紅茶の名店との噂を良く聞くお店で少し高めの茶葉を買った。黄金色の缶に入った、ダージリンのセカンドフラッシュ。こんなものではティーカップのお詫びにはならないかも知れないけれど、無いよりはましだ。
 紅茶の入った袋をぶら下げて、レイジさまの家へ向かう。学校が終わってからお邪魔するのでは時間も遅すぎるから、彼の家には学校が始まる少し前に向かう事に決めていた。家の場所は教えてもらっていないけれど、逆巻家はこの町の人間なら結構知っているというくらいに有名で、わたしも場所くらいなら知っている。
 アスファルトを踏みしめながら既に暗くなり始めた空を見上げた。いつもならふわりふわりと浮かんでいるのが見える筈のミジンコおばけは、やっぱりちっとも見えなかった。今日一日ずっとこんな感じで、わたしの視界は至ってクリアだ。レイジさまが言っていたっけ、自然に直る事もあるって。全てがレイジさまの言う通りだ。わたしのミジンコおばけは死んだ。嬉しい事の筈なのに、ずっと一緒だったものが居なくなったのかと思うと何だか胃の辺りが重い。

 そうこう考えているうちに立派なお屋敷が道の向こうに見えてきた。始めての、レイジさまの家への訪問だ。わたしの心臓は現金なもので、途端にどきどきと高鳴りだす心臓をきゅっと押さえ、一歩一歩を確実に踏みしめながらお屋敷に近づいて行く。昨日だってその前だってずっと放課後の時間を共有しているというのに、どうしてこんなにもレイジさまに会いたいと思うのだろう。わたしの飛蚊症は治ったけれど、レイジくんへの依存は前よりもずっと酷くなったと思う。
 もうすぐ門に到着するという所でふいに逆巻家の門が開かれ、中から人が出てきた。ぞろぞろと、嶺帝学院高校の制服を身に纏った男子が四人続く。その中に、レイジくんやシュウくんの姿は見当たらなかった。恐らく噂でよく耳にする、彼らの弟達だろう。

「おやおやおやー、キミは……」

 帽子を被った子が、ふいにわたしに気がついてこちらに近付いてきた。わたしもまた制服を着ていたので、同じ学園の生徒だという事はすぐに分かった筈だ。

「なんですかこの女、ライトの知り合いですか」
「んー、どこかで見た事のある女の子だと思ってね。あ、そーだ、最近レイジとよく一緒にいた子でしょ?」
「へぇ、あのレイジとねぇ。レイジに何か用か?」

 レイジ、の名を聞いた途端、何故だか皆がおかしそうな顔をして、わたしの顔をじろりと遠慮なく覗き込んできた。レイジさまがそういう顔をするのは非常に珍しい事なのだけれど、まれに意地悪を思い付いた時、こういう顔をしている時がある。彼らはレイジさまに何処と無く似ている。その弟たちが、こういう顔をしているということは――。

「あの、逆巻レイジさんに会いに来たんだけど、レイジさんは居るかな」

 四人は顔を見合わせて、少しの間だけ見つめあう。周囲に満ちる妙な空気に、ざわり、と胸がざわついて、腕には鳥肌が立っている事が分かる。まただ。昨日からこんな事ばかり。何故だか不安な気持ちになってぎゅっと手を握りしめたら、レイジさまの手当てが施された指先の傷口がちくりと痛んだ。

「レイジなら中にいるから勝手に入って会っていきなよ。んふ、こんな日にレイジに客がやってくるなんて、ほーんと、可笑しいよね」
「クク、オマエもそーとー性格わりぃよな」
「アヤトくんの頭ほどは悪くないさ」
「んだと」
「おい、お前ら、どうでもいいけどさっさとリムジンにのれよ。遅刻すんだろ」
「んもー、スバルくんたら本当にせっかちさんなんだから」

 漫才のような会話を始めた彼らは、道に停まっていたリムジンに一足先に乗り込んでいた白髪の子の呼び掛けで、しぶしぶリムジンに乗り込んでゆく。レイジさまも、いつもあの黒塗りの美しいボディをしたリムジンで登下校をしているので、見慣れたリムジンだ。今日は、レイジさまの姿がない。という事は、やはり彼らの言う通りまだ家の中に居るのだろう。

「じゃあ、僕たちは学校に行きます。君はゆっくりしていくといいですよ、ゆっくりとね」

 最後に残ったくまを抱きかかえた子が、ふふふ、とテディ・ベアに笑顔を向ける。彼がリムジンに乗り込めば、すぐにそれは動きだし、テールライトのきらめきも、じき見えなくなる。彼らがくすくすと漏らすように吐き出した笑い声がずっと耳に貼り付いていて、それはわたしの中に顔をだし始めた不安の芽を育てる養分のように、じわじわと広がってゆく。
 わたしは衝動的に走り出す。
 門を押し、初めての逆巻家へ足を踏み入れる。何度か呼び掛けてみたけれど、返事は無かった。内装を眺める余裕も無いくらいに真っ暗で、照明すら灯っていない屋敷内は、まるでここには誰ひとりとして居ないと伝えているよう。
 咄嗟に、駆け出していた。あてもなく廊下を走る。始めて入る家なので、どちらに曲がればいいのかも分からない。そもそもどちらに曲がったのかすらも、覚えていない。必死に走り回る自分の足音が耳障りだ。バルコニーの扉を押し、やっとの事で「彼」の姿を見つけ出したのは、わたしが三回は転んだ後の事だ。


