近ごろの嶺帝学院高校はこんな噂で持ちきりだった。

 ピアニストを目指していたひとりの女子生徒が、ここ最近謎の死を遂げたらしい。死の原因についてはコンクールの成績が奮わなかった事を苦にした自殺だとか、幼い頃から患っていた病気が悪化しただとか、不慮の事故死だとか、何者かに殺害されたからだとか、語る者によって色を変える。とにかく、彼女が死んだ頃からだった。夜な夜な、人気の無い音楽室から不思議なピアノの音色が聴こえてくるようになったのは。中を覗いてもそこには誰もいない。ただ、鍵盤がひとりでに動いているのだ。

 音楽室のおばけや独りでに鳴り響くピアノの噂は、どんな学校にも存在するありきたりな七不思議のひとつではあったが、夜間学校である嶺帝学院の生徒からしてみたら不気味なことこの上ない噂であった。実際に、女子生徒がひとり、死んでいるのだから。血塗れの女子生徒を見ただとか、妖怪のような風貌だっただとか、尾ひれはどんどんと大きくなっていた。


「で、彼女の怨念は彼女を、ひどく醜い見てくれをした怪物の姿に生まれ変わらせたってハナシ」
「腕が八本は生えてるって聞きましたよ。気味が悪いね、テディ」

 逆巻家の六人の兄弟はお互いの事を語らいあう程睦まやかではないが、学園に通うリムジンの中では、暇潰しに様々な噂を語り合ったりもする。そのため、噂には疎いシュウの耳にも音楽室のおばけの噂は届いていた。やかましい三つ子が「おばけの正体を暴きに行こうぜ!」などと騒いでいる様子を眺めながら、シュウは、あの女の事なんだろうなと考えていた。






「最近よく挙動不審な人間が音楽室にやってくるんだけど、なんでだろう」

 お気に入りの曲を一曲弾き終えた後に、わたしはシュウくんに向かって口を開いた。

「音楽の授業がある時間を除いたら、普段はシュウくんくらいしか近寄るひとなんかいないのに」

 出会いを果たしたあの日から、わたしとシュウくんとはよく時を共に過ごすようになっていた。わたしがピアノ演奏を始めると、シュウくんは何処からともなく現れて、わたしの演奏に耳を傾けてくれる。
 二人の間に会話らしい会話が飛び交うことなんて、滅多になかった。大体はわたしが演奏をしてシュウくんがそれを聴いているか、わたしが何かを言って、シュウくんが聞いているようないないような顔をしているか。
 幽霊になったわたしにとっては、それでも、シュウくんが同じ室内に居てくれるだけで凄いことだった。

「近ごろ、あんたの噂をよく聞く。有名人にでもなったんじゃないのか」
「有名人になれるような偉業を成し遂げた覚えはないんだけどな。どんな噂?」
「音楽室のおばけの噂」
「ああ、それは真実だものね」

 肝試しにでも来ているのかもね、と、あいも変わらず寝転がる彼に冗談めかしてみる。

「お騒がせしているのは申し訳ないけれど、あまり意味のないことだよね。シュウくん以外、わたしの姿の見えるひとなんて、この学園には誰一人いないんだもの」

 ごろりと寝返りをうったシュウくんの顔が、こちらを向いた。ふわりと柔らかそうなはちみつ色の髪の毛と、青い瞳、整った顔立ち。こうして正面から見つめると、彼はやっぱり綺麗な顔をしていると思う。シュウくんの顔は少しだけ思案顔で、少ししたら、お得意の面倒そうな顔に変わる。

「あんたの姿が見えるやつが少なくともあと五人はいる」
「え、それはシュウくんのお仲間さんがこの学園にいるってこと?」

 ヴァンパイアが、と口にするのは、何だか少し、憚られた。シュウくんの正体について、音楽室のおばけを勤めるわたしが言うのもなんだけれど、まだ半信半疑だ。

「あいつらと仲間にされるのは大分心外だ」
「あまり仲はよくない感じなのね」
「そのうち、そいつらの内の誰かがあんたのその間抜け面を拝みにやってくるかもな」
「ふうん、そうなんだ。仲良くなれたらうれしいな」

 シュウくんのお仲間。彼は嫌そうな顔をしたけれど、否定をしなかった所を見ると、真実らしい。わたしは自分の顔が、自然とにやついてゆくのを感じた。
 音楽室のおばけはなんというか、孤独だった。シュウくんが隣にいてくれるから今は一人ではないけれど、自分がこの世に存在すると認めてくれるひとが居なければ、幽霊なんて居ないも同然だ。そのひと達もシュウくんのように、わたしの演奏に耳を傾けてくれたら嬉しい。誰かに聴いてもらえる分だけ、わたしの音色が命を取り戻してゆくような気がする。

「面倒だけど忠告しておいてやる。あいつらはあんたが期待しているようなお優しい連中じゃない。何をされるか分からないから気を付けておいた方がいい」
「でも、シュウくんのお仲間なんだよね?」

 お仲間、にまたしても嫌そうな顔をされたので、ヴァンパイア、と訂正する。ヴァンパイアと聞けば確かに恐ろしそうなイメージもあるけれど、シュウくんはいつも怠そうにしているから、そんなイメージはすっかりと塗り替えられていた。

