次の日、ライトくんは宣言通り授業を受ける生徒に混ざって音楽室にやってきた。
 今日の教師は厳しいことで有名な例の先生ではなく、わたしの見たことの無い女の先生だった。どうやら新しい先生らしく、慣れない様子で授業にあたっている。気が緩んだ他の生徒たちも鬼の居ぬ間にとばかりに口々に私語を挟んでいたので、わたしとライトくんとが会話をしていても、もう彼が怒られたり怪しまれたりする心配は無さそうだった。


「さて、早速調べた事についての報告だけど」
 ライトくんはわたしを目にするなりそう切り出した。
「キミは、自殺だったみたいだね」
「わたしが、自殺?」

 制服の胸ポケットから、ライトくんが一枚の紙切れを取り出した。受け取ろうかと手を伸ばしてから、受け取れないことに気がつく。ライトくんがわたしにも読めるように目の前に紙を翳してくれたので、わたしにも読めるようになった。
 紙は新聞記事の切り抜きのようだった。嶺帝学院高校三年生の女子生徒が音楽室の窓から飛び降りて自殺をしたという内容を簡素に綴った記事が、三センチ四方程度の小さなスペースに綴られている。

「信じられないって顔をしているね」
「自殺をするような心当たりなんて、わたしには無かったように思えるけれど」

 悩みは人並みにあったけれど、それで自らの命を絶とうとするほど苦しんでいた記憶はない。

「まあ、そうだろうね。世間一般ではそう認識されてるってだけの話だし。こんな紙切れひとつで語るよりも、現実はもっと複雑で、明るみに出ない真実が山ほどある」

 ボクらが実はヴァンパイアであるようにね。ライトくんはそう呟いて、指にはさんだ紙をくるっと一回転させると、それを胸ポケットに滑り込ませた。芝居がかった大袈裟な動作だったけれど、もはや授業中とは思えないざわめきに包まれた教室の中、ライトくんの仕草はさほど目立ってはいない。生徒たちに授業を聞くようにと説得をしている先生が少しだけ気の毒だったけれど、わたしはわたしでライトくんの話を聞かないわけにはいかない。

「少なくとも、警察はキミの件を自殺だと判断した」
「でも本当は、自殺じゃなかった?」
「当ったりー。念のため使い魔に調べさせたら、面白い事実が沢山でてきたよ。聞きたい?」

 使い魔。冷たい目をした、女の子たちを思いだし、ぞくりと腹の底が冷えるような感覚を覚えながらも、わたしは静かに頷いた。

「んふ、じゃあ教えてあげる。キミは自殺じゃなく、殺されたんだ。あの窓から、突き落とされてね」

 一呼吸も置くことなく、普段と変わらない明るい声で、何でもないことのようにさらりと告げられた。にいっと明るい彼の表情が、逆に不穏さを掻き立てた気がする。
 わたしが殺された。突然感じた誰か知らない人の悪意に、ぶるりと身震いする。ライトくんが指し示した先には、わたしがいつも月を見上げている窓がある。今日の月は昨日よりも更に細い三日月で、殆ど消え入りそうな弱々しい光に自然と不安が募る。
 わたしが、落ちた?
 あの窓から、突き落とされた?
 ふいに足元が崩れ、闇の中に体が投げ出されたような浮遊感を覚える。投げ出され、叩きつけられた地面は、どれだけ痛かっただろう。
 突き落とされた、それは、

「――誰、に?」

 ライトくんは肩を竦めて、後ろを振り返る。おろおろとした様子の先生が、相変わらず生徒たちを諫めるのに必死だった。

「それは、ここではちょっと話せないかな。放課後もう一度ここにくるから、キミはここで待っていてよ。内緒話は、んふ、二人きりで語り合わなくちゃ」

 ああ、キミはどうせここから動けなかったんだね。なんて笑いながら、ライトくんは授業に戻っていってしまった。手際の悪い先生を見かねてたのかもしれない。
 ライトくんが戻った途端、授業はそれなりにスムーズに進んでいった。

