今日のレイジさまはすこぶる機嫌が悪い。……と思う。


 非常に困った事に、人間って生き物は多かれ少なかれ「気分」という不確かなものに行動を左右されやすい厄介な生き物だと思う。それは本人が望まざると結果的には態度に現れてしまうし、得てしてそれは周囲の人間にも何らかの影響を及ぼしたりもする。
 けれど、逆巻レイジという名前のわたしのご主人さまだけには、そんな見解も当てはまらないだろう。
 彼はその日だってクールな仮面を貼り付けて、凡そ普段と変わらないような顔で授業をこなしていたのだから。レイジさまの三つ隣の席に座るわたしは彼の事が気になってろくに教師の話すら聞いていなかったというのに、とうの彼と来たら全くもって普段通り、英語で当てられた時なんか、教師よりよっぽど上手い外国人さながらのネイティブな英語を披露して、教師の面目丸潰れにしていたくらいだ。
 彼の機嫌如何なんか誰も気にすらしていないし、レイジさまだって誰にも悟らせるつもりもなかったんだと思う。それでも彼がどこか違うと分かるのは、わたしもそれだけ彼と一緒に居るんだという事だろうか。なんといってもわたしは彼のしもべだし。

「隣のクラスの授業に一学年下の女子生徒が混ざっていたらしいの」
 そんな噂を耳にしたのは休み時間のはなしだった。その次の休憩時間には既に、その噂の主は小森ユイさんで、逆巻シュウくんが彼女を連れてきたんだという事まで噂になっていた。
 レイジさまの機嫌とそれとに何らかの関連性があるのかどうかは、ただのしもべであるわたしが勝手に決めつけていい事柄では無いけれど、睫毛の先まで気品のある彼の僅かばかりの変化だけは、紛れもない事実だった。







「い……いひゃいですレイジさま」

 うにいーと頬を左右に容赦なく引っ張られたわたしは、溺れた人間さながらにばたばたと手足をばたつかせながら、目尻に涙を浮かべていた。すぐ目の前にあるレイジさまの瞳が嗜虐心にぎらぎらしているのと、頬をつねる彼の長い指がとても綺麗だと思うわたしはどうかしている。放課後という名の静寂の中、科学室という名の彼の城に二人きりで身を浸せば、彼はもう装う事はしなかった。それが嬉しいと思うわたしもやっぱり、全くもってどうかしている。

「ほう、これはよく伸びる。どこまで伸びるか実験でもするべきでしょうか」
「い、いやです、いひゃい、いひゃいですってレイジひゃまたすけて」
「煩いですね、耳障りな声を立てないで下さい」
「ひゃれがそうさせてるんですか、ひゃれが……いひゃひゃひゃひゃ」

 もはや言葉になっていない言葉を吐き出せば、恐ろしい事に再び彼のドSスイッチを押してしまったらしく、左右に引っ張られる力が増した。今にもぷつりと頬がもげてしまいそうな力加減にじたばたと暴れまわる。暫くして離してもらえたはいいが、じんじんと頬が痛んで仕方がない。わたしは両頬をさすりながら、レイジさんの瞳を涙目になりながら見つめる。
 しもべに八つ当たりですか、ご主人さま。
 とは言わないでおいた。今日のレイジさまが少しだけ機嫌が悪くて、いつも完璧なレイジさまでは凡そ考えられないような子供じみた――そう、これはきっと八つ当たりだ。今日のわたしに粗相をしでかした記憶はないのだし。いつも優雅な彼が、こうしてわたしに感情らしいものをぶつけてくれたのだとしたら、わたしは彼の懐に少しでも入り込めたのではないだろうかと思う。それは多分、わたしの思い上がりではない気がする。最近のレイジさまはいつもこんな調子だ。


「何です、その恨みがましそうな目は。これは不出来なしもべへの躾です、鞭打たれないだけ感謝なさい」
「でもレイジさま、わたしだってこれでも三回に二回は美味しい紅茶を淹れられるようになったんだから、少しだけ褒めてくれたって――」
「口答えをしない」

 ぎゅむっともう一度頬を軽くつねられて、うぎゃっという悲鳴と共に言葉を飲み込んだ。
 これでもわたしは、三回に二回はレイジさまのお許しを貰えるような紅茶を淹れられるまでに成長していた。不出来なしもべが一ヶ月もしない内にそこまで成長したという事を、彼はもう少し評価するべきだと思う。今日の紅茶だってレイジさまの気持ちを少しでも癒せるように、いつもよりちょっと気合いを入れたので、少しだけ自信があったのだけれど、どうも今日のレイジさまの目は厳しくなっているらしい。普段の彼の合格点が八十点の紅茶なら、普段のわたしは八十点の紅茶でギリギリ合格を頂いていたけれど、今日のわたしの紅茶は八十五点だったのに、今日のレイジさまの目は厳しく合格点も九十点に引き上げられていたという感じ。完璧を求める彼にしたら百点満点の紅茶が淹れられない時点であれなのかもしれないけれど。

「不味い」

 もう一度ティーカップを口に運んだレイジさまが、咎めるような溜め息を吐き出す。かしゃん、とソーサーに下ろされるティーカップがいつもより乱暴な音を奏でた事で、やっぱり今日の彼の機嫌の悪さは本物だと再確認。食器に触れるときのレイジさまはいつだって大切なものを愛でるような手付きをしているのだから。

