そのレイジさまの告白は、普通の人間ならば誰だって耳を疑ってしまうようなものだった。彼を知らない人間なら彼を頭のおかしな人だと思っただろうし、彼を知っている人間ならば理性的なくちびるが発するその言葉の意外性に腰を抜かしただろうし、彼の事をわりとよく知っているんじゃないかと自負するわたしみたいな人間ならば、或いはそんな事を言うかもしれないと妙に納得してしまうような、そんな言葉。それはまるで「わたし、ミジンコおばけが見えるの」と、わたしが見当違いな告白をしたあの日の逆転のような出来事だ。

「名前」
「はい」
「もしも私が今ここで、私は実はヴァンパイアですと言ったら、貴女ならば一体どうします?」

 わたしは紅茶をティーカップに注ぎ入れながら、彼の凛とした声色が、告白の内容とは何ともアンバランスだな、なんて考えている。

「え、それは少し困ります。わたしはレイジさまが人間だという前提でずっと接してきたから、これまでの態度を改めなきゃならなくなるじゃないですか」

 こぽこぽと音が鳴るたびに科学室はいい香りに包まれてゆく。わたしにはよく分からない研究書類を纏める作業をしているレイジさまにも香りは届いているようで、資料を指先でなぞっていたレイジさまのくちびるにも僅かな笑みが浮かんだのが見えた。最後の一滴、ゴールデン・ドロップまでをカップに注ぎ入れたら、わたしのお仕事はおしまいだ。

「――というのは冗談で、ヴァンパイアって本当に居るものなんですか?」
「ええ」
「断言するんですね。わたしにはヴァンパイアなんて未知のものだし、存在を信じられるかどうか」
「ミジンコの霊が見えるだなんだとのたまっていた人間の台詞とは思えませんね」
「う、それは。あの、それって仮にの話ですか? それとも本当の話?」

 首を傾げながらの、心の中での確認作業。汲みたての水を沸かした。よし。ポットとカップはきちんと温めた。よし。茶葉の量は寸分狂いなく彼好みのブレンドと計量。ばっちり。ティーコゼーは。忘れてない。タイマーは一秒の間違いもなく。よし。そして何より、味見をした。オーケーだ。完璧。なによりも、部屋に漂うこの芳しい香り! 最高の紅茶を淹れ終えたわたしは内心のどきどきを悟られないように澄ました顔で、完成したティーカップを差し出した。

「さて、それくらい自分で考えなさい」

 わたしの質問に明確な答えはくれず、ふっと口角をつりあげると、レイジさまは資料に触れていた手を一旦止める。そしてその手でティーカップを持ち上げると、くちびるにそれを運ぶ。ああ、ついにこの時がやってきた。ああして何か作業をしていても、わたしが紅茶を淹れ終えればすぐに口に運んでくれるレイジさまが大好きだ。相変わらずの優美を感じさせてくれる所作が、今は凄くもどかしい。あのティーカップを口から離した時、彼のくちびるは心地よく吊り上がっている筈。

「ほう、……美味しいですね」

 ティーカップから口を離したレイジさまが呟く。そのくちびるはやっぱり吊り上がっている。わたしは途端ににやりとしてしまった。

「ほんとう?」
「ええ、貴女がこんなまともな味の紅茶を淹れられるとは、正直驚きました」
「えへへ、実は今日のは自信作だったんですよ。もしかしたら、初めての百点ですか!」
「九十五点」
「ええ、後の五点は何処に消えてしまったんですか」
「貴女の態度に些かの苛立ちを覚えたもので」
「気分で左右するものだったんですか……。じゃあ味は百点って事ですね」
「あまり調子に乗らない事だ」

 はあいと返事をしつつも、顔がにやけてしまうのは仕方がない。だってあのレイジさまに誉められたのだから。それに、今日の紅茶は本当に自信があった。頑張れば成果はついてくるものだと、わたしは彼に出会って学んだ。中の下だった成績も、ここ最近では随分と上がった事だし。
 にまにましながら紅茶を楽しむレイジさまを眺めていれば、まぐれでしょうがねと呆れられてしまった。

「まぐれはまぐれでも、成果を上げたしもべには主人として褒美を与えなくてはなりませんね。こっちに来なさい」
「え、褒美?」
「ええ、褒美として、貴女の肌に私の牙の痕を刻んで差し上げましょう」

 どうやら先程の会話はまだ続いていたらしい。くいっと吊り上がるくちびるの隙間から、獰猛な獣が持つ鋭い牙のようなものがちらりと見えた気がして、まさかと思った。まさか、本当に。レイジさまなら吸血鬼でもおかしくないと思えるあたり、さすがレイジさまだ。

「それって、物語の中の吸血鬼が少女の血を吸う様に、レイジさまがわたしの血を吸うって事ですか?」
「ええ。それが褒美では不満ですか?」
「いえ、光栄です!」

 ぶんぶんと首を振り、全身でどれくらい光栄に思っているのかを表現しておいた。わたしが見た事のある創作の中の吸血鬼のその行為は決まって、死を伴う苦痛に満ちたものか、扇情的に描かれているか、そのどちらの性質も持ち合わせているか、そんな感じだった。不思議と、怖いとは思えない。

