女っていう生き物はどいつもこいつも美しい物には欲深く寛容だ、というのが逆巻シュウがこれまで生きてきた中で培ってきた持論だった。ヴァンパイアというのは効率よく獲物を獲得するために美しい容姿を持つものが多いとされるが、逆巻シュウは中でも殊更優れた容姿の持ち主だ。その色香に惹かれ言い寄ってくる人間の女は掃いて捨てるほどいる。
 シュウ自身はそれを面倒だとも、食事に困らないのだから好都合だとも思っていたが、その日は確実に前者の思考が勝っていただろう。
 ぐったりとしなだれかかる女子生徒を肘で押しやると、はあと深い溜め息を吐いたシュウ。女子生徒はそんな事お構いなしに、再びシュウの腕に絡み付く。

「ねえ、シュウ、つれない事言わないでよ。こんな気味の悪いところに居るのは止めて、あたしと一緒に遊びましょうよ」

 科をつくったような女の声。知りもしない初対面の女に馴れ馴れしく絡み付かれ、シュウは少し苛立っていた。女子生徒は態度の端々からシュウへの好意を表していたが、シュウはそんな事はすでに慣れきっていたので、興味すら抱かない。彼女は花に引き寄せられた蝶のようなものだった。





 ピアノの前の定位置に腰を下ろしたわたしは、ひやひやとした気分でシュウくんに絡み付く彼女の様子を眺めていた。
 この音楽室がいつもそうであるように、今日も静寂の中にピアノの音だけが響く空間だったのが、打ち崩されたのがつい先刻。がらりと音をたて開いた扉から現れたのがそう、シュウくんの腕に絡み付いた彼女だった。
 ふわりとウエーブのかかった長髪を揺らした、いかにもお洒落が好きそうな、可愛い女の子だった。彼女はシュウくんと知り合いなのか妙に親しげな様子で、シュウくんに語りかけている。シュウくんは彼女になにも答えないけれど、わたしが知る限り彼はいつもあの様子なので二人の関係はよく分からない。

「ねえ、シュウったら」

 ゆさゆさと、シュウくんの腕に絡まったネイルを施した綺麗な指先が、彼を揺する。
 音楽室のおばけの噂が広まってから音楽室にやってくる生徒は山ほどいたけれど、シュウくんがいる時間帯は決まって授業中だとかそういった時間帯だったので、シュウくんと来訪客が遭遇する事は実は珍しかったりする。現に彼女も音楽室のおばけと呼ばれているわたしを目的としてやってきた訳じゃなく、シュウくんが目的だったみたいだし。

「なんなんだあんた、さっきから。うっとうしいから消えろ」
「ひっどぉい、折角シュウに会いに来たのに」

 ついに口を開いたシュウくんが彼女の腕を振り払ったので、ここでやっとわたしはシュウくんと女子生徒との間柄を知る。シュウくんはあの通りだけれど、女の子なら誰だって息を飲むような綺麗な顔立ちをしているから、どうやらモテるようだ。わたしや彼の兄弟以外と接するシュウくんを見るのは初めてなので、少し新鮮な気持ちではある。

「どうせ授業さぼって暇なんでしょ? だからあたしが遊んであげるって言ってるのにぃ」
「そんな事誰も頼んでない」
「あ、ねえねえ、あの噂、シュウも知っているでしょう? ここ、気味の悪い幽霊が出るんですって。あたし怖いわ。だから二人で他の所に行きましょうよ」

 彼女には霊感が無い事は、彼女がこの部屋に入ってきた時点で既に分かっていた。幽霊の姿が見えていてこんな風にのんびりしていられる人間は、そうそう居ないだろう。噂の正体がすぐそこで聞いているなんて事は夢にも思っていだろう彼女に、僅かな罪悪感を覚える。
 シュウくんが一瞬だけわたしの方をちらりと見た。責められているような気がして苦笑い。

「馬に蹴られる趣味はないし、彼女のためにもわたしの方がそっとここから出ていってあげるべきなんだろうけれど」

 出ていけたらよっぽどましだったのに、と思った。流石に目の前でいちゃいちゃと始められたら目のやりどころに困るだろうし、わたしとシュウくんは恋人同士でもないから口を出す立場では無いのかもしれないけれど、あまり気分がよくはない。
 床を蹴り、扉の前までふわりと移動する。彼女が開けっ放しに入ってきたため、扉の向こうの薄暗い廊下が続いている様子が伺える。腕をあげ扉の向こうへと差し出してみたが、開いている筈のそこに透明な扉が存在しているかのように、てのひらに遮蔽物に押し当たったような感覚を覚える。力を込めてみれば、ばりばりと押し戻されるような感覚。既に何度か味わった感覚だ。

