人の噂も七十五日とは言うけれど、この嶺帝学院における噂の持続力はもっと短いようだ。音楽室へ冷やかしにやってくる生徒はここ最近めっきりと減って、わたしはまた、ひとりぼっちで誰にも相手にされないおばけに逆戻りを果たした。シュウくんは次の日も、また次の日も、音楽室に姿を表さなかった。今やこの場所にやって来るのは音楽の授業を受ける生徒や教師以外は一人もいない。

 音楽室を包む完成度の高くない疎らな歌声のハーモニーに耳を傾けながら、わたしはぼんやりと立ち尽くしていた。指揮をとる音楽教師が厳めしい顔をしながら、生徒の指導にあたっているのが見える。
 ピアノを弾くことの出来ないわたしは、こうしてたまに行われる授業を眺めている事しか出来なくなった。居る筈の無いの女子生徒が紛れ込んでいる事を知っている人間は、きっとここには一人だっていないだろう。彼らは、シュウくんとは違う。背後に立っても目の前に立ってみても、彼らの視線がわたしを捉えることはない。

 わたしはピアノ伴奏を行っている女子生徒の背後に移動して、その手元を覗き込んだ。躍動感あふれる指先が動く度に鍵盤が弾かれて、綺麗な音楽を作り出す。そっとわたしも後ろから手を伸ばしてみたけれど、やっぱりわたしは鍵盤には触れられなかった。

 恋の代償はいつだって大きい。童話の中の人魚は恋をした代償に王子様に想いを伝える声を失った。わたしは、彼とわたしを唯一繋ぐ音を失った。王子様にはもう、なにも届かない。
 わたしが人魚姫ならきっと、手に入れた自らの両足で王子様に会いに行く。音楽を失ったわたしがシュウくんに会った所で、声を失った人魚姫と同じで想いは伝わらないのかもしれない。シュウくんがわたしを歓迎してくれるとも思えない。けれど一目会うことさえ出来たら、何かが変わるかもしれないのだ。
 でもわたしはただの音楽室のおばけで、この音楽室に閉じ込められている。何度試しても、わたしの体は外の世界から弾かれ、音楽室に押し戻される。扉に近づいて、今日も外に出る事を試みけれど、差し出した指先が、ばちばちとした抵抗を感じとるだけだった。

 最近、何かがおかしいと感じていた。

 どうして、わたしはここの部屋から出られないのだろうか。今まで、自分がこの音楽室に閉じ込められている事実について、深く考えた事が無かった。この部屋にはピアノがあって、わたしにはそれ以外の物は必要が無かったから。だからこそわたしはこの部屋に閉じ込められているのだと思っていたけれど、きっとそれは違う。この音楽室じゃなくたってピアノが置かれている場所は沢山ある。ピアノへの執着が消えた今、それすらも全く意味の無い事なのに。
 わたしが閉じ込められる理由は、きっともっと別の事なのだろう。それが何なのか、わたしには結論を出せない。



「んふ、何かお困りのようだね名前ちゃん」
「……っ」

 殆ど憎む相手というように扉を睨んでいたわたしの視界に、ぬっと滑り込むように横から顔が入ってきた。ピントを合わせるのにずいぶん時間がかかってから、やっとでそれがいつか会ったシュウくんの弟の一人だということに気がついた。

「逆巻、……ライトくん?」
「そうだよ。キミみたいな可愛い子が覚えていてくれたなんて、光栄だな」
「どうして、あなたがここに?」
「どうしてって、ここ、音楽室でしょ。授業中だからに決まってるじゃないか。こう見えてもボク、万年サボり魔のシュウなんかよりずっと真面目なんだ」

 秘め事を話すように少しボリュームを抑えた小声で囁いたライトくんは、しいっとくちびるに指先を押し当てて見せる。向こうでは、他の生徒たちが滞りなく授業を続けている。どうやら彼もこの授業を受けている生徒の一員だったらしい。

「ぼおっとしながらドアの外眺めてたけど、もしかして授業が始まってた事も気づいてなかったのかな?」

 怪しむ余地の無い自然な動作でこそこそっと話しかけてくるライトくんはとても器用だった。教室に散らばる生徒たちに、ライトくんが授業を一時離脱していると気がついている者はまだいない。

「授業中なのには気づいてはいたけれど、あなたが居る事には気が付かなかった」
「ボクはキミがふわふわ漂ってるって事にすぐに気がついたのに、酷いなぁ」
「十の中の一と一の中の一では意味が違うでしょう」
「それってボクが目立たないっていう意味? ちょっと傷付いちゃうよ」
「そうじゃないけど」
「で、キミはどうして難しい顔をしているのかな?」

 つん、と、眉間をつつかれる。わたしの眉間には皺が寄っていたらしく、ライトくんの手がまるでアイロンをかけてゆくように眉間を撫でる。久々の誰かに触れられる感覚は少し痛くて、わたしは一歩足を引く事でそれを振り払う。
 ライトくんも、シュウくんと一緒だった。わたしの存在を認めてくれるひとがまだ居た事を喜ぶべきなのに、なんだか少し複雑な心境だ。

