「それでね、この前眼科に行ったらレイジくんの言う通り飛蚊症だって診断されたんだ」

 そうですか、とだけ言って、レイジくんは本に書き付けられた活字を追う眼球の動きを止めようとはしなかった。わたしは頬杖をついて、滑らかな白い頬に影を落とす睫毛を眺める。こうして見ると、レイジくんは綺麗な目をしている。睫毛も美人のキリンみたいに長いし、形もすうっと切れ長で綺麗だし、まるで血のような色の瞳も彼に似合ってた。

「お医者さんはね、特に視力に問題は無いものだから、今まで通りの生活をしていればいいって言ってた」

 放課後の教室。わたしとレイジくんの二人だけ。ぺらりとレイジくんの長い指先がページを捲った音が、やけに高く響く。
 放課後は、わたしがレイジくんと時を共有できる僅かな時間だった。
 あの日から、彼が何か作業をしている時はわたしも必ず手伝うようになったし、そうでない日も彼の後ろを金魚の糞の如くついてまわって、こうしてレイジくんの事を眺めている。レイジくんはわたしの事を笑顔で歓迎してくれたって訳じゃないけれど、嫌な顔をされた訳でもないので、わたしは彼の隣に居ることを許されているのだと思う。レイジくんは不必要なものがそこにあったなら、徹底的に排除するようなひとだと思うから。

「貴女も飽きませんね。私を眺めているのが、そんなに楽しいですか。そうしている暇があるのなら、今すぐペンを握り、勉強の一つでもした方がよっぽど有意義な時を過ごせると思いますがね」
「うん、楽しい。レイジくんを見ている事の方がわたしにとっては勉強よりも貴重な時間だもの」
「そういう事はもう少し成績が上がってから言いなさい。教養の無い女性に隣に並ばれては迷惑です、今以上に成績が下がったら私に近寄る事を禁止しますよ」

 呆れたように溜め息を吐かれて、慌てて鞄の中から参考書を取り出してそれを読むふりをした。視線はやっぱり、参考書に綴られた意味不明な呪文よりも、その向こう側のレイジくんに吸い込まれるように向かってしまう。
 わたしはレイジくんに感じていた興味の意味に、最近やっとで気がつき始めていた。わたしは多分、レイジくんの事が好きだったのだと思う。それがあの日よりも前からの事なのか、あの日の事が原因で惚れたのか、それともここ最近好きになったのかは分からないけれど、あの綺麗な瞳を見ていると、瞳の色と同じ色をした炎が胸にぼっと灯り、身体が熱くなった。眼鏡の奥の瞳がこんな色をしていると知っているのも、きっとクラスでわたし一人だ。それが嬉しいと感じてしまう気持ちは、恋心に他ならない。
 一緒に過ごしてみると、彼はわたしが勝手に作り上げていた逆巻レイジくん像と違っていた事が判明して、なのにますます想いは募った。
 けれどわたしはこの想いが実を結ぶようなものでもない事にもまた、気付き始めている。

 さて。と言って。切りのいいところまで読み終えたらしいレイジくんが、ぱたんと本を閉じる。今日の放課後の居心地のいい時間はここまでというサイン。

「いい時間ですし、そろそろ失礼します。貴女はどうしますか、苗字さん」
「あ、わたしも帰るよ!」

 帰り支度を始めた彼に倣い、わたしも慌てて支度を始める。これは校門まで一緒に帰っていいという、レイジくんのお許しだ。





 読んでいた本の内容だとか、今日の数学の授業の難しかった箇所についてだとか、たわいのない事を語りながら二人並んで廊下に出た。あの問題はあの公式に当て嵌めて考えると分かりやすい、なんて事を説明してくれていたレイジくんの滑らかに動く口が、廊下に出た瞬間にぴたりと止まる。その時わたしはレイジくんの隣に並び顔をじっと見つめていたので、彼のいつだって自信に満ちている瞳がその一瞬にしてぐらりと揺れ、溶け落ちそうな色に変化していったという事が分かった。廊下の先のある一点を見つめ、固まったようになるレイジくん。その視線の先をわたしも追いかける。