「やっぱり出られないかぁ。というわけで悪しからず」

 肩を竦めてみせたら、ずっと難しい顔ばかりしていたシュウくんが、ふっと破顔した。シュウくんはいつもあんな笑い方をする。わたしを馬鹿にしているような笑い方。普段は気にならないのに、今は少しだけ不愉快で、心がじゅくじゅくとおかしな音を立てたのが聞こえた。

「馬鹿みたいだな」
「え?」

 眉を顰め聞き返したのはわたしではなくシュウくんのすぐ隣にいた彼女の方だった。彼女にしてみたらシュウくんが突然あらぬ方向を見ながら口を開いているように見えたに違いない。

「こんな場所に縛り付けられて」
「だって音楽室にはピアノがあるんだもの、仕方がないじゃない」
「ピアノ、ね」
「なにその含みのある言い方。というかそこの彼女、凄く混乱しているみたいだけれど、いいの?」

 空気と会話を続けるシュウくんの姿に、彼女は混乱しきった顔をしている。あるいは気味が悪いと思っているかもしれない。ここは噂のおばけが出る、音楽室だ。

「どうしたの、シュウ?」
「……」
「……シュウ?」

 わたしとシュウくんは暫くの間見つめあっていた。じっと見つめるシュウくんの青い瞳から目を離したら何故だ負けのような気がした。じゅくじゅくと、何かが膿んでゆく音が聞こえてくる。しきりにシュウくんに語りかけている彼女の困惑した声、すこし気の毒だ。

「……気が変わった」

 漸く口を開いたシュウくんは呟くような声色で言った。青い瞳を見つめながら、その言葉は誰に話し掛けているんだろうと考える。きっとあそこの彼女も、同じことを思ったに違いない。
 先にわたしから視線を外したのは、シュウくんの方だった。シュウくんの青い瞳が写し出す、腕にしがみつく女子生徒。

「あんたの事、相手にしてやってもいいぜ」

 今度も彼女は驚いた顔をしていたけど、一番驚いていたのはわたしだった。
 相手にするっていうのは、つまり?
 もちろんわたしには口出しする権利はないけれど、わたしは何処かで安心していた。シュウくんは彼女の事を凄く疎ましそうにしていたし、わたしはシュウくんに拒絶された事はなかった。だから、何処かで彼女を見下して、優越感に似た物を感じていたのかもしれない。そんな卑しい自分をシュウくんに見透かされたような気がして、もう痛むはずのない胸がつきつきとする。

「うそ、やったぁ、シュウって誰ともつるまないっていうか一匹狼なイメージあったから、実はダメもとだったのよね、あたし」
「……うるさい声できーきー騒ぐな」
「煩いってひっどーい。じゃあ、行きましょう」
「面倒臭いから俺はここから動かない」
「はっ?」
「了承出来ないのなら交渉決裂だ」
「うそ、うそうそ。ここでいいわ」
「あんたが俺をその気にさせろよ」

 わたしの目の前で、事は驚くほどするすると進んでいった。
 先ほどとはうって変わった浮かれ顔で、彼女はシュウくんの膝にのりあげて、至近距離でその瞳を見つめた。青くて清んだ、空みたいな瞳。シュウくんはなんの表情もない顔で彼女を見返していたけれど、彼女は赤い頬ととろりとした瞳でシュウくんを見つめている。
 つきり、また胸が痛むのは、何故だか分からない。不愉快な気分だ。ずっと二人きりで一緒に過ごしてきたので、わたしはシュウくんが何処かわたし一人のもので、シュウくんもわたしの事を気に入ってくれているんじゃないかって、錯覚していたのかもしれない。
 わたしの隣にいてくれたシュウくんが、急に遠いものに感じた。

