「……温い」

 どきどきとしながら見つめていた彼のくちびるが発した第一声に、わたしはがっくりとうなだれてしまった。呆れたように潜められる眉に更に追い討ちをかけられる。

「口を酸っぱくして言った筈ですよ、紅茶に大切なのはまず何よりも水と温度だと。ちゃんと保温はしたのですか?」
「……あっ」
「その様子ではまた忘れていたようですね。まともな紅茶の淹れ方も知らないばかりか、言われた事すら満足にこなせないとは、役に立た無いしもべだ」

 ティーカップをソーサーに乗せると、そっと脇に押しやるレイジくん。今日もまた彼の満足いく味には辿り着けなかったようだ。すっかり存在を忘れていたティーコジーを握りしめながら、手元の柔らかさとは真逆の気分ではあと溜め息をつく。これの使い方すら分からなくて鍋掴みか何かかと勘違いしていた三日前の自分よりは、随分と成長したと思うんだけれど。

 晴れて彼のしもべとなったわたしは、放課後になるたび彼の城といっても過言じゃない科学室に赴き、彼愛用の茶器を使って、彼に紅茶を用意するという大切な使命を授かった。紅茶なんかティーパックの安物しか飲んだ事の無いわたしの腕前はお察しの通り。もう三日は彼のしもべをやっているけれど、今の所は全戦全敗中であるので、呆れられても仕方がない。

「あの、ごめんね、レイジくん。次こそは」
「口のききかたというものがまるでなっていない。貴女は主人に向かってそのように気安い口を聞くしもべを見たことがありますか」
「う、申し訳ありませんでした、レイジくん」
「呼び方」
「レイジさん?」
「……」
「レイジさま」
「よろしい」

 やっとで出たお許しに、ふうと息を吐き出す。レイジくん改めレイジさまは、何というか、物凄いスパルタ主人だ。自分の管理下にある者の怠慢は許さないとばかりに、立ち居振る舞いや言葉遣いや勉強に至るまで、わたしは常に完璧を求められるようになった。おかげで成績が少しだけあがったって言うのが、ここ最近の自慢だ。
 わたしは出来の悪いしもべだったし、レイジさまはわたしに前よりも厳しくなったけれど、彼はわたしを見捨てたりはしなかった。彼と一緒に放課後を過ごせる事になり、目下の所わたしは幸せだ。お叱りを受けてばかりだけれど、それでも幸せと感じてしまうなんて、わたしが彼を好ましく想う気持ちは行くところまで行ってしまっていたようだ。でなければわたしはかなりのマゾヒストという事になってしまう。


「何をぼさっとつっ立っているのです。これを下げ、新しく淹れ直すくらいの気を回してしかるべきだと思いますが」
「あ、はい……!」

 慌ててティーカップを回収し、洗い場まで早足で向かう。ティーカップの中の、殆ど中身の減っていない琥珀色の水面に視線を落とす。色は悪くないと思う。味は……。
 ずずっと一口啜ってみると、何だか気の抜けるような味わいが舌に広がる。うう、確かにこれはぬるい。けれど正直わたしの拙い舌では、味がどうのこうのという所までは全くもって分からない。茶葉が良いからか、むしろ普段飲んでるティーパックの物よりこちらの方が数段美味しいような気がする。

「実際口にしてみて、反省点は見付かりましたか」

 ふいに背後からレイジさまの声がする。気がつけば肩口から彼がわたしの手元を覗き込んでいた。耳朶にかかる彼の吐息に反応する現金な心臓が嫌いだ。ご主人さまにときめくしもべなんて、それこそ聞いたことがない。時々彼は気配がないので、わたしはいつもどきりとさせられる。

「……実は、わたしには違いがよく分かりません」
「でしょうね。貴女が味の違いの分かる繊細な舌を持ち合わせているとは思えない」
「う、すみません」

 またしてもがっくりとうなだれてしまい、証拠隠滅するように残った紅茶を捨てる。ぱしゃりと音がして琥珀色の液体が排水口へと吸い込まれていった。憂鬱な気分も一緒に流れていってくれたらよかったけれど、そんな事がある筈もないので早々に気分を切り替えて、冷めてしまった湯を再び暖めるためケトルを火にかける事にした。

「そこ」
「え?」

 コンロに伸ばした手をぱしりと取られ、阻まれた。振り返ればまたしてもレイジさまの呆れ顔だ。

「そこが貴女の問題点です。温度に並び水も重要だと教えて差し上げた筈ですよ」

 知性溢れるその瞳にわたしがほうと見蕩れている内に、レイジさまの手にはケトルが握られていて、ざばりと中の冷めかけたお湯を惜しみ無く一気に捨てている所だった。それから蛇口を捻り勢いよくケトルに水をそそぐ。手慣れた手つきに思える。

「いいですか、水はたっぷりと空気の含まれた新鮮なものでなくてはならない。汲みたて沸騰したてが当たり前、一度沸かしたものを再び温めるなど言語道断」

 ざばばば、と音を立てていたケトルが満たされれば、再び蛇口を捻って水流は止められる。わたしは少し驚いていた。この三日、レイジさまはわたしの拙い手付きを眺め僅かばかりの感想を与えてくれるだけで、こうして具体的な何かを教えてくれるというのは初めてだ。

「わ、ありがとうございます。本で勉強してるんですけど、手順がいまいち分からなくて。わたしが紅茶を飲まないっていうのもあるんでしょうが」
「……そうですね、考えてみれば、淹れる者の舌が音痴では、まともな紅茶を淹れる事など叶う筈も無いのかもしれません」