「逆巻くん、待ってよ」

 廊下のずっと先には男子生徒と女子生徒が一人づついて、のっそりと歩く男子生徒の後を女子生徒の方が追いかけるような形で歩いている。遠くに見える二人の人間の影に目を凝らして、逆巻くん、と呼ばれた男子の方の名前はわたしも知っている事に気がつく。
 逆巻シュウくん、隣のクラスの、レイジくんのお兄さんだ。
 レイジくんがあの人を見る度いつもこんな凍りついた表情をするので、もうすっかり逆巻シュウの顔を覚えてしまった。金髪碧眼、まるで物語りに登場する王子様のような造形の整った顔立ち。いつも噂話に上る逆巻兄弟において、あの人の噂は一学年下の派手な三つ子たち程聞くことは無いけれど、その容姿の美しさについてや留年したという噂ならよく耳にする。それから、最近彼女が出来たって噂も定番だ。確かに逆巻シュウくんは整った彫刻品みたいな人だったし、ああして女の子に追いかけられている所もよく見る。

「愚かな女だ。あの穀潰しの尻を追いかけているとは」

 嘆かわしい、と隣のレイジくんが恨み言を吐き捨てるみたいにして、ぶつりと呟く。それはわたしに向けて言っているというよりも、ついついぽろりと呟いてしまったといったような声色だった。
 わたしは、もう一度レイジくんの瞳を覗き込む。眼鏡の奥の瞳が憎しみの色にぐらぐらと揺れている。わたしはシュウくんの青い瞳よりも、レイジくんの気高く理知的な赤い瞳の色の方が綺麗だと思うよ、なんて言ってもきっと、レイジくんには何の意味も無いんだろう。叶わない想いを抱くわたしもまた、レイジくんには愚かな女として映るんだろうから。

「シュウさん!」

 暫く廊下の先を眺めていると、ふと、新たな女子生徒の声が響き渡る。その瞬間、夜も更けた学校のじめじめとした雰囲気を吹き飛ばす魔法が発動されたみたいに、辺りが一気に明るくなったような気がした。まるで不毛の地に一輪の花が咲いた瞬間のようだと思った。様相を崩す事の滅多にないレイジくんの眼差しが、その瞬間にだけは僅かに見開かれた。わたしも再びそちらを追えば、廊下の向こうから先ほどとは違う女子生徒が現れ、にこにこしながらシュウくんに駆け寄ってゆく。

「ああ、あんたか」

 先程の女子生徒は彼に無視し続けられついには諦めて帰ってしまったのだけれど、シュウくんは彼女にはすぐに反応して顔をあげた。彼女の名前も知っていた。一学年下の、小森ユイさんだ。

「シュウさんがなかなか来ないから、探しに来たんですよ」
「……歩くのが面倒臭い」
「もう、シュウさん、そんな事言わずにちゃんと歩いて下さい」

 シュウくんが彼女に寄り掛ったので、彼女は半ば引き摺るようにしてシュウくんを先に導く。小森さんとシュウくんはこうして遠くから見ていると仲の良い恋人のような雰囲気を漂わせていた。最近、あの逆巻シュウに彼女が出来たという噂をよく耳にする。その相手と言うのが、彼を引っ張っている小森さんの事だ。
 ぎりり、と何かが擦り合わさる音がして振り向けば、レイジくんが拳を握りしめている音だった。彼の瞳はぐにりと歪んだ赤色を湛えながら、シュウくんと小森さんとを映し出す。隣に立つわたしなど、存在も忘れているようだ。