「それに、少なくとも物理的に何かをされるって事はあり得ないんじゃないかな」

 自分の両腕を見おろす。ふわふわと、まるで幻を見ているかのように半透明な体。椅子から腰をあげ、床についた片足を軽く踏み出せば半透明な体はふわりと宙に浮かび上がり、実態の希薄さをあらわすようにゆらゆらと揺れる。
 そのまま音楽室の宙をふわふわ漂いながら、寝転がるシュウくんの隣に着地を決めた。シュウくん驚いた顔ひとつせず、傍らのわたしを静かに見上げている。
 ゆっくりと腕を持ち上げる。

「こうやって」

 シュウくんの腹のあたりにてのひらを翳しゆっくりと下ろしてみたけれど、わたしの指先は一行にシュウくんの制服の布のごわっとした質感なんかは受け取らなかった。ずぶずぶと底無し沼に吸い込まれるように、指先がシュウくんの腹と融合して、手首、肘、と次々と飲み込まれて行く。床に遮られることもなく、肩のあたりまでわたしの体は飲み込まれた。

「誰もわたしには触れられないんだし。物もすり抜けちゃうから、物にも触れないもの。わたしが唯一ピアノに触れられるのは、それだけ未練があるっていう事なのかな」

 こんな状態の自分に危害を加えられる方がどうかしている。シュウくんがひとつ落とした溜め息が、耳許で聞こえた。

「あんた何も分かってないんだな」
「え?」

 顔をあげれば、シュウくんのてのひらが、わたしの方に向かっているのが見えた。一瞬、何が起こっているのかわからずに、指が長くて形のいい爪が収まったその指先を、じいっと見つめてしまう。気だるげな所作ではあったものの確かにシュウくんが自分の腕を動かして、自分と半分融合しているわたしの腕を掴もうとしている。
 なにも分かっていないのはシュウくんの方だ。その腕だってきっと、わたしの体をするりと通り抜けて、わたしは思い知らされるに違いない。

「……っ」

 けれどわたしは次の瞬間、久方ぶりに何かに触られるという感覚を思い出した。肩に、シュウくんのてのひらが置かれている。わたしの肩をぎゅっと掴むよう彼の手に力が込められると、同じように何かに掴まれたという感覚。シュウくんが腕をぐいっと押すたび、体を押し退けられているような感覚。わたしの体はシュウくんに押され、ヘリウムガスの入った風船のように、するすると宙に浮かび上がる。
 わたしの腕はまるで、畑に埋もれた根菜をひっこ抜いているような感覚で、するするとシュウくんの腹から抜けていった。
 最後の指先がシュウくんの体から抜け出す瞬間、今度はその手を握り、ぐいっと彼の体に引き寄せられる。
 半分宙に浮いていたわたしの体はまた引き寄せられて、寝転がるシュウくんの顔を間近で見つめる事となった。

「そっちが触れられなくても、こっちは触れられるんだよ」

 普段通りの気だるげな声が、耳許に囁くように吹き込まれる。ぞくりとした。その吐息の感覚すら、感じられるようなのだ。わたしの手を握っているシュウくん。触れ合った肌と肌の感触。シュウの力強い指先の感覚だとか、ひんやりと冷たい体温だとかが、余すことなく伝わってくる。確かにシュウくんは、わたしに触れている。
 声をかけても届かず、腕を伸ばしても届かない、あまつさえ物や壁まですり抜けてしまう。霊体で現世を過ごすというのは、要するにそういう事だった。わたしは死んでから初めて目を覚ました日の事を思い出す。自分がどうなっているのか訳も分からず助けを求めた声は、誰にも届かなかった。伸ばした手は、人の身体をすり抜けていった。
 まさかシュウくんはわたしの言葉や演奏を聞いてくれるだけではなく、こうして触れ合う事すらできるなんて。胸がいっぱいだった。
 シュウくんはそのままわたしの腕を更に引き寄せて、口許に運んだ。半透明の腕が、シュウくんの前に差し出される。その肌に彼は、がぶりと齧りつくような動作をする。

「……いっ!」
「流石に吸血までは、出来ないみたいだけどな」

 鋭い何かがぐいっと肌に押し込まれて行くような感覚がした。突き抜けるような痛みが上から下までびりびりと駆け巡って、目の前がちかちかする。おまけに噛み付いたままの状態でシュウくんが喋るものだから、少しくすぐったい。
 痛い、くすぐったい。不愉快な感情であるはずのそれらはひさしぶりに感じてみれば、大切な物だったのだと感じる。今のわたしは感覚というものがない。寒さも暑さも感じなかったし、痛いも痒いも感じられない半透明な身体で感じた初めての感覚。


「顔、凄い不細工なんだけど。そんなに痛かった?」
「ううん、ごめん、すごく、嬉しくて」
「痛くされて嬉しいって、そうは見えないけど実はドM? とんだ変態女だな」
「違う。違うけど、嬉しかった」
「ま、なんでもいいけど、眠い。もう一曲、なんか弾いてくれない? 子守唄になるような曲」
「……うん!」


 シュウくんは相変わらず。わたしの当たり前をまたひとつ打ち崩してくれた事も知らずに、音楽室の天井を見上げている。わたしは顔を引き締めると、いつもの定位置に腰を据える。せめて彼の好きだと言ってくれた音で、彼に気持ちのよい眠りを捧げられたらいい。

20130710

   

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