 ふと思案顔になったレイジさんが、くいっとくちびるを吊り上げた。

「貴女には一度、本物の紅茶の味という物を教えてさしあげたほうが良さそうですね」

 人生というのは実に不思議なものだ。わたしがこうしてクラスメイトのしもべになるなんて事は少し前までは想像できなかったし、それよりも今のレイジさまの言葉の方がもっと信じられない。
 レイジさまがケトルを火にかける。お次はわたしの手がレイジさまの手に握られていて、指先の冷たさにどきりとしてしまった。もちろん冷たさだけに驚いた訳ではないけれど。

「さあ、こちらへかけて、見ていてください。今日は特別に、私が貴女に紅茶を入れてさしあげましょう」
「い、いいんですか、ご主人さまに紅茶を入れて頂くなんて!」
「女性というのはエスコートには素直に従うものですよ」
「は、はい」

 まるで執事のような恭しい動作で席へとエスコートされ、わたしはおどおどと戸惑いながら、つい先程まではレイジさまの体重を支えていた椅子に腰掛ける事となった。彼は再び紅茶を入れる作業に戻っていった。まるで今までと立場が逆転してしまったみたいだ。
 わたしとは違い、レイジさまの手付きは手慣れたものだった。滑らかに動く指先が美しくて、ただ紅茶を淹れているだけの筈の動作が、なんだか神聖な儀式のようにすら見える。わたしなんかが紅茶を淹れる事すらおこがましいんじゃないかな、なんて気さえしてくるぐらいだ。ほうっと見蕩れていればあっというまに時が過ぎ、気が付けば目の前にはいい香りを空中にふりまくティーカップが用意されている。紅茶って、こんないい香りがしただろうか。まだ口すらつけていないのに、手元のティーカップから立ち上る芳醇な香りにくらりとするくらいだ。色も、わたしの入れたものよりも深みがあって、美しくきらめいている。

「どうぞ、飲んでもいいですよ」

 まて、と言われていた犬がよし、とご主人に言われた瞬間の気持ちが理解出来るような気がした。直ぐ様わたしはティーカップを手にし、口に近付ける。緊張で指先が震えていたらしく、中の液体はかたかたと小刻みに振動していた。うすっぺらなカップの端がくちびるに到達した瞬間に、ふわりと香りに包まれた気がした。

「おいしい」

 率直な感想が、すぐに口から漏れた。おいしい。こんな飲み物は今まで飲んだことはない。正直なところ紅茶に違いなんてそんなに無いんじゃないかって疑っていたけれど、こんなわたしでも分かるくらいに違う。彼のようには精通していないので、何がどう、とは表現しえない自分の舌が惜しい。

「凄い、おいしい、おいしいです……! わたしの淹れたものと全然違う。紅茶ってこんなにおいしいものだったんですね」
「ええ、貴女が今まで淹れていた物は、紅茶と呼ぶのもおこがましい。反省なさい」
「う、……はい」

 何度目とも分からずがっくりとうなだれるわたしの肩に、レイジさまの手がぽんと乗せられる。

「いいですか、貴女は私のしもべなのですから、これくらいの物は淹れられて当然なのです。分かりましたか?」

 これだからレイジさまは恐ろしい、と、レイジさまの赤い瞳に見つめられながらわたしは半ば心臓発作を起こしたようになってしまった。それはまるで、貴女なら出来ると評価してくれているとも取れる言葉だ。彼は飴と鞭の使い方が酷く得意だ。普段はとことんまで厳しいくせ、たまにこうしてわたしに飴を与えてくれる。その度にわたしは、あの時彼がわたしを見捨てなくて、彼が優しい人で本当によかったと実感する。ここでわたしが何度も何度も頷く事だってきっと、彼の想定の内。わたしは果たしていつ彼にコントローラーを渡してしまったのだろう。
 大変な事も多かったけれど、わたしはクラスメイトのレイジくんよりも、ご主人さまのレイジさまの方がずっと好きだ。クラスメイトの時のレイジくんはそう、例えるならばわたしにとってのミジンコおばけみたいな感じだった。何故だか視界に入って酷く気になるのに、ふわふわとしていて捉え所がない。新たな彼の側面を見られた今は、なんだか本物の彼の姿を、ほんの一部だけれど、両手に納められたような気がするのだ。
 残った紅茶を一気に飲み込んで、余韻を楽しみながら天井を見上げる。

「……あ」

 白い天井と、照明。半透明の影がふわり、と視界に浮かび上がる。しかし、僅かに違和感を感じた。

「なにか?」
「あ、いえ。そういえば、飛蚊症の影があまり見えなくなったかなって」

 以前は視界の三分の一ほどをおおいつくしていたそれが、今は何だか少し少なくみえる。

「放っておいて自然と症状が治まる事も少なくないですからね。いつか完全に見えなくなる日もくるかもしれませんよ」
「へえ、そうなんですか」

 やっぱり最後まで物知りなレイジさまに感心した所で、今日の放課後はこれでお開きとなった。わたしがレイジさまのしもべでいるのが許されていたのは放課後の間だけだったので、途端にわたしとレイジくんは、クラスメイトという事くらいしか接点を持たないただの他人に成り下がる。
 彼の言葉通り、視界をちらつくこの影は、いつか完全に見えなくなる日が来るのだろうか。これが見えなくなった時も、わたしはレイジくんの隣でこうしていられるのかな。なんて事を考えて、柄にもなくしんみりしながら家に帰った。

20131015

   

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