布団でぐるりと身を包み、頭を抱え、膝を立て、ベッドの上で踞っていた。視界は真っ暗でなにも映らない。もうどれくらいの時を分厚い綿の蓑を着て過ごしているのだろう。喉はからからの筈なのに、喉が乾いたという感覚すらも忘れてしまったようだ。こうして少しづつ自分の中の感覚を削ぎ落としてゆけば、いつかわたしも蓑虫のように、悲しみすらも感じない固い殻を纏えるようになるのかもしれない。
 見たくない物は見ないようにすればいい。世界を閉ざせばわたしは一人だ。

「――名前」

 聞きたくないものは、聞こえないように、遮断してしまえ。

「まったく、いつまでそうしている気ですか、貴女は」

 耳を両手で塞いでいた筈なのに、まるで隙間から声を捩じ込まれた様に語りかけられる。穏やかなトーンの、よく通る声。わたしが今一番聞きたくなくて、わたしが今一番聞きたかった声だ。たちまち乾ききった筈の目には水分でできるうるうるとした膜がはり、身体から指先からわたしの力全てを奪い去ってしまう。支えを失った布団はわたしの頭からずるりとずり落ちて、わたしを世界へと引きずり出した。綿の脆い簑は崩れ去り、わたしは目の前の現実を突き付けられる。
 赤い瞳と目が合った。
 逆巻レイジに良く似た雰囲気の男が、ふわふわと宙に浮いたり下がったりしながら、わたしの視界を占領していた。
 レイジさまの死を確認した次の日からだった。“彼”がわたしの視界に現れたのは。まるで硝子体に紛れ込みゼリーの中をぷくぷくと金魚のように泳いでいるみたいに、レイジさまに似たそれは、その日からずっとわたしの視界の捉える先捉える先に付いて回った。
 だからわたしは世界を閉ざすしかなかった。この顔を見ているとわたしは泣きそうになり、考えてはいけない希望に甘えたくなる。

「どうして死んだ筈のレイジさまが、わたしの視界に住んでいるのかな」

 赤い瞳は静かに笑いながらわたしを捉えている。

「まるで飛蚊症みたいね、あなた」

 今ではもう、飛蚊症の症状は収まって、わたしの視界にミジンコの影は写る事は無くなった。ミジンコおばけは死んだのだ。かわりに、その小さな亡骸を寄せ集めて、レイジさまのなりをした大きな人形を捏ね会わせてみせた、そんな感じだ。わたしの新しい飛蚊症は、レイジさま形をしている。
 それはこの瞳に写るレイジさまがレイジさまの偽物であり、わたしの硝子体の混濁が作り出す残像だという証拠に他ならない。都合のいい残像だ。レイジさまは死んだ。自覚するほどにぐにぐにと視界は歪み、ふわふわと浮かぶ偽物のレイジさまが歪む。

「ほら、泣いてばかりいないでお立ちなさい」
「泣いてません」
「そこまで瞳をうるうるとさせているのならば、一緒の事でしょう。せめて水分だけでも補給しなければ、そのうち脱水で死にますよ」
「はは、実は世話焼きなところもレイジさまそっくり。偽物のくせにその声でしゃべるんだもの、たまらないよね」

 わたしの心を絡めとる、気高いひとの声だ。レイジさまの顔をしたそいつはふわりと浮かびながら困った顔をして、息を吐き出した。

「貴女は私を偽物偽物と言いますが、強ち偽物という訳でも無いのですよ。本物の“逆巻レイジ”があの日死んだのは紛れもない事実ですが、私もまた、逆巻レイジの意識をもった、逆巻レイジに他ならないのです」
「意味わかんないよ」
「つまり、私は逆巻レイジが死ぬ前に記憶や意識を乗せ飛ばした、使い魔なのです。私は本物の逆巻レイジではありませんし、実体もない。けれど私は姿や言動に至るまで全て生前の物を残しています。ほぼ逆巻レイジそのものと捉えて差し支えないでしょう」
「ますます意味わかんない」

 それは、もう何度と繰り返したやり取りだった。わたしの視界に浮かぶこの逆巻レイジの形をしたこれは、レイジさまが死ぬ前に使い魔という何だかよく分からない物に何だかよく分からない魔法のような力で魂の一部を乗せて、何だかよく分からないけれどレイジさまの分身のようなものになった存在。そんなような話。
 どうしてそんな事が出来るのかも、どうしてそんな事をしたのかも、わたしには分からないし、信じられない。

「つまり、今の私は貴女方人間が言う“幽霊”とほぼ同一の存在だと認識なさい。それならば貴女の不出来な頭でも十分に理解できるでしょう」
「理解、出来ないよ」

 幽霊、おばけ、わたしだけに見える、レイジさまのおばけ。都合のよすぎる話だ。

「人間にそんな事が出来るなんて、信じられないもの」
「言ったでしょう、私はヴァンパイアだと。貴女がた人間には理解できなくても、私にはそういった事も出来てしまうのですよ」
「……ヴァンパイア」

 結局、それを信じさせて貰う余裕も無いままに、レイジくんには会えなくなってしまった。この状況は異常だ。ニセモノはわたしが話を信じているような前提で、話をすすめている。