「……わたし、今のレイジくんの気持ち、分かる気がするよ」

 わたしとレイジくんは今、同じ気持ちを味わっているに違いない。
 きっとレイジくんは小森さんの事が好きなのだろうと、シュウくんを見る彼の、憎々しげなのに僅かな羨みも見受けられる瞳を見るたびに、いつもそう思う。わたしも、レイジくんが好きだから。小森さんの事が羨ましくて羨ましくて仕方がない。
 その時初めてわたしの存在を思い出したというように、ぴくんと小さく、レイジくんの肩が反応する。

「……貴女ごときが、この私の気持ちを理解……?」

 それは冷凍室の奥から捻り出したみたいに、底冷えするような声色だった。二人を映し出していた瞳が、ゆっくりとわたしの方を振り返る。レイジくんは冷静沈着が服を着たような人だった。瞳は今やその影もなく、感情が剥き出しになっている。瞳に映る感情は怒りだ。それがわたしに向けられた物だとすぐに分かり、わたしは竦み上がってしまった。

「何を勘違いしているのかは知りませんが、とんだ思い上がりだ。よく知りもしない者の心中を勝手に想像して理解者面ですか。実にあつかましく、愚かな女性ですね。虫酸が走る」

 ずいっと顔を覗きこまれ、レイジくんの眼差しが随分と近くなる。それは不敵な笑みを浮かべていたけれど、有り余る怒りを内包し、温度を全く感じさせない程に冷たい。その時初めて、わたしはとんでもない事を言って彼を怒らせてしまったんだと気がついた。
 何かを言おうかと思ったけれど、くちびるがぴくんと小さく動いただけで、とても言葉なんか形作れそうにはない。

「貴女がそう言うのなら、私にも分かりますよ、苗字名前が胸に秘めている事柄が。当てて差し上げましょうか」

 くく、と喉を鳴らす彼がわたしの頬に指を置いたので、肩がびくんと震えてしまった。

「貴女は私に好意を寄せている」

 違いますか、と首を傾げてはいたけれど、それはレイジくんの中で確信をもった考えだったのだろう。すぐ近くの彼の黒髪がさらりと揺れる。
 わたしは震える息を小さく吐き出して、唾を飲み込む。何度か声にならない声を吐き出してから、なんとか言葉をひねり出した。

「……気付いて、いたの」
「あれだけ分かりやすく付きまとわれたら、猿でも気がつく。今までは実害もないので放っておきましたが、ここら辺ではっきりさせておきましょう」

 す、と、頬を一度だけ撫でると、すぐにレイジくんの指先は離れていった。

「その想いは全くの無駄な物だ。愚かな貴女が成り得るのなんか、良くて精々私の下僕くらいのもの。過ぎた幻想は早々に切り捨てる事ですね」

 これで話は終わりだとばかりに口をつぐむと、彼はわたしに背を向ける。それは、彼のわたしへの明確な拒絶の意思表示だった。なぜこうなったのかは分かる。わたしがレイジくんを怒らせたからだ。何故怒らせたかも分かった。わたしが彼の自尊心を傷付けてしまったのだ。確かに彼の言う通りわたしは愚かで、そんな自分への憤りがぐるぐると渦巻いている。

「では、失礼します。明日からは私に近寄らない事だ」
「まって」

 こつんこつんと靴音を響かせながら歩き出すレイジくんの背中を、衝動的に引き留めてしまった。掴んだ彼の制服の裾。レイジくんが振り向いて、塵がそこにくっついているとでも言いたげな瞳で、わたしを見下ろす。余りの冷たさに逃げ出してしまいそうになったけれど、ぐっとお腹の底に力を込めて踏みとどまる。

「……ごめんなさい」
「これは驚きましたね、何に対する謝罪か、私には分かりません。服が伸びる、離してください」
「まって」

 わたしを振り払うと、再び歩き出すレイジくんを、わたしも追い縋る。これで終わりなんて絶対に嫌だ。

「下僕でも何でもいい、お願いだから貴方のそばに居させてください」

20131014

   

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