「なにか悩みごとがあるなら、ボクが相談に乗ってあげようか」
「ライトくんが?」

 そうそう、と頷いたライトくんがにたりと口角を吊り上げる。

「ボクってこれでも、相談に乗るの上手いんだよねー。キミのどろどろした、醜くていやらしいものみたいな心の内を、全部曝け出してボクに見せつけてよ」

 正直わたしは、ライトくんの何を考えているのかよくわからないこの笑い方が少しだけ怖くて、苦手だった。彼はきっと今も、この中身なんて少しも詰まっていない笑顔で、わたしの事を面白がっているに違いない。つまらない授業の間の暇潰し。その程度。
 今はそれにすら必死になって縋らなければならないわたしは、ライトくんの瞳には殊更滑稽に写るのかもしれない。

「最近、シュウくんはどうしてるかな?」
「シュウ? シュウならいつも通り、寝て、音楽聞いて、また寝てをローテーションした、何の生産性もない毎日を過ごしてるんじゃない? ずっと一緒にいる訳じゃないからよく知らないけど」
「……そう」
「なあに、名前ちゃん。もしかしてシュウと何かあった?」

 更につり上がってゆくライトくんのくちびるは、まるで今日の空に浮かんだ三日月みたいな形だ。窓の外の月は満月からはすっかりと遠ざかって、弱々しい光りを放っている。シュウくんと満月を見上げた日がどれだけ遠いのかを思い知らされるようで、わたしは極力窓は見ないようにしようと考える。
 何も答えずに沈黙する事でわたしは返事を返したけれど、ライトくんは見逃してはくれなかった。

「もしかしてシュウ、最近ここに来てないんじゃない?」
「なんで、ライトくんがそれを」
「キミの態度を見ていればすぐに分かるよ。それに、よく考えてみたら最近のシュウってちょっと気になる所があるんだよね」
「え?」
「何かを調べてるっていうか――」
 ライトくんは少しだけ考えるような動作をして、それからぶんぶんと首を振る。
「――と、ごめんごめん、やっぱり今のはナシ。それより、シュウの様子なんかボクにわざわざ聞かなくても、キミがふわふわ〜っと飛んでいって確かめてきたらいいのに」
「出来たらわたしもそうしてるんだけど、わたしは音楽室からは出られないから」
「へぇ、じゃあキミはさしずめ音楽室に閉じ込められたお姫様って所だね。誰にそんな重ーい呪いをかけられちゃったんだろうね。魔女? 王子様?」

 冗談めかした口調のライトくんの言葉の裏には何だか大きな意味が隠されているような気がして、わたしは暫し考える。わたしがこの部屋から出られないのにはやっぱりピアノ以外に何か大きな理由があって、それは人間ではないライトくんに聞いてみたら解決の糸口が掴めるかもしれない。

「ライトくんなら知ってる? わたしの閉じ込められている理由」

 わたしはライトくんが少しだけ苦手だけれど、同じヴァンパイアで兄弟でもあるライトくんは、やっぱり少しシュウくんと似ている所がある。全ての事を知っていそうだったり、何かを見透かしている目をしていたり、そういった雰囲気はそっくりだ。

「んー、ボク?」
「うん。わたしはきっと、地縛霊ってやつなんじゃないかと思うの」
 ライトくんはシュウくんみたいに、わたしの会話を面倒だと言って一刀両断したりはしない。
「うーん、そうだな、人の魂が地縛霊になっちゃう原因は、大きく分けて二つだって聞いたことがあるね。ひとつは、この場所に未練がある場合」

 右手をぱっと広げたライトくんは、親指を一つ折る。音楽室、ピアノ、わたしの大切だったもの。それらへの未練は今となっても消えてはいないだろうけれど、ピアノに触れられなくなった今、それだけとはちょっと考えにくい。

「二つ目に、キミがこの場所で死んだっていう場合。特に死に方が惨めであればあるほど、報われなかった魂がその場所に縛り付けられて、行き場を無くしちゃうんだ。んふ、考えただけでぞくぞくするね」

 次に人差し指を折ったライトくんが肩をぶるりと震わせて、はあっと息を吐き出す。
 わたしの中で、歯車がかちりと噛み合ったような音がした。

「わたし、この場所で死んだのね」
「そういえば名前ちゃん、この前アヤトくんに、自分がどうして死んだのか思い出せないって言っていたね」

 シュウくんは言っていた。わたしが死んだ瞬間を思い出せないのは、その方が都合がいいからかもしれないって。わたしの短かった人生のエンディングは、この場所が舞台となったのだろうか。忘れてしまうほど無惨な最期だったのだろうか。