「もしもレイジさまがわたしの血を飲んで下さるのなら、わたしもレイジさまがヴァンパイアだって事を信じさるを得なくなるわけですね」

 レイジさまは上機嫌な時の顔をして、飲み終えた紅茶を脇にやり、わたしを手招きする。

「では、こちらに。これは褒美ですから、貴女に選ばせてあげましょう。好きな場所を私に差し出しなさい。そこから吸血して差し上げますから」

 わたしは少し迷ってから、ゆっくりとレイジさまの座る椅子に近付いて、上体を屈める。たらりと宙ぶらりんになったリボンの端をしゅるりと引いて、制服の襟元を緩めた。どきどきと、胸が煩かった。首をレイジさまのくちびるの元へとそっと近付ける。よく物語で見るのは、この場所から血を啜るヴァンパイアの姿だ。だからこうしてしまったのは刷り込みのようなものだったのかもしれないけれど、すぐに失敗したなと思った。彼のくちびるが近づくにつれて、息もかかるような距離の近さと恥ずかしさに息が詰まった。あと五センチもすればくちびるとぶつかるというところまで体を接近させてから、わたしは動きを停止する。心臓がどきどき言い過ぎて、これ以上は無理だ。わたしの視界には近すぎるレイジくんの髪の毛しか映っていなかった。彼にこの間抜けなわたしの顔を見られないのが何よりの救いだ。

「首筋ですか、貴女にしてはよい選択です。いいでしょう」

 耳のすぐ近くで聴こえる声が上機嫌だったので、彼のくちびるがつり上がっているという事はすぐに分かる。ちゅっと首の横に小さなキスを落とされて、その柔らかな擽ったさに身を捩る。レイジさまに肩を掴まれ、身体を固定された。こうなれば後は牙を突き立てられるだけ。心臓がどきどき言いながら、早く彼に飲まれたいとばかりに全身に血液を送り出す。
 もう一度キスが落とされる。今度は少し長く、少しだけ肌を吸われたような感覚がした。ぬるりとした口の粘膜の感触。温度は驚くほど低くて、熱くなったわたしの肌には酷く心地いい。
 ぎゅっと両目を瞑って、叫びだしそうなくちびるを必死に閉じる。あのレイジさまがわたしにキスをしている。頭がおかしくなってしまいそうな状況だ。本当に血を吸われるのか只の冗談かは分からない、レイジさまはわたしの気持ちを分かっていて、こんなことをしているのだろうか。いくらしもべといえど、これは、なんというか。
 ついにぱくりと柔らかく肌を食まれ、全身にぞわぞわとした感覚が広がっていった。どきどきと煩すぎて耳までおかしくなりそうだ。

「くく……」

 真っ暗な視界の中ぷるぷると震えだす両足で必死にかがみこんでいると、小さな笑い声と共に、ふっと首から圧迫感が消える。耳許で囁かれる声。

「はしたない音ですね。どきどきどきどきと、まるでこの両手に爆弾を抱いているかのようだ。これ以上は、貴女の心臓が爆発してしまいそうですね」

 とんとん、とレイジさまの長い人差し指に胸の間を弾かれて、どきんとまた心臓が跳ねる。それこそまるで爆発でもしてしまったかのように、胸が爆音を掻き鳴らし、かああっと顔に血が募る。慌てて顔を見上げたら、レイジさまがぺろりと自分のくちびるの端を舐めている所だった。赤い舌がぬらりときらめき、酷くなまめかしく映る。

「本当に爆発でもされたら迷惑なので、今日はここまでにしておきましょうか」

 その時のレイジさまは、普段からは考えられない獣のような獰猛な目付きでわたしを見詰めていて、息まで苦しくなってしまった。窓の外では満月を明日に控えた密のような色の月が輝いていて、それを浴びたレイジさまはまるで本物のヴァンパイアのようだ。そう思えば、きゅうっと胸が締め付けられる感覚。その場を誤魔化すように慌てて立ち上がり、彼の大切なティーカップを回収すると、彼に背を向ける。
 ――レイジさまは、わたしの肌に牙を立てる事はなかった。
 それは、今のが只の冗談で、戯れにしもべをからかってみただとか、レイジさまが吸血鬼ではなかっただとか、そう言ってしまえばそれまでだけれど、わたしにはそうは思えなかった。レイジさまはわたしの血を、吸わなかったのだ。小森さんの顔が脳裏にちらついて、ぶんぶんと首をふる。わたしは、なにを馬鹿なことを。
 嫌な思考を吹き飛ばすため足早にティーカップを運び、それを洗う事に専念する。それでも動揺が現れてしまったようで、つるりと手が滑り、滑り落ちたティーカップが叩きつけられた。ぱりん、という音がして、ティーカップは真っ二つに割れてしまった。

