※シュウの凄まじい偽物感と若干人を選ぶ内容なのに注意









 不思議な音色が響いていた。

 色で例えるならば無色透明。物で例えるなら風船のようにふわふわと不確かで、繊細な硝子細工のように触れたら壊れてしまいそう。
 廊下に響き渡るそのピアノの旋律は、まるでこの世のものとは思えないような響きを帯ている。この世のものとは思えないとは言っても、演奏技術が抜きん出ている等の賛辞の意味ではなく、言葉通りの意味でだが。演奏に関してはまだ拙く、それなりに聴けるくらいのレベルだった。けれどこの音色には不可思議な吸引力がある。
 直接頭の中に音を流し込まれているような音色。逆巻シュウがいつもそうしているように、イヤホンで音楽を聴いている感覚に少しだけ似ている。だけどその日シュウの耳にはイヤホンは差し込まれていなかったので、いつものようにお気に入りのブラームスやシューベルトなんかを聴いていた訳ではない。


 逆巻シュウは極度の無精者のヴァンパイアだった。ここで彼の生い立ちや様々な事柄を語るとかなりの時間を費やしても語るに語りきれないので省略するとして、とにかく彼は何事にもやる気がなく、常に気だるげだ。そんな彼の趣味と呼べる趣味と言えば音楽鑑賞くらいのもので、暇さえあれば――暇ではなくとも、ぐったりと寝転がり音楽を聴いている。学校にいる間はよく音楽室に陣取って、音楽を聴いた。めんどくさがりの彼にとってそれはサボタージュするのと趣味とを兼ね備えた実に合理的な時間の使い方であった。彼はこの日も、音楽室を目指しリノリウムを踏み締め気だるげに足を動かし歩いていた。
 普段と違うのは音楽室から聴こえるおかしなピアノの音色が、シュウの耳に届いていたという事だけだ。その音色は闇に生きるシュウにとって何処か懐かしく何処か心地がよくて、めんどくさがりの彼の足がいつもより早いのは、その音色に吸い寄せられていたからかもしれない。


 音楽室の扉が開かれた。
 音楽室には先客が一人存在していた。ピアノの前に座り、鍵盤に指を這わす少女の小さな背中を、シュウの瞳が捉える。音楽室は音に包まれていた。彼女の細い指が鍵盤を叩く度に音がひとつ生まれ落ち、それは不可思議な旋律を編み上げて、音楽室を満たして行く。シュウは入口付近の床にごろりと寝転がり、ピアノと向かい合う彼女の姿を眺めた。窓からは月の光が差し込み、演奏に集中する彼女を照らし出し、きらきらと輝いて見える。彼女の演奏と同様、彼女の姿も不確かで、まるで幻のように見えた。白い指先は半透明で鍵盤の白が透けて見えているようだ。なるほどな、シュウは納得したような気持ちで、演奏に耳を傾け続ける。

 彼女――苗字名前は、同室のシュウの存在にはまだ気がついていないようで、演奏を続ける。一楽章すべてを弾き終える予定だった。それを終えたら次は別の曲を練習しよう。それがプロのピアニストを目指していた、名前の日課であった。

 苗字名前は至って平凡な人間だった。ここで彼女の生い立ちや様々な事柄を語ろうにも特に変わったエピソードなど無いので省略するとして、とにかく彼女はひとと違う事など何一つない普通の女子高生だった。そんな彼女も人並みに夢を持っていて、彼女は幼い頃から立派なピアニストになりたいと思っていた。けれどその夢叶わず、彼女は少し前に死んだ。平凡に生き、平凡に夢を見て、平凡に死ぬ。実に人間らしい人生だった。夢を諦めきれず成仏出来ない様ですら、名前を何処までも人間らしく平凡な存在たらしめる。