「温度が高ければいいというものでもありません。これでは折角の香りが死んでいる」
「う、ごめんなさい」

 再び口に運んでからのお叱りに、ぺこぺこと頭を下げるわたしは滑稽だ。不味い不味いといいつつも、ああやってちゃんと飲んでくれるあたり、やっぱり合格点には達していたんだとは思うんだけれど。

「……あの、今日は何かあったんですか?」

 眼鏡の奥の長いまつげが持ち上がり、赤い瞳が静かにわたしを映し出した。ちりり、と何かが燃えた気がする。

「何か、とは?」
「今日のレイジさまは何だか機嫌が悪いみたいです。何かあったんですか?」

 我ながら少し、白々しいなと思った。わたしは彼の気持ちが今どこに向かっているのか、既に勝手に想像を巡らせてしまっているのに。ふう、とレイジさまが吐き出した息はそんなわたしの全てを見透かしたように凍てついている。

「またそれですか。貴女は自分の立場を未だ正しく理解していないようだ。よく知りもしない女性に好き勝手気持ちを妄想されるのは不愉快だ、そう言ったはずですが」
「立場は、きちんと理解しているつもりです。わたし考えたんですよ、しもべって一体何なのか」
 無い頭を働かせて、いっぱいいっぱい考えたのだ。
「確かに、前のわたしはあなたの事をあまり知らなかったし、今だって殆ど知らないかもしれないけれど、ご主人さまであるレイジさまの事は少しだけ知っているつもりです」

 お気に入りの紅茶葉も、科学室に並んでいる食器棚の中の食器はどうやら彼の私物らしくそれをとても大切にしているという事も、彼はこの部屋で何やら重大な研究をしているらしいって事も、厳しいけれど優しいところもたくさんある事だって、教えて貰ったわけじゃないけど知っている。それから、レイジさまがプライドの高いひとだという事も。だからつまり、わたしがこんな事を言ったら彼の自尊心を傷つけてしまうかもしれないし、実際この前レイジさまを酷く怒らせてしまったのはこれのせいかもしれないけれど、それでもやっぱりわたしは彼のしもべとして、聞いておかなければならない気がするのだ。
 今日のレイジさまには彼の気分を害する悪い虫が取りついている。そいつは厄介な事にいくらレイジさまであっても中々には取り除けないし、プライドの高い彼はきっと、他の誰かとそれを分かち合うような事もしない。けれどわたしはレイジさまのしもべだ。彼が悪い虫に悪さをされているなら虫除けスプレーを持って直ぐ様駆けつけるべきだと思うし、彼の事をもっと知らなくてはならないと思う。一緒に過ごして分かった。彼は強く気高いひとだけれど、強いばかりでもない。彼の心にはなにかひとつ、彼を苛むものがどっしりと根付いて蝕んでいるのだ。彼が逆巻シュウくんを見つめる時のあのどろりとした瞳の色が、どうしても瞼の裏から離れない。ちくちくと、わたしの心まで蝕まれてゆく。

「ねえ、レイジさま、わたしはあなたのしもべ、そうですよね?」

 機嫌の悪い所を見せられる存在が誰一人として居ないだなんて、そんな悲しい事はない。ひとが気分に左右されやすい生き物として神に創造されたのなら、やはりそれはひとに必要な事なのだから。完璧に着こなしたスーツを、僅かな間だけでも着崩せる空間、レイジさまにとってのそういった存在にわたしはなるべきではないのか。しもべというのはどうするべきなのか、ずっと考えていた。

「しもべの前で気なんか張らなくてもいいと思いません?」

 わたしが導きだした結論は、これだ。

「くく、あははは、生意気な事を言う。貴女という女性はおかしな事ばかり言いますね」
「わたし、冗談で言っているわけじゃありません」
「ええ、貴女がそんなずる賢い嘘がつける知能を持ち合わせていない事は既に承知です」
「……それは酷いです」
「いいでしょう。そこまで言うのでしたら、こちらに来なさい」

 ちょいちょい、とレイジさまが手招きをする。耳打ちでもされるのかと思って近寄れば、ぐにっとまたしても頬を引っ張られた。痛みが走る。

「いっ」
「本当に愚かですね、貴女は。いいから貴女は大人しく、私に従っていればいいのです。余計な事は考えずにね」
「で、でもレイジひゃ」
「返事は」
「い、いひゃいいひゃい、わ、分かりました」

 そしてまた冒頭へと時が舞い戻る。うにいーと頬を左右に容赦なく引っ張られたわたしは、溺れた人間さながらにばたばたと手足をばたつかせながら、目尻に涙を浮かべた。レイジさまはそのまま、本当にわたしの頬がどれくらい伸びるのか実験を始めたようだ。
 結局レイジさまはわたしに胸の内を打ち明ける事はしなかったので、それ以上の追求は諦めた。でもわたしね、あなたの瞳の中の憂鬱が少しだけ和らいでいるという事を、知っているんです。それはわたしの願望がそう見せただけで、わたしの独り善がりでしかないのかもしれないけれど、その日、レイジさまはわたしに隣に並んで廊下を歩き、校門まで一緒に帰るお許しをくれた。
 頬はその日一日ひりひりと痛んだけれど、そんな事はどうでもいい。わたしの虫除けスプレーは少しくらいは役にたったみたいだから。
 こうしてわたしを従える事で少しでもあなたの中で何かが満たされるのなら、あなたに支配される事こそがわたしの喜びだと、最近すごく思うんです。
 だからわたしの事、たくさん叱って苛めて躾てくださいね、レイジさま。わたしだけはずっとあなたのお側にいますから。

20131019

   

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