 響くピアノ伴奏と、疎らな歌声のハーモニー。
 それらをBGMに、ライトくんの話を整理する。わたしは殺された。いまいちぴんとは来ないけど、それが間違いという気もまた、しない。だとしたらそれは、誰に。
 思い出してはいけないと、何かが言っている気がする。ぐにゃりと目の前の景色が歪んだ。
 ハーモニーに混じり、怒鳴り声が聞こえてくる気がする。遠くから、だんだんと、近づいて。ぐにゃぐにゃと気持ちわるい形を写し出していた視界が黒に染まる。風船が弾けた瞬間みたいな大きな怒鳴り声。誰かが狂ったように泣き叫ぶ。肩をぐいっと、掴まれた気がする。怖い、と思った事は覚えている。わたしはそれを、払い除けたんだ。
 はっとして肩に視線をやったら、そこには何も乗ってなかった。半透明の、わたしの肩が見える。前に視線をやれば、ライトくんと他の生徒やそれから先生が、相変わらず授業を続けている。
 また、景色がぐにゃりと形を変える。肩を掴む手。ごつごつと節の高い、長い年月を過ごしてきた、男の人の指。力強いそれに体を押された。ふわっと、一瞬、空を飛んだような浮遊感。それから、黒々とした闇に吸い寄せられるように落下してゆく。制服のスカートの裾がばたばたと物凄い勢いで靡いているのと、上にぴんと向かって伸びているみたいに髪の毛がばさばさ言っていたのを、断片的に覚えている。後の感情は恐怖で埋め尽くされていた。怖い、痛い、辛い。そんな負の感情に飲み込まれ、体の芯からがたがたと震えが襲ってくる。息が出来ない。歪んだ景色の闇のなか、わたしは喘いだ。




「おーい、名前ちゃーん、大丈夫?」

 呼び声に引き上げられるように意識が浮上する。気が付けばライトくんがわたしを覗き込んでいた。見渡した音楽室には、わたしとライトくんの二人だけしか居ない。いつの間に授業が終わったのだろうと時計を見てみたら、既に針は放課後の時刻を指し示している。約束の時間だ。

「ごめんなさい、大丈夫」

 額を拭う動作をしてから、自分が汗なんかかくはずがないという事を思い出す。なにをそんなに焦っているのだろう。息を整えて、ライトくんに向き直る。

「さっきの続きを教えて」
「でも大丈夫? 只でさえ生気のない名前ちゃんのくちびるが紫色だよ」
「言ったでしょう。覚悟なら出来てるって」
「駄目駄目、そんなに強がっちゃ。もっとびくびく怯えてくれなきゃボクが楽しめないでしょ」

 やれやれと肩を竦めてみせる彼に、別にわたしはライトくんを楽しませる為にこうしているわけじゃないのにと思った。やっぱり彼はわたしの事を楽しんでいるみたいで、それに苛立ちを感じた自分は、いけない事に余裕を失っているんだ。

「あなたは、そういう女がタイプなのね」
「ええ、どうしたのさイキナリ」
「さっきの授業の先生、新しい人だったでしょう。音楽室にずっといるわたしが見たこと無いくらいだし。慣れない授業にびくびくしてて、ああいう人がタイプなのかなって」

 なにせ話の腰を折って、このライトくんが大人しく授業に戻っていくくらいだ。わたしの言葉が洒落か何かだったと言わんばかりに、ライトくんはククッと可笑しそうに笑っていた。

「確かに今日は新しくて若くて可愛いセンセイだったねー。先生が相手って言うのも、イイかもね。女教師ってえっちな響きだと思わない?」
「わたしには分からないかな」
「いつもの怒鳴り声が煩いセンセイは、今日はお休みだったみたいだ」
「ライトくん、この前あの先生に怒られていたものね」
「キミのせいでね。そうだ。名前ちゃんてさ、彼とは知り合いなの? 知り合いだよね?」

 ライトくんが言っているのは、昨日彼が怒鳴られていた先生の事だろう。どうしてそんな断定的な物言いをするのだろうと、若干の疑問が拭えない。

「知り合いというか、そりゃあ、わたしも音楽の授業で教えてもらったりしたけれど」

 ライトくんはわたしが戸惑っているのもお構いなしで、ずいっとわたしに一歩近づくと、探るような目付きを向けてきた。

「キミ、彼の事どう思う?」
「わたしは、少し苦手だったかな。あの声の大きな怒鳴り声が怖くて」
「ふーん、そうなんだ」

 にまり。ライトくんの目が楽しそうに細まる。

「どうして今、そんな話を? それよりも早くさっきの話の続きを教えてほしいのだけど」
「どうしてって、キミが聞きたいって言い出した事じゃないか。ボクは少しだって話を反らした覚えはないよ」
「……え?」


 何を言っているのだろう。そう考えて、はたとひとつの可能性に行き当たる。この何を考えているのかよく分からない目の前のひとの言動は、初めから計算され尽くしたものだったのかもしれない。信じられない、まさか、って思いが胸の中をひたひたと満たしていった。
 風船が弾けた瞬間みたいな大きな怒鳴り声。節の高い、男の人の指先。