「……どうして」
「貴女は私のしもべですからね。主人を失い、さぞ失意の底に沈んでいるでしょうと思いまして。貴女は酷く分かりやすい。私が居なければ、死を選ぶという事が容易に想像がつくようにね」

 このまま部屋に閉じ籠ったままでは、やがては緩やかな死を迎える事でしょう。なんて、説明されなくたって分かる話だ。

「たかだかしもべにここまでして差し上げる必要もありませんが、主人となったからには、主人としての責任も果たしませんと。身勝手なエゴで動物を飼っておいて飽きたら捨てる、そんな浅ましい人間とは一緒にされたくありませんので」

 だから、わたしの新しい飛蚊症である“ニセモノ”は、朝が来るたびわたしに起きろと捲し立て、立て、食事をしろ、水を飲め、学校にいけ、と口煩く言って来るのだろうか。わたしはその度にたまらなくなる。まるで彼はレイジさまみたいだ。

「仮に、あなたの言葉を信用するとして、やっぱりわたしには分からないよ。どうしてわたしなんかの元に、レイジさまの幽霊が来てくれるかなんて」
「貴女のその思慮の足りない真っ直ぐな愚かさがまた、私にとっては救いでもあったということですよ」
「分からない」

 分からないよレイジさま。死んだ後にそんなことを言われたって、自分の作り出した妄想だとしか、到底思えない。

「それにね、やっぱりヴァンパイアだとか使い魔だとかって、わたしには信じられない」

 レイジさまはわたしに、信用させてはくれなかったのだ。もしもあの時、レイジさまがわたしの血を吸っていたのなら、わたしはすんなりと彼が吸血鬼である事や不思議な力をもっている事を信じていただろう。けれど、レイジさまはわたしの血を飲んではくれなかった。首筋に柔らかなキスを幾つかくれただけで、くちびるの奥にあるであろう牙を肌に穿つ事はしなかった。レイジさまがそうしなかっただけなのか、それともそう出来なかっただけなのかも判明しないままに、もうその日は一生訪れなくなった。

「レイジさまはわたしの血を、飲んでくれなかったもの」
「私が貴女の血を口にしていたら、貴女もいずれは――いえ、何でもありません。言っても仕方の無いことだ」


 ミジンコのおばけだと思っていたものは、本当は目が見せる錯覚だった。わたしに色々な知識をくれたレイジさまがわたしに教えてくれた初めての事。おばけなんか居ない、ヴァンパイアも、使い魔なんかも、この世にはいない。これが変えようもないこの世の事実だ。

「というわけで、あなたはやっぱりわたしが見てるレイジさまの幻覚ね」
「貴女という女性は、強情ですね。もう少しきちんと躾をしておくべきでした」
「出来ないでしょう。だってあなた、体が無いんだもの」
「ええ、悔しいですがそのとおり。もうそれはどうでもいい、早く立ちなさい。そしてきちんとした生活に戻りなさい。このまま死なれては困ります」
「どうしてあなたが困るのかな」

 レイジさまの偽物は悲しそうな瞳でわたしを見ていて、それがあまりにレイジさまらしくない表情なのに、レイジさまそっくりで、感情を閉ざし始めた心がぎゅっと締め付けられるようだった。
 わたしはゆっくりと立ち上がる。本当は分かってる、どうしてレイジさまの形をした飛蚊症が見えるのかって。わたしがレイジさまに出来る事は、なんなのかって。
 久々に床を踏み締めた足は自分のものという感覚がしなくて、ぐらぐらと揺れていた。ゆっくり、一歩、二歩と歩き出す。わたしが歩く毎に、幻覚も一緒になってついてくる。

「ねえ、レイジさまの偽物」
「偽物ではないと言っているんですがね。一応返事をしてあげましょう、何ですか」
「わたしね、レイジさまのお側にずっと居るんだって心に誓っていたの」
「ほう」

 なんとか窓まで近づくと、窓を開け放つ。すうっと風が入り込んでカーテンがゆらゆらと揺れる。頬を風が撫でる感覚は久々で、気分がいい。身を乗り出し、遠くにあるアスファルトを見つめる。ずっと考えていた、レイジさまのために出来ること。しもべのわたしに出来るのは、貴方のためにこの身を差し出すこと、ただそれだけ。あなたの機嫌が悪いときはわたしはあなたに悪さをする虫を追い出す努力をするし、あなたが機嫌の良いときはもっと気分よくなって頂けるように美味しい紅茶を淹れる努力をするし、あなたの瞳が闇に閉ざされたときは――。
 見下ろしたわたしの視界に写るのは冷たく固いアスファルトと、ニセモノの瞳の赤さ。ただそれだけだった。

「止めておきなさい、そんな事をしても、人の身では私と同じ場所には行けないでしょう」

 誰かが何かを喋っているような気がするけれど、もう何も聞こえない。血のような瞳だけはずっと視界に浮いている。それが酷く悲しそうに見えて、それだけが苦しかった。この苦しみも、意味の無い感情だと分かっているのにわたしはまだ割り切れなくて、そんな自分が憎たらしい。がくがくと足が震え、その場でぺたりと座り込んでしまう。窓枠に頭を何度も打ち付ける。こんな悲しそうな彼の瞳は見たくないのだ。ニセモノ。硝子体が網膜に映す錯覚のように、きっと世界の全てが偽りだ。

20131021


   

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