「キス、しよ?」

 彼女がシュウくんに覆い被さるようにして、顔を近付ける。
 見てもいいのか、駄目なのか。シュウくんはまるでわたしなんて居ないような顔をしていて、よく分からない。だんだんと距離を縮める、二人のくちびる。じゅくじゅくと、何かが膿んでゆく音。
 ああもう目を瞑ろう、と思った瞬間に、迫りくる彼女のくちびるをじいっと見つめていたシュウくんの顔が、ふっと動いた。触れ合う事の無かった二人のくちびる。酷く驚いたような彼女にもシュウくんは無表情を貫き通し、その勢いのまま、多い被るような体制の彼女の首筋に顔を埋め、――かぶり付いたように見えた。
 俺はヴァンパイアだ。
 いつしかシュウくんが言っていた言葉が脳裏を過る。ヴァンパイア、吸血鬼、吸血、血を、吸う。ぽんぽんと、幾つかの考えが、単語で浮かんでくる。シュウくんがヴァンパイアだっていう事はもう信じていたけれど、実際には目にしてみるのはまた全然違う。シュウくんは、彼女の血を吸っているの?
 何度も何度も、シュウくんが首にかぶりつく。
 最初は困惑や恐怖を表していた彼女の表情は次第に、喜びや快感を指し示すようになった。ちゅ、ちゅ、ちゅる、艶かしい音。蕩けそうな女の顔が、色めきたつ。

「……ん、シュウ、気持ちいい」

 見たくない、と、思った。シュウくんの首に絡まる彼女の細い指先。ラメ入りのネイルを施されたそれが、きらきらと輝き、毒の鱗粉を振り撒かれたようにわたしの中に染み入ってゆく。彼女の首に埋まるシュウくんの表情は見えない。けれど、見たくない、と思った。ぐにゃりと心が歪み、どろりとした膿みたいな気持ち悪いものが、ついに溢れだした。
 気持ちが悪い。感覚の無いはずの体に、吐き気がする。
 わたしはシュウくんの特別なんだと、何処かでわたしは考えていた。でも違った。わたしは、体の無いわたしは、ヴァンパイアである彼の喉をあんな風に潤して上げる術はない。わたしがわたしを特別だと思っていたのは、この部屋の外の世界を知らないからだ。シュウくんを満たしてあげられる女の子はきっとこの部屋の外に、他にも沢山いるだろう。わたしはその一員にすらなれない。
 逃げるように背を向ける。シュウくんの小さな吐息、彼女の嬌声、血を啜る音。目を背けたって、なにも変わらない。背中からじわじわと襲ってくる現実。逃げたい。この部屋から逃げたい。手を扉の外へ向かい差し出す。ばちん、弾かれ押し戻される指先。逃げられない。

「シュウ、もっと、もっと」

 この音楽室は、わたしとシュウくんのお城だった。この音楽室に響いているのは、わたしの演奏だけだった。二人だけの空間に、いる筈の無い三人目の艶かしい音色が響いている。
 聞きたくない。
 わたしはこんなにも、独りよがりな人間だっただろうか。勝手な思いと分かっていたけれど、彼女に音楽室から出ていってほしいと思った。
 艶かしい女の顔をした彼女を見つめ、ごくりと唾を飲み込む。一瞬、シュウくんと視線があった気がする。かっと胸が熱くなる。
 なんだろう、この、燃えるようなどろどろとした感情は。
 わたしは静かに歩き出す。
 くっつきあう二人を横切り、奥のピアノへと確かな足取りで向かう。なにも出来ないわたしが唯一シュウくんに認められたもの。ピアノの音色。わたしの居場所を取り戻すために、わたしは奏でよう。ナイフを研ぐように、音を紡ぎだすのだ。
 誰もいない場所でピアノが鳴っていたら、彼女はさぞ驚き、気持ち悪がり、その音色を嫌悪するだろう。シュウくん以外のひとが皆、そうだったように。わたしの音を認めてくれる人は彼以外居なかったし、これからもそれでいい。
 ピアノへと伸ばす指先は震えていた。彼女の嬌声。シュウくんの吐息。わたしの、荒い呼吸。わたしの敵を排除する。そんな醜い感情の為に旋律を奏でるために、わたしはピアノを好きでいたのだろうか。ぐるぐると胃の中が回っているようで気持ちわるい。昔のわたしはこんな不純で身勝手で醜く浅ましい動機で鍵盤に向かい合うわたしを、どう思うだろう。
 鍵盤に震える指先が到達した。彼女の嬌声。シュウくんの吐息。わたしの荒い息。それ以外の音はない。ピアノは音を奏でてはくれなかった。鍵盤を叩いた筈の指先は、するりとすり抜けて、ぶらりと肩から垂れ下がった。