「んふ、凄いや。凍りついちゃったね、キミの顔。そう、ボクはキミのそういう顔が見たかったんだ」
「まさか?」
「そう、そのまさかだよ名前ちゃん。彼が、キミを突き落としたんだ。突き落としたんだ瞬間、アイツはどんな気分だったんだろうね、ああ、想像しただけでボクも興奮してくるよ」

 あの、中身なんて少しも詰まっていない笑顔をしたライトくんは、一瞬だけ自分の指先を見つめた。その瞳の中にはほんの少しの陰りが絡み付いているような気がする。すぐにまた、にいっと綺麗な弧を描くライトくんのくちびる。

「そしてキミは、暗闇に吸い込まれながら、どんな気分で居たんだろう」

 もう訳がわからなかった。わたしが先生に殺される理由も分からないし、何が起きているのかもよく分からない。だけどライトくんが嘘をついているとも思えない。彼はひとが怯えるのを見て面白がる可笑しな趣味をしているみたいだけど、それは“嘘”で怯えさせて喜ぶような安っぽいものには見えない。
 だとしたら今わたしが彼に聞くべき事は、一つしかない。

「ねえ、ライトくん」
「んー?」
「仮に、わたしがもし、その件に関して決着をつけたのなら、そしたらわたしはこの部屋から出られるの?」
「決着をつけるって、具体的にはどうするつもりさ」
「分からないけど、わたしが彼の事を許す、だとか」

 やっぱりよくは思い出せなかったけれど、わたしが先生に殺されたのが事実だとしたら、わたしはやっぱり先生の事を憎んでいたのかな。だからこの音楽室から出られずに、こうしているのかもしれない。


「許す? なに馬鹿みたいな事言ってるんだか。ここは呪い殺す、とか言う場面じゃないの? キミはあいつのせいで死んじゃったんだよ」
「わたし、死んでしまった事やこうして幽霊でいる事は、あまり後悔はしていないから」

 おかげで、シュウくんと月を見上げられた。わたしの考えはシュウくんが隣に居なくなった今も、変わらない。シュウくんに出会えてよかった。わたしが死んでしまったのは、その為の必然だったような気がする。
 ライトくんは少しつまらなそうな顔をする。

「ふーん、折角ボクが面白い情報をあげたのに、あまりつまらない反応ばかりしないでほしいな」
「そんな事言われても」
「まあいいや、その問題については、今頃、大方のケリがついている頃だろうし」
「え?」

 問い返したわたしをぴしゃりとはね除けると、気を取り直して、とライトくんが新たに口を開く。

「それより、“どうして自分が殺されたか”って理由の方には、興味がないのかな? キミが許すだなんだって言うんだったら、そっちの方がよっぽど大切だよね」

 何故わたしが殺されたのか。自らに向けられた悪意の理由。それを知ってしまうのは何だか怖いような気がして、聞いてみようという気にはどうしてもなれなかった。何でもお見通しなライトくんは、やっぱりシュウくんに似ている所がある。
 何か言わなきゃと、わたしは慌てて口を開いたけれど、喉が貼り付いてしまったみたいに掠れた吐息しか出てこなかった。それを見たライトくんは確信したように笑みを深める。

「ああ、今までで一番いい表情だ。きっとキミは自分が突き落とされた事実よりもよっぽどこっちの方が堪えてて、だから無意識に記憶を封印しようとしたんだよね」

 ゆらりと。ライトくんが一歩踏み出せば、二人の距離は目とはなの先。ライトくんの手がわたしの腰を掴み、ぐいっと引き寄せられた。想像以上にびくんと跳ね上がる体。怖い、大きな恐怖だけが押し寄せてくる。必死になってライトくんを押し退けようとした手は彼の体にめり込んで行くだけだった。触れない。拒めない。怖い。恐怖で目の前の景色が歪む。にいっとつり上がってゆくライトくんの顔が、誰かの顔に重なった気がした。

「ボクはね、キミみたいな頭が悪そうな女の子が大好きなんだ。だから女の子たちに快楽を与えてあげたり、時には恐がらせてあげるのが好き」

 ねっとりと耳朶を舐められているような錯覚を覚える、絡み付くような声。

「あの噂はしってる? 例の音楽教師も、相当な女好きだったみたいだね」

 太腿を下から撫で上げられて、喉の奥がひくりとする。男のひとに、触られている。縛り上げられたように体が動かない。この感覚を、知っている気がする。思い出したくない。胃の奥から込み上げてくる恐怖を、必死に飲み込もうとしている自分がいた。なにも聞きたくない。