 くるりと首を巡らせて、音楽室を見回す。立派なグランドピアノ、壁に書けられた音楽家の肖像画、月明かりを取り込む窓。見覚えのある景色の中に生きていた頃の想い出は沢山ある。音楽室に散らばる生徒たちの中に見覚えのある顔もあるから、逆にあの中にわたしの事を知っている人だっているはずだ。
 目の前の逆巻ライトくん。シュウくんや他の兄弟と共に、学園で囁かれる逆巻兄弟の華やかな噂の持ち主。向こうでピアノ伴奏を行っている彼女は同じコンクールに出場した事があるから、顔見知りだ。彼女の母親はプロのピアニストなんだという噂を、聞いたことがある。あっちで誰よりもうまい歌声を奏でている男子生徒は、彼のお祖母さんが昔ソプラニスタだったという噂がある。厳めしい顔つきの先生は、授業が厳しいことで有名で、わたしも何度も怒られた事がある。どうしようもないくらい女ぐせが悪いという噂もあり、女子生徒の間では頗る評判が悪い。
 生前に聞いた噂話は、すらすらと頭に浮かんでくる。自分の死んだ瞬間だけが暗い闇に閉ざされたように、見えない。まるで思い出してはいけないと、何かが言っているようにも思える。頭が痛くなりそうだ。

「どうしたの名前ちゃん、顔色わるいよ」
「ごめんなさい、大丈夫」

 幽霊が、頭痛になるはずがない。ふるふると首を振り、なんとか顔を持ち上げて、ごくりと唾を飲み込む。頭痛なんかになるはずがないのだ。

「ねえライトくん」
「なに?」
「自分がどうして死んだのか思い出して、そのトラウマときちんと向き合ったら、わたしはあの扉から外の世界に出て、シュウくんに会いに行けるようになるのかな?」
「さあて、どうだろうね。そこまではボクにも分かんないな」
「試してみる価値、は?」
「あるとは思うけど、無駄じゃないかな。きっとキミはいつになっても思い出せないと思うよ。ほら、こんなに青い顔してる」

 つつ、とライトくんの指先がわたしの頬を滑る。ぞくりと背筋が凍る感覚を思いだし、もう一歩後じさった。

「そんなの、やってみなきゃ分からないと思わない?」
「そうかもね。だけど、もっと簡単な方法もあるって話さ」
「簡単な、方法?」
「ボクが調べてきてあげようか。キミがどうして死んじゃったのか。荒療治的方法ではあるけれど、その方がずっと簡単に話が進む」

 ライトくんの提案は考えてもいない事だったので、間抜けにもぽかんと口を開いてしまった。
 確かに、わたしが死んだのは何年も前の話というわけでもないので、調べたら簡単に真相が分かるだろう。あのシュウくんだって噂にするくらいなら調べたらいいのに、なんて言っていたくらいだ。ああ、シュウくんが言っていたからこそ、わたしはその選択肢を除外していたんだ。

「んふ、どうしたの、その鳩が豆鉄砲くらったような顔」
「シュウくんならきっと、面倒だからって言ってそんな事してくれないから」
「いかにもシュウが言そうな台詞だね。ボクはシュウじゃないし、面白そうだから、キミに協力してあげるけどね」
「ほんとうに?」
「キミの覚悟次第かな。わざわざ忘れてるって事は、キミにとっては思い出しても苦痛なだけかもしれないし。それでも思い出す覚悟はある?」

 少しも尻込みしなかったといったら、嘘になる。だけどわたしには、迷う余地なんて無かった。

「覚悟ならある」
「んふ、いい顔だね。じゃあ決まりだ」

 わたしがライトくんにぺこりと頭を下げて、ライトくんはぱちんと両手を叩きあわせる。それと同時に、突然、向こうから怒鳴り声が飛んできた。

「――おい、逆巻、そこで何してる」

 厳しいことで有名な先生が、ついにライトくんの一時離脱に気がついたようだった。鬼のような形相の彼は、此方を睨みながら怒鳴っている。あの鋭い視線も風船の弾けた瞬間のような怒鳴り声も、ライトくんに向かっているはずなのに、こっちまで竦み上がる程の迫力だ。肩が震えている。

「んふっ、いっけない。キミとこっそり逢瀬を楽しんでいた事が、バレちゃったみたいだ」
「おい、何してると言ってるんだ。早くこっちに来て、列に並べ」
「……うっるさいなぁ」

 わたしにしか聞こえないような小声で吐き捨てるライトくんに、あの怒鳴り声はわたしも苦手だったなぁ、なんて苦笑い。

「早く、戻った方がいいんじゃないかな。あの先生、怒りっぽい事で有名だよ」
「仕方ないから今日のところはこれでお開きだね。ボク明日もここで授業があるから、それまでにキミのあーんな事やこーんな事を隅々まで調べておくよ。キミはちゃあんといい子にしてボクの事待ってるんだよ」

 約束だよ、と付け足して、ライトくんはくるりとわたしに背を向ける。すみませーんと努めて明るい声色を放ちながら生徒の列の中に戻っていくライトくんの背中が遠ざかる。
 途中、彼は一瞬だけこちらを振り返り、わたしにだけ聞こえる僅かな口の動きで言葉を紡いだ。


「ところで名前ちゃんて、シュウの事が好きなの?」

 その言葉はじんわりとわたしを絡めとるような響きを帯びていて、素直に、すとんと、胸に収まった。自然とわたしは頷いている。
 この気持ちさえなければ、シュウくんはわたしから離れていかなかったかもしれない。けれどこの気持ちは、今は確かに、わたしの大切な宝物だった。

20130905

   

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