「触れられ……ない?」

 さあっと顔が青くなる。ずっと大切にしまっていた宝物が、宝箱からぽろぽろとこぼれ落ちてゆくような感覚。もう一度指を鍵盤に乗せてみたけれど、やっぱりするりとすり抜けてしまう。どうして、どうして、どうして。はやる気持ちが足元からせりあがってくる。彼女の嬌声。シュウくんの吐息。ピアノがないと、この気持ちわるい不協和音を打ち消せない。
 ゆっくりと後ろを振り返る。相変わらず首筋に顔を埋めたシュウくんと、蕩けた瞳でそれを受け入れる彼女。今度は確実に、シュウくんの青い瞳と目があった。彼の瞳は、少しだけ笑っていた。
 ふつふつと、なにかが心のなかで煮え立ち、溢れだした気がした。
 ああ、シュウくん、シュウくん、シュウくん――。
 わたしはその時、はっと気がついた。子供の頃からのわたしの一番大事なものは、ピアノだった。わたしの宝箱には、きっとピアノへの愛がぎっしりと詰まっていたのだろう。だからわたしはこうして幽霊の体になっても、ピアノだけには触れられた。けれどその愛は、ついさっきぽろぽろとこぼれ落ちていってしまった。かわりに、残った隙間に、シュウくんと過ごした楽しい日々が詰まっている。
 わたしは、シュウくんが、好き。
 大好きなのだ。
 恋愛感情として、シュウくんが好き。
 ああ、そうか。だからこんなにも悲しくて、気持ちがわるいのか。シュウくんと、わたし。シュウくんと、知らない女。ふふっと自嘲ぎみに笑う。シュウくんが好き。一度気がついたら、それはなるべくしてなった、当たり前の事柄のように思えた。
 ピアノへの執着。シュウくんへの執着。
 わたしの心はピアノよりもシュウくんを選んだ。もう一度ピアノへと指を伸ばすけれど、やっぱりすり抜けてしまう。これが何よりの証拠だった。

「シュウくん、嫌だよ……」

 わたしは殆ど泣きそうな顔で、だけど幽霊だから泣けない顔で、とぼとぼとシュウくんに近づいた。わたしが今までピアノに触れられたのがピアノへの執着だというのなら、その執着がシュウくんに移ったいま、きっとわたしは。おそるおそるシュウくんの背中に手を伸ばす。するりとすり抜ける事なく、シュウくんの背中の意外な逞しさをてのひら全体で感じた。
 わたしはまた泣きそうになる。何かに触れられるっていうのは、こんなにも嬉しい事だったのか。必死の思いでその背中にしがみつき、彼女からシュウくんを引き剥がす。
 シュウくんは彼女から顔を上げて、わたしを見てくれた。青い瞳。シュウくんの瞳。やっとでわたしを見つめてくれた。くちびるは彼女の血で真っ赤に染まっていて、つきりと胸が痛む。
 シュウくんはゆっくりと首を動かして、彼女とわたし、二人を見比べるようにする。首筋から赤い血を垂らした彼女はもっとと蕩けた瞳でシュウくんを見つめている。わたしは多分、泣きそうな顔で、でも泣けなくて、透けている。
 暫くそうしていた後、シュウくんはふっと何処か馬鹿にしたような顔で笑った。

「あんた、面白いな」

 それが何に向かっての言葉なのか、わたしには分からなかった。シュウくんが立ち上がる。すっと背を向けて、歩き出す。そのままシュウくんは、音楽室を飛び出して、わたしがどう頑張っても足を踏み入れられない領域へと姿を消してしまった。
 床に座り込み呆けていた彼女も、立ち上がってシュウくんの背中を追いかけていった。わたしも追いかけたかったけれど、やっぱり弾かれ押し戻されて、それは叶わない。すっかり一人きりになってしまった、静かな音楽室。


「……シュウくん」

 しいんと静まり返る音楽室に、わたしは言い様の無い不安が胸に押し寄せてくるのを感じた。
 シュウくんが心地いいと誉めてくれた、わたしの音色。その音色はわたしからこぼれ落ちて、もう二度と帰っては来ない。わたしは彼に、恋をしてはいけなかったのだ。彼はきっと、音楽を失ったわたしには、価値を見出ださない。
 しがみついたシュウくんの大きな背中。音楽室を去る時のシュウくんの背中。
 シュウくんはもう二度と、無価値になってしまったわたしの元には帰ってきてくれないんじゃないかと思った。

20130904

   

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