「キミは可哀想な子羊だ。こんなふうに無防備でいるから、狼から頭からがじがじと食べられるはめになる。キミはね、えっちな悪戯をされちゃったんだよ」

 彼が言っている事の意味も、それが事実な事も、わたしにはもう既に、分かっていた。わたしが忘れようとしていた真実は、耐えきれなかったわたしが、必死に飲み込んでしまったのだ。途端に、自分がこの場所に立っている資格もない薄汚い生き物のような気がしてきた。

「あの日のキミは、相当な抵抗を示したんだろうね。ボクには理解できないけど、あれで彼は顔だけはいいって評判の男だったみたいだからねぇ。キミみたいな平凡な女の子に抵抗された事なんて、一度だってなかったんだろうね。怒りっぽい彼は、激情のままキミを犯した後、怒りのままキミを、あの窓から――」

 ちらり、ライトくんがもう一度窓を見る。わたしはその視線を追う気分にはなれなかった。

「さっきから清純ぶった事を言っているけど、キミが記憶の奥底にしまいこんだ真実はどろどろと醜く、どぶ水みたいに薄汚いものだったってわけ。キミは身も心も穢れきった醜い女なんだよ」

 ライトくんの言うことはきっと、的を射ている。わたしは穢れきった女なんだ。この腕も、足も、体全部、汚されてしまった。がたがたと、震えが襲ってきた。両腕を抱えて、踞る。許す許さないだなんて、馬鹿みたいだ。こんな穢れきったわたしを、きっとシュウくんは――。踞るわたしの耳許に、ライトくんがくちびるを寄せる。

「どお、これを知ってもキミは、さっきみたいな事が言える? あいつが憎くない? シュウに会いたい? シュウはキミがこんなに穢れきった女だって知ったら、どう思うかな?」

 ライトくんの言葉は毒だ。彼が、一言しゃべる度、わたしはずぶずぶと、闇に囚われてゆく。闇のなかで、今まで見えていなかった、見ようとしていなかった物が見えてくる。
 シュウくんがあの日からわたしに会いに来てくれなくなったのは、もしかしたら彼がわたしの穢れを知ってしまったからなんじゃないだろうかと、確信めいたものを感じた。シュウくんが何か調べものをしていると言っていたライトくん。わたしの死因が気になると、わたしはシュウくんに噂話を持ちかけた。彼は、もしかしたら、ライトくんと同じように調べて、わたしが穢れきった女だって事に気がついてしまったのかもしれない。
 頭を抱える。
 わたしは誰かに恋をする資格なんて、最初からなかったんだ。

「んふ、可哀想に。ボクなら穢されきったキミのありのままを、深く深く愛してあげられるのに」

 毒のような声が、じわじわと耳からわたしを犯してゆく。毒は、汚いわたしを、真っ黒に染め上げようとしている。

「もう一度誘ってあげる、ボクの使い魔になりなよ。そうしたらキミはもう何に悩むこともない。ボクにただ従っているだけでいい。シュウとキミが顔を合わせないように、気を使ってあげる」

 甘い甘い誘惑が、わたしを誘い込もうとする。もうなにも考えたくない。ライトくんの使い魔の女の子たちの、空っぽの瞳。ああやってなにも見ずにいられたら、どれだけ楽なのだろう。
 ここで頷けば、わたしは楽になれる。
 シュウくんも、わたしの所には帰ってこない。
 これ以上はシュウくんも迷惑するだろう。
 わたしは今、頷くべきなのだ。

「……だ」

 頷こう、と思ったのに、わたしの体はわたしが思うよりも我が儘みたいだった。

「嫌、だ」

 わたしは首を横に振っている。
 わたしの口は拒絶の言葉を吐き出している。
 嫌? と聞き返してくるライトくんは、全くの予想外だというような素っ頓狂な声をしていたけれど、顔は何処か面白そうにしても見える。

「わたし、馬鹿だよね。シュウくんにもう会えない、会う資格もない、この場所はわたしにとって嫌な記憶が沢山ある場所だし、正直もう見たくない。だけど、ここはシュウくんと出会って、シュウくんがわたしの音色を誉めてくれて、シュウくんと過ごした大切な音楽室なの。もうシュウくんと会えなくなっても、シュウくんとの想い出だけは捨てられない」

