが言おうとしていた事も、しようとしている事も手に取るように分かってしまう。これ以上はもう、辛くて仕方がない。

「ねえ、もう、こんな事、止めようよ」

 あれだけ言い出せなかった言葉も、口にしてしまえばするりと出るものだな、なんて他人事のように思う。なんでよりにもよって、今口に出してしまったのか。タイミングは最悪だ。

「こんな事って……?」
「傷、つけたり、傷つけられたり、こんなの、おかしいよ……」
「……おかしい?」

 腕の包帯を解いて、寝間着を捲りあげると、いくつもの真っ赤な傷口が、こちらを見据えていた。アズサくんに見せつけるように差し出したら、彼の眉間に深いしわが刻まれる。

「こんなの、おかしいよ。アズサくんがこれ以上傷付く事なんてない。わたし、もう十分、分かったから……だから……」
「……嫌だ!」
「え?」
「嫌だ! 君は、俺の事が嫌いになったの? だからそんな事を言うの?」
「わたしの事が嫌いなのは、アズサくんだよ……!」

 また、言ってはいけない事をいってしまった。アズサくんは思ってもみなかったとばかりに、目を大きく見開いて、ぱちりと瞬きをした。アズサくんといるといつもこうだ。なんだか噛み合わないというか、歯車がひとつ、ずれているような感覚がする。その正体が、掴めない。

「……アズサくんは、わたしの事が、嫌いなんだよね……?」
「嫌い?」
「わたしは、アズサくんを傷つけてしまった。だから、アズサくんは、わたしを憎んでるんだよね。怒ってるんだよね。当然の事だと思う。ごめんなさい、ごめんなさい……」

 ごめんなさい。
 深く下げた顔を上げたら、全くの検討違いの事を言われたというような表情がわたしを待ち受けていた。アズサくんは首を右に傾け、次いで左に傾ける。

「……嫌いじゃないし、憎んでないよ……」

 うう、と唸るような、捻り出したような、声だった。
 それからアズサくんは思案するように沈黙して、ふいにポケットに手を滑り込ませた。アズサくんがポケットから取り出すのはハンカチなんてお洒落なものじゃないという事を、知っている。
 ぎらり、月明かりを反射するそれ。

「……な、にを?」

 アズサくんがそれを使ってすることが一つしか無いことも、既にわたしは知っているというのに。
 彼は手にしたナイフを大きく振りかぶる。既に馴染みのものとなった痛みが、脳裏を過り、わたしはぎゅっと目を瞑った。

「……ぐっ」

 小さな息遣いが聞こえた。恐る恐る、目を開く。
 ナイフが突き刺さったのは、アズサくんの左腕の手首だった。包帯の上から思いきり突き立てられたナイフが、かくんと九十度の角度を保ち、アズサくんの細い腕からまっすぐ上に伸びている。顔を歪めたアズサくんは柄をしっかりと握り、それを横に引いた。ゆっくりゆっくり、刃先が肉を抉るようにして動く。ぎちり、と嫌な音がする。真っ赤な血が、包帯の向こうからじわじわとあふれでてくる。

「あ、アズサくん……なに、して……?」
「……っ、ぅ。ジャスティンたちが俺から遠ざかろうとする時、こうすると、俺の元に帰ってきてくれるんだ。君も、まだまだ傷が浅いから、俺から遠ざかろうとするんでしょう……? そんな事、言うんでしょう……? ふふ、今、俺が連れ戻してあげるからね……」

 痛みに耐えるようぎゅっと細めていた目を、こちらに向ける。それは、どこかうっとりしているようにも見える。はたはたと、シーツに血が落ちた。包帯を剥がすと、手首にばっくりと割けた傷口に、アズサくんはキスをした。

「……名前。これは、名前さんがくれた、大切な、大切な傷なんだ」
 ちゅっと、音をたて、再びのキス。
「ありがとう」

 ありがとう?
 出会った時からそうだった。アズサくんは、わたしにそう、笑うのだ。真っ赤になったくちびるから、何度も、何度も、ありがとうという言葉が紡がれる。だからもう、辛そうな顔をしないで。アズサくんは、わたしにそう言っているようにも感じた。
 それから、アズサくんは再びナイフを振りかぶり、何度も、何度も、自らの腕に、突き刺した。ナイフの切っ先が彼の肌に埋もれる度、そして引き抜かれる度、血が派手に弾けとんで、シーツには斑な模様が描かれてゆく。わたしは目を見開いて、その光景を異様な光景とも思えず、現実のような夢のような曖昧な心地で享受する事しか叶わない。

 

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