「あ……」
「何事ですか」

 直ぐ様駆け寄ってきたレイジさまが肩口からわたしの手元を覗きこみ、呆れ果てたような声をあげる。

「ああ、まぐれで美味しい紅茶は淹れられても、最後の最後でへまをするというわけですか。これだから貴女は」
「……ごめんなさい」

 このティーカップは、レイジさまの大切なものだったのに。なんて馬鹿な事を。これは、浅ましい事を考えたわたしへの罰だ。慌てて割れたらカップを拾おうと手を伸ばし、指先に走った鋭い痛みにびくりとする。

「……っ」
「……! 何を考えているのですか貴女。割れた食器に素手で触れる馬鹿がどこにいます」

 貸してみなさい、とレイジさまがわたしの指を持ち上げる。その声が少しだけ普段の調子を崩しているのが意外で、指を切った瞬間よりもよっぽどびっくりしてしまった。持ち上げられた人差し指にはばっくりと一つ傷口が裂けていて、じわりと玉のような血がすぐに染み出した。表面張力が崩れるとつつ、と血が指に伝う。レイジさまの瞳の色のようだと思った。レイジさまは暫くそれを取り憑かれたように眺めていた。今にも血が床にこぼれ落ちてしまいそうだ。

「っ、あの、レイジさま?」
「いい色だ。貴女の血は、紅茶よりも喉を潤してくれそうですね」
「……飲みますか?」

 いいえ、とだけ簡潔に呟くレイジさまの瞳は、今一体なにを映しているのだろう。
 暫くしてから鞄から小さな救急セットを取り出したレイジさまの手つきは滑らかだった。血を拭いガーゼを巻いて包帯をして、それで処置は終了。拭われたわたしの血はごみ箱へと捨てられる。

「貴女に任せるとろくなことがありませんね。このティーカップは私が片付けておきますから、貴女はもう帰りなさい」

 何だかレイジさまに突き放されたような気がして、足元を見下ろしてしまう。床に落ちた影が醜いわたしの心の中みたいな色だ。ごめんなさいとありがとうとお願いしますを言ってから、わたしは鞄を持って科学室を後にする事にした。

「――明日は、私の家に来てください」
「え?」
「貴女がティーカップを割ったのでしょう。茶器が無ければ紅茶は飲めませんからね。明日からは私の家で淹れて頂きますよ。私のしもべとしてね」
「……レイジさま」

 そのあなたが背中に背負っている食器棚にきっちり整列して収まった、美しく磨かれているものはなんですか。ご主人さまの優しさは分かりづらすぎて、頭の悪いわたしでは見逃してしまいそうです。










 レイジさまの家に呼ばれたという事実は想像以上にわたしの胸に喜びをもたらしてくれたみたいだ。ぶらぶらと鞄を振りながら廊下をひとり歩くわたしの足取りは、思ったよりも重くはない。
 暫く行った所で角を曲がると、向こうから来ていたらしい人とぶつかりそうになった。あわてて足を止め、至近距離にいるその人の顔を見上げる。
 逆巻シュウくんが、すぐ目の前に立っていた。
 驚いてしまった。遠くから見ているばかりで、こうして近寄るのは初めてだ。レイジさまの憎しみと羨望を一心に受けるひと。シュウくんは長い睫毛の生えた目蓋で眼球を半分覆い隠して、今にも眠ってしまいそうな表情をしている。

「……あんた」
「あ、こ、こんばんは。失礼します」

 わたしの存在を認識した瞬間に、僅かに持ち上がる彼の目蓋。もしかしたらわたしがレイジさまの兄であるこのひとの存在を知るように、このひともまたレイジさまに付いて回るわたしの存在を認識しているのかもしれない。
 きっとこのひとと会話をするのは、レイジさまへの裏切りだ。わたしはぺこりと軽く挨拶だけをすると、早々にその場を去ろうとする。

「……なあ」
「っ、なんですか」

 背後から腕を取られつんのめりそうになったわたしは、振り向かざるをえなくなる。

「あんたは、レイジの……」

 シュウくんは何かを言いかけて、暫く間を取り、その間ずっとわたしの瞳を見詰めていた。値踏みするような、全てを見透かしてしまいそうな、ブルーの瞳だ。硝子玉のように美しい瞳だったのに、恐ろしいものに睨みすえられたような心地がするのは、どうしてだろうか。たっぷりと余白をつけた後、彼はいやと首を降る。

「何でもない、呼び止めて悪かった」

 それからシュウくんは何事もなかったような顔をして、歩いていってしまった。わたしといえばそのシュウくんの背中に、何処から沸き上がってくるのかも分からない不安感を覚え、彼に取られた腕をぎゅっと抱き締めている。ざわりと胸騒ぎのようなものが胸を隙間なく満たしていった。
 苦し紛れに天井を見上げれば、その時初めて気がついた。白い天井に照明。わたしの視界に、ミジンコおばけはもう一匹だって居なくなっていた。


20131021




あれ???
学校に研究室があって、そこにレイジさんが色々私物持ち込んで入り浸ってるのかと勝手に思ってたけど、あれは逆巻さんちにあるのかな……???
色々間違えてたらごめんなさい

   

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