「……レ……っ」

 バルコニーに入った瞬間に、今まで感じた事の無い種類の吐き気を覚え、口が痙攣したようになってしまった。息を吸った瞬間に、長年雨風の中に放置され錆きった鉄を鼻にそのまま押し込まれたみたいな、不愉快なにおいがした。バルコニーの床面積を多大にしめる大量の赤色。すすり泣く女の子の声と、風のざわめき、それ以外は何も聞こえない。レイジさまは真っ赤な水溜まりの中に身体を横たえ、固い沈黙を守っていた。
 逆巻レイジが死んでいる。
 すぐに直感でそう感じた。満月の夜空を仰ぎ倒れた彼の胸には、アンティークの剣が寸分の狂いもなくぐっさりと突き刺さっている。墓地に突き立てられた墓標のようにその剣は真っ直ぐ上に伸び、赤く染まる地面に不穏な影を落としていた。この不愉快な臭いはきっと彼の血の臭いなんだと、混乱する頭がやっとで答えを導きだす。腹の底から沸き上がってくる吐き気は、乗り物酔いのように身体的なものではなく、精神的なものだ。足がぷるぷる震えている。
 横たわるレイジさまの人形のような肢体の向こうに、同じくシュウくんが沈んでいて、彼もまたぴくりとも動かない。シュウくんもきっと息をしていないという事は、見ただけで分かる。彼の胸にも同じく、剣が突き刺さっているのだ。派手な装飾の施された柄の部分は、真っ赤な血で彩られている。
 その脇で、小森さんがシュウくんにすがり付いて泣いていた。シュウ、シュウ、と壊れた機械のように呟いている。
 わたしには何が起こっているのか、皆目検討もつかなかった。呆気にとられ何も考えられない自分、酷く動揺して叫び出してしまいそうな自分、至って冷静に状況を把握しようと周囲に目をやる自分。いろいろな自分が、入れ代わり立ち代わり自分の主導権を握る。

「れ、レイジ……さま……?」

 わたしはレイジくんに、この二人の間に何があったのかを教えては貰えなかった。わたしは結局、レイジさまにとっての部外者だったのかもしれないと、冷静な自分が考えている。だけど、今日その二人の間の問題が終演を迎えたという事だけは、部外者のわたしでもわかった。二つの剣、二人の戦士。何が起こったのかは想像するしか無いけれど、何となくレイジさまがどうしていたのかだけは分かる。二人は戦ったのだ、命を賭して。常識としてあり得ないような光景だけれど、なんとなく納得できてしまう光景でもある。結果は引き分け、二人とも命を落とした。現実って言うのは呆気なくて、何が起こるかも分からない。
 わたしには何も分からない。
 震える足でなんとかレイジさまに近付いて、そっとその脇に腰を下ろす。ぬるりと足もとがぬるつく。

「レイジさま、どうして?」

 半分開いた赤い瞳が美しくきらめく満月を見上げている。すっかり開ききった瞳孔を、降り注ぐ月光が鮮明に照らし出していて、動揺しきった自分が一気に表面に出てくる。なんで、なんで、こんな事に。シュウくんにしがみつく小森さんならばあるいはここに至るまでの経緯を知っているのかもしれないけれど、レイジさまが教えてくれなかった事を別のひとに問うのは違うだろう。やっぱりわたしには、分からない。それはわたしに知る資格が無かったという事だ。

「どうして、今日はわたしの淹れた紅茶、飲んでくれるんじゃ」

 震える指でそっとその白い頬に触れてみる。冷たい。レイジさまはいつも体温が低い人だったけれど、それよりももっと冷たくて、驚いてしまった。やはりレイジさまの命は、もうなくなってしまったんだな。そう思い知らされる温度。じわりと涙が込み上げてくる。ぴくりとも動かないレイジさまの面影が歪んでいる。わたしもレイジさまに縋り付いてわんわん泣きたい気分だったけれど、それをしてレイジさまが喜んでくれるとは思えなくて、身体が動かなかった。

「わたしの血も、いつかは飲んでくれるって……」

 そっとくちびるに触れる。わたしの首に押し当てられた時は確かにふにりと柔らかかったのに、それは生き物の感触なんかしなかった。眠り姫を起こす王子様のように、レイジさまのくちびるに口付けを落としても、冷たくて、少しも動かなくて、いやと言うほど現実を実感させられるだけ。目を覚まして、しもべごときが主人に口付けするとは何事です、と、いつもみたいに優雅に眼鏡を押し上げながら、叱ってくれるのだと仄かな期待を抱いていた。

「う、……うう」

 両手で顔を覆えば、存在すらも忘れかけていた袋が手から滑り落ちて、赤い地面に叩きつけられた。
 レイジさまのために買った紅茶の缶がカンッ、と音を立てる。蓋が弾け飛び、バルコニーの向こうにごろごろと転がって行き、落ちた。
 ざらりと散らばったダージリンの茶葉。
 黒い粒々がぞろりといくつも連なって、赤に沈んで曖昧な影を写していた。レイジさまとの大切な想い出の欠片がちらばってしまったようで、わたしはそれを両手でかき集めると、抱き締めた。茶葉は赤く染まり、掬い上げるそばからぽろぽろと指の間を溢れ落ちてゆく。わたしはこの両手にレイジさまのほんの一部だけでも掴まえたような気でいたけれど、それは違ったのだ。
 レイジさまはもう何処にも居ない。

20131022

   

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