 やがて区切りのいいところまでを終えた名前が顔をあげた。床に寝転がる見知らぬ男に気がついて、彼女は飛び上がりそうなくらい驚いた。
 彼女には自分が既に死んでいて、自分が幽霊なんだという自覚があった。死んでからこの方、半透明な自分の姿が見える人間になど、出会った事が無いからだ。たまに霊感の強い人間が、奏でるピアノの旋律を聴き取って気味悪がられた事はあったのだが、姿を捉えられた事など一度もない。
 床に寝転がりじっと自分の方を見つめているシュウの青い瞳が、彼女には恐ろしいものに見えた。もしかしたら自分の姿が見えているのではないだろうか、いや、そんなはずはない、彼はピアノの音色が聴こえて、それで不思議に思ってピアノを見ているのだ。だったら、どうして彼は驚いた顔もなくあんな風に床に寝転がっているのだろう。名前の胸を満たす疑問は膨れ上がって行くばかりだ。


「……なあ」
「はい!」

 先に口を開いたのはめんどくさがりのシュウだった。演奏を止めおろおろするばかりの名前の姿が、シュウには凄くうざったかったからだ。名前は思わず返事をしてしまった事を、内心後悔していた。彼の、独り言かもしれないからだ。

「続き、弾かないの?」
「え?」
「あんたの演奏はなんか凄い心地いい。続き、聴かせろよ」

 ここまでくれば彼の独り言ではない、やっぱり彼は自分の事が見えているのだ、彼女は思う。
 名前の胸の中では困惑よりも喜びの感情の方が大きくなっていた。死んでからこの方、演奏を気味が悪いと言われる事はあっても、心地いいだなんて言われた事はなかった。それでも聴いてもらえるならまだいい、大概は弾いても弾いても旋律は誰の耳にも届かなかったのだから。誰かの為に弾くことなんて、ほんとうに久方ぶりの感覚だった。

 名前はどきどきした気持ちで、言われたとおり鍵盤を叩く。

 その不確かでふわふわと吸い込まれそうな旋律は、シュウの鼓膜を心地よく揺さぶった。いつもイヤホンで聴いている演奏の方が技術も優れ聞き応えもあるけれど、彼女の荒削りな演奏は魂を引きずり出そうとでもしているような勢いと妖しさを兼ね備えている、と、シュウは思う。シュウは目を閉じた。
 その心地良さそうな顔を横目で見て、名前は更に嬉しくなった。


 三曲ほどアンコール演奏をして満足したところで、名前は再び手を止めた。シュウのほうを覗き見れば、彼は相変わらず目を閉じている。眠ってしまったのだろうかと不安になったところで、金色の長いまつげの生えた瞼が持ち上がる。


「三つ、間違えてるところがあった」
「……あ、それは、わたしも、気がついてはいるんだけれど、何度練習しても治らないの。成長が、死んだところで止まっちゃったみたいに」

 わたし、幽霊だから。
 名前は自分の正体を打ち明けるのに随分な勇気を奮い立たせたものだが、そんなものでシュウが驚く筈もない。ヴァンパイアである彼はゴーストなんてちっぽけな存在、今までに飽きるほど見てきたのだから。ふうん、と、普段通りの気だるげな相づちを打つ。

「驚か、ないの?」
「あんたみたいなのは見飽きるほど見てきた」
「わたしは凄くびっくりしたよ。わたしの姿が見えるひとなんて、はじめて。霊感が強いのかな」
「いや、俺もあんたと同じ闇に生きるものだからな」
「……あなたも、死んでるの?」

 名前は驚いて、まじまじとシュウの顔を見る。透き通るような白い肌に、ふわりと柔らかそうなはちみつ色の髪。空を閉じ込めたような青い瞳。鼻はすうっと筋が通り、くちびるは美しい形をしている。改めてみれば綺麗すぎて現実味が無い顔だとは思ったけれど、自分のように透けては居ないし、死んでいるようには見えなかった。

「死んではいないけど、生きてもいない。俺はヴァンパイアだ」
「ヴァ、ヴァンパイア……? 物語にでてくる、あの吸血鬼のこと?」
「まあ」
「冗談、だよね?」
「残念ながら冗談じゃない」
「……ええ?」
「はぁ……めんどくさいな。自分も似たような存在の癖に、なんでそんなに驚いてるんだ」

 いつか自分が見えるひとが現れたとき、自分は凄く驚かれるんだろうなと名前は思っていた。実際はシュウに驚かされたのは名前の方。名前はヴァンパイアなんてものがこの世に存在することすら信じられなかった。

 これがヴァンパイアの逆巻シュウと、ゴーストの苗字名前の出会いだった。

20130709

   

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