近ごろの嶺帝学院高校はこんな噂で持ちきりだった。

 ひとりの音楽教師が、ここ最近謎の失踪を遂げたらしい。家族にも、学校にも、友人にも、一つの連絡もせず、行方不明となった音楽教師。失踪の原因として彼をよく知る生徒の内で真しやかに囁かれているのが、音楽室のおばけの怨念というものだった。この学校には音楽室のおばけが存在する。音楽教師が失踪する少し前に、囁かれていた噂だ。
 彼が、失踪した頃からだった。夜な夜な、人気の無い音楽室から聞こえていた不思議なピアノの音色が、止んだのは。音楽教師が謎の失踪を遂げたその日、音楽室の床には何者かの血痕がべっとりと付着していたらしい。
 音楽室のおばけが奏でるピアノの音色は、自分を苦しめた男への怨嗟の叫びだった。目的を果たした彼女は、ピアノを奏でるのを止めた。
 そして彼女は、安らかに成仏ていったのだった。








「ねえ、シュウくん」
「なに」
「あの噂、知ってる?」
「あんたも好きだな。また下らない噂話か?」
「そう。噂の音楽室のおばけが、ついに成仏したんですって」
「へえ、それはめでたいな」
「ええ。でも、わたしね、誰かを呪い殺した覚えなんて、一切ないの」
「そうだろうな」
「……シュウくん、なんでしょう?」
「……。」
「シュウくんが何をしたのかは分からない。でもあの日シュウくんの制服に付着していた血はきっと、アイツのものなんでしょう。シュウくんが会いに来てくれなくなったのは、もしかしたらその件をどうにかしてたからなんじゃないかって、思うの」
「だったら?」
「どうして、そんな事をしたのかなって」
「あんたには関係ない」
「ねえ、教えて」
「どうしても聞きたいのか」
「聞かせて、シュウくんの口から」
「ふっ、あんたも存外サディストだな」

 逆巻シュウは一呼吸を置いて、何かを決意したような面持ちで、苗字名前を見つめた。

「俺は、何にも邪魔されず、煩わされず、曇り無い月をただ見ていたかっただけなのかもな」
「……え?」
「こっちきて、見てみろよ」

 名前とシュウは肩を寄せあって、二人で窓の外を見上げる。あの窓から名前は突き落とされ、死亡する事となった。シュウと共にいれば、その窓は名前にとって、恐怖の象徴ではなく、二人で月を見上げた幸せの証の窓に様変わりするのだった。

「今夜は、月が凄い綺麗だ」

 穏やかな気持ちで吐き出したシュウの声は、穏やかなトーンで音楽室に響いた。
 シュウと名前が見上げた窓の外には、暗闇が広がっていた。星がいくつかきらきらと煌めいていたけれど、月はなんかは見当たらない。今夜は新月だったのだ。

「それって、」

 名前は言いかけて、止めた。自分を見つめているシュウの顔が淡く柔らかで、だけどきらきら輝いていて、まるで月のようだと思ったからだ。

「……ほんとうに、綺麗な月、だね」

 名前はシュウの胸に頭を預け、呟く。名前の視界がぐにゃぐにゃと歪み、真っ暗な夜空と、そのフレームの窓が歪んで混ざりあっていった。あれ、おかしいな、わたし、涙は流せない筈なのに、と名前は思った。

「わたしもう、成仏してもいいかも」

 ぽろぽろと、名前の頬を涙が伝ってゆく。シュウはそれに呆れ果てた顔をして、名前の目元に、涙を掬うような小さなキスをした。それでも名前の涙は止まらない。まるで今まで泣けなかった分全部を溜めていたような洪水だった。
 シュウのくちびるが移動して、名前のくちびるに啄むようなキスをする。名前がシュウにしがみつく。

「はっ、不細工な顔」
「シュウくんも、結構変な顔してるよ」

 二人がそうしているうちに、名前は足元にふわふわとした可笑しな浮遊感を覚えた。足元を見下ろす。半分透けていた名前の足元は、殆ど消えかけていた。足から順に、彼女の存在がどんどんとこの世から離れていっているようだった。彼女は、成仏しようとしているのだ。
 名前は恐怖よりも先に、満たされた気持ちになった。胸を満たす幸せな思いが彼女を、今なら何だって出来るような気分にさせた。涙を流せたように。キスが出来たように。想いが通じたように。
 シュウと名前はどちからかともなく手をぎゅっと繋いで、立ち上がる。
 向かう先はピアノの元。
 名前は椅子に座る。シュウは床に寝転がる。
 これこそが二人の、最初の姿だった。
 ぽーん、ぽーんと人差し指で鍵盤を弾く。ちゃんと、音色を奏でてくれるピアノを、名前は愛おしく感じる。思えばこのピアノとも、長い付き合いだった。執着したり突き放されたり、良好なばかりの関係ではなかったけれど、それらもすべて、自分には必要な事柄だったに違いない、と、名前はくちびるを歪める。

「一曲だけ、何か弾こうか。聴いてくれる、シュウくん?」
「ああ、名前の奏でる音は、凄く心地がいい」
「ふふ、ありがとう」

 名前。名前の名前をシュウが呼んだのは、これで初めてだ。
 それから、名前は指先の赴くままに音色を響かせた。シュウは心地良さに目を閉じる。
 足元から、だんだんと、名前の体は消えていった。すうっと空気に溶け、天に上ってゆくように。音をひとつ奏でるたび、名前の体少しづつがこの世からなくなってゆく。ぽたぽたと、涙が鍵盤に流れ落ちた。
 何度弾いても間違えてしまった、出会った時にシュウが指摘したヶ所を、名前は間違えずに弾いた。シュウはそれを聞いて満足そうに笑う。
 ずっと見守っているよという気持ちを込めて、名前は体が全て消えてしまう最後まで、鍵盤を弾き続けた。







 不思議な音色が響いていた。
 色で例えるならば無色透明。物で例えるなら風船のようにふわふわと不確かで、繊細な硝子細工のように触れたら壊れてしまいそう。それから柔らかくて、暖かな、聴いている人間すべてを満たされた気持ちにさせる音色だった。
 廊下に響き渡るそのピアノの旋律は、まるでこの世のものとは思えないような響きを帯びて、いつまでも、いつまでも、夜空を彩る月の光のような暖かさを振り撒いていた。

20130905

   

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