今宵は月が大きく、煌々と輝いている。

 月の光は夜にしか生きられないシュウや名前にとって、大きな意味合いを持つものだった。その日は満月で、僅かに赤みがかった奇妙な色をしているそれが、二人にはとても心地がいい。特にヴァンパイアであるシュウは、本能を引きずり出されるような高揚した気分を味わっていた。





「今夜は満月だな」

 わたしとシュウくん、二人で何となく肩を並べて、窓の外を眺めていた。隣の息づかいすら聞こえてくるかのような静寂な夜はまるで、この音楽室が世界で唯一の場所になってしまったみたいだ。実際には外の世界があって、ああやって大きな満月が世界を照らしているのに。月は綺麗だ。なんだか魔力でも放っているかのように、うっとりしてしまう。昔の凄いひとは月に愛の告白を例えたと聞いた事があるけれど、今ならそれも頷ける。生きている時のわたしはこうして改めて月を見上げる事もなかった。シュウくんは月が好きみたいで、よく月を見上げてる。

「うん、大きなお月さま」
「月が綺麗だ」

 ぽってりと大きな満月は、口を開くのすら億劫なシュウくんの口を何度も動かすほどの見事さらしい。吐き出された彼の声は、何処かうっとりしているようで、少し照れてしまう。出会ってから初めて、シュウくんからわたしに話題をふってくれたような気がするのだ。実際は彼の独り言かもしれないけれど。
 シュウくんも少しは気を許してくれたんだろうかと嬉しくなったわたしは、照れ隠しのように口を開く。

「もしかして今のって、わたしへの愛の告白?」
「……あんたついに脳味噌が腐り始めたんじゃないか」
「ええ、腐ってないよ」
「なんで俺があんたみたいなのに愛を囁かなきゃならないわけ……めんどくさ」
「夏目漱石だっけ。昔のひとはアイラブユーを月が綺麗ですねって訳したって言うじゃない」
「……ハァ。それなら俺は今まで何千回と愛を囁いてきた事になる」
「うーん、ちょっとくらい乗ってくれたっていいのに」
「……で、乗ってやったら?」
「え? ええっと、なんだっけ。そういう場合『わたし死んでもいいわ』って返事するんだっけ? 違った?」
「あんた既に死んでるんじゃなかったか」
「まあね。じゃあわたしは、『成仏してもいいわ』とでも返事しようかな」

 さも滑稽な話を聞いたというように、シュウくんが鼻で笑う。

「そんなに簡単に成仏できるのなら、未練たらしく音楽室のおばけなんかやってないんじゃないの」
「それもそうだけど」

 誠に彼の仰る通りで、すっかり打ち負かされたわたしは大人しく立ち上がる。
 月明かりを取り込む窓から視線を外し、音楽室の真ん中に堂々と鎮座するピアノへと移す。わたしの瞳にはそれが、魔力を秘めた月の光よりももっと愛おしいものとして映っている。あれへの未練が絶ちきれない限り、わたしはきっと、成仏なんか出来ないんだろう。
 それから二三歩移動して、黒く美しい光沢を放つピアノをそっと撫でてみた。他の物や人間の体ように、触れられずすり抜けてしまうような事はない。指先に伝わる、つるりとした感触。心をすぐさま満たす溢れんばかりの喜びの感情。この感情が薄れない限りはまだ、やっぱり成仏なんか無理そうだ。
 わたしはいつものように椅子に座って、鍵盤に人差し指をのせた。ぽーん、ぽーん、と何度か音を確かめるように弾く。

「今日みたいな月の綺麗な日には、ベートーベンの月光でもいかが。聴いてくれる?」
「ああ。あんたはそのためだけにここに居るんだからな」
「それじゃあわたしがピアノ以外能がないみたいじゃない」
「なんだ、違うのか」
「残念ながら違わないね」
「なら早くしろ」
「はーい」
「あんた自身には魅力なんか一切感じないが、あんたの演奏にならいくらだって愛の言葉を囁いてやってもいい」

 この曲はわたしにとってお気に入りの曲だったけれど、シュウくんもそれなりに好きな部類のようだで、彼は気持ち良さそうにしている。気持ち良さそうに耳を傾けるシュウくんを見ているのは、わたしも気持ちがいい。
 何度練習しても楽譜どおりに弾けない部分で躓いて、そのたびにもう自分は成長することの出来ない身体になってしまったんだと落ち込みもしたけれど、わたしの演奏を認めてくれるシュウくんという存在がすぐそこに居ることで、すぐに気にならなくなった。

20130713

   

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