 音楽室から出られない。だったらこの音楽室で、想い出だけを抱えて、ここでずっと、漂っていよう。


「んっふ、アハ、アハハハ! ほんっとうにお馬鹿さんだね名前ちゃんは。そこまで突き抜けていると逆に面白くなってきたよ」


「……ほんと、あんたみたいな馬鹿女は流石に俺も初めて見たな」


 けらけらと笑うライトくんの背後から、落ち着いた声が聞こえる。すうっと、ライトくんの背後から、わたしがどうあってもくぐれない扉の向こうから、現れる。
 はちみつ色の髪の毛。青い瞳。気だるげな表情に動作。わたしの瞳に映るそのひとは、どこをとってもシュウくんだった。わたしの好きな人。もう、会えないと、会ってはいけないと思っていたひと。穢れきったわたしとは凡そ不釣り合いな、綺麗なひと。

「……シュウ、くん」

 わたしなんかがシュウくんに話しかけても良いんだろうかとか、どうして来てくれたんだろうとかぐるぐると考えながら、確認するように名前を呼ぶ。そしてふいに気がついて、ぎょっとした。シュウくんの制服の腹部や両手が、じっとりと湿った赤色に染まっている。生臭い香りが音楽室に充満してゆく。

「シュウくん、怪我してるの!?」
「……ハア、うるさい。一仕事終えたばかりでだるいんだ、静かにしてろよ」

 妙に気の抜ける言い種すら別れた時から変わらない。いつもの通りの反応に、わたしの心配は杞憂なのだと知る。きっとあれはシュウくんの血じゃないんだろう。彼は平然とこちらに近づいてきている。ぽたり、ぽたりとシュウくんの通り道を示すように赤色が垂れた。

「あーあ、シュウがもたもたしてる間に、ボクが名前ちゃんを誘惑してあげようと思ったのに。どうやらタイムリミットみたいだね」

 ライトくんはそう言って、こちらに近づいてくるシュウくんと入れ替わりの形で、扉の方に向かっていった。
 立ち尽くすわたし、近付いてくるシュウくん、遠ざかるライトくん。シュウくんがわたしの目の前までくるのと、ライトくんが扉に到着したのとは、殆ど同じタイミングだった。

「じゃーねー名前ちゃん。キミがシュウに飽きたらまた相手をしてあげるよ」

 言葉を残して、そのまま扉から消えたライトくん。音楽室には、シュウくんとわたし、二人だけが取り残された。数日前のわたしにとっての日常がそれだけで取り戻されたような気がして、胸が苦しい。たった数日間シュウくんに会っていなかっただけなのに、何年も会っていなかったみたいに、彼の顔が懐かしい。もう二度と、会えないと思っていた。穢れたわたしが、あっていいようなひとじゃないのかもしれない。

「……わたし、シュウくんが居ないと駄目みたい」
「ああ、知ってる」

 それでもシュウくんの隣に居たいと思うがわたしは、彼の言う通り、馬鹿なのだろう。シュウくんはきっと、わたしが穢れている事やその他の事、何もかもを知っている気がする。
 シュウくんがわたしの手を握ったから、わたしもそれを握り返す。真っ赤な汚れがべたりとわたしの手にも移り、二人でそれを分かち合う。確かに二人、手を握りあっているという暖かい感覚が手のひらから伝わってくる。

 彼はそのまま床に寝転んで、腕を引っ張られたわたしはそのとなりに座り込む事になる。
 シュウくんの寝顔を久しぶりに目にした。穏やかな寝顔。わたしだけが独り占めにできる一時。なぜシュウくんがここにいるのか、その制服の返り血は誰の物なのか、いまはもう、これ以上の追求は無粋なような気がした。あの返り血が誰の物なのか、わたしはなんとなく、分かるような気がするのだ。

「シュウくん、シュウくん」
「なんだ」
「わたし、シュウくんが心地いいと言ってくれた音色を、もう奏でることが出来ないかもしれない」
「ふーん」
「それでも、シュウくんはこの場所に、来てくれるのね」
「思い上がるな。この場所はあんたがそんな姿になる前から、俺の数少ない安眠スペースなんだよ」
「そっか。わたしね、穢れた存在だったみたい。それでもわたしがこうして隣にいる事、シュウくんは許してくれる?」

 シュウくんの寝顔がふっと笑う。こちらを少し馬鹿にしているような笑い方だ。何もかもどうでもいいと言っているような表情に、今だけは安心を得る。

「あんたはそこにいて、いつもみたいに下らない噂話を一人で語ってろよ。いい子守唄がわりだ」


 繋いだ手を、ぎゅっと強く握る。シュウくんの手は赤黒い血でぬるぬるとしていて、罪そのものを握りしめているような気がした。

20130905

   

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