食べてやるのも息の根を止めてやるのも違う。ボクはもう、この女の子に関わるべきでは無いのだ。


「…………いや、だ」
「いや? いま、嫌っていったの? キミはいつだってボクの言うことに従順だったのに、おかしいな」

 ぶんぶんと首を振ると、首にかかるかかからないかのショートヘアーも一緒になってゆれる。ボクが誉めてあげたあのときから、名前は今の長さよりも髪の毛を伸ばしたことがない。どこまでもボク基準にしか生きられないのが滑稽で、どこかの誰かさんと重なる。そのまま幻想に生きられたのならそれはそれで名前にとっていい生き方なのかもしれないけど、そんなのに付き合ってあげるほどボクは優しさに溢れてはいない。

「分からないな、キミはもう、ボクに縛られなくてもよければ、苦しい思いをして食べられる事もない。逃がしてあげるっていっているのに」
「わたしは、ライトくんから逃げたいと思ったことなんて一度だってないよ」
「痛くて辛い思いから永遠に解放されなくなっても?」
「それを、ライトくんが望むなら」
「ボクはもう、望まないっていってるんだ」


 ショックを受けた顔で俯く名前は、まるっきり捨てられた子供そのものだ。
 名前には呪いがかかってる。今までさんざんボクに従順を求められていたのに、突然に放り出されてどうしたらいいのか、分からなくなっているんだ。その呪縛を解くのなんか簡単だった。ボクから離れたらきっと名前は昔の名前だった頃を思いだし、それからボクに飼われた数年の事なんか無かったように暮らしてゆくだろう。人間なんてそんなものだ。名前は家族を失った喪失感を、あの森から救いだしたボクで埋め合わせる事によって忘れてきた。ボクがいなくなる事によって再び訪れるだろう喪失感が、怖いのだ。だけどもう名前は小さな子供じゃない。一人で生きていくだけの力をもっている。


「キミには言ってなかったけど、本当はボク、死神でも何でもないんだ。キミを手にいれるために嘘をついていたんだよ。どう、軽蔑する?」
「わたしね、何となくライトくんは死神さんとは違う何かなんじゃないかって思っていたよ」
「……ふーん、気づいていたのに、何も言わなかったの?」
「わたしには、ライトくんが何者だってよかった」
「あっそ、それは殊勝な事だね。けれどもういいんだよ、そんなに従順でいなくても。キミはミケじゃない、名前だ。どこか人間の村にでもいって普通の人間として暮らせばいい」

 くるりと背を向ける。

「キミにかかった呪縛をといてあげる、さようなら、名前ちゃん」



 一歩、踏み出そうとすれば背後から抱きつかれ、引き留められた。腹に巻き付いた白い腕にぎゅうっと力がこもる。名前は嫌だ嫌だとまるきり不細工な声で呟きながら、ボクにすがり付いていた。まるで捨てられて、途方にくれた子供のように。ボクに従順であった名前が駄々をこねるのなんて、これが初めてだった。

 その時、ボクは気がついた。

 名前もきっと、ボクと同じなんだって。名前にとってのボクがボクにとってのあの人であり、ボクにとってのあの人が名前にとってのボクだった。ボクが手に入らないあの人の愛に焦がれ、愛を錯覚していたように、名前はボクに愛を錯覚していた。ボクの胸の奥の方にあの人がずっと存在していて全ての命令を下していたように、名前の心の奥の方に、ボクがいる。
 名前はボクだ。
 ボクは、ボク好みの女の子を生み出すつもりが、逆巻ライト第二号を大事に大事にすくすくと育んでいたというわけだ。腹に巻き付いたふるふると震える名前の頼りない腕は、あの人に焦がれ全てを自分のものにしたいと願っていた、昨日までのボクだった。
 ボクは可笑しくておかしくて、大声で笑い転げた。けらけらと笑うボクを怪訝に思ったのか、しがみつくのを止めた名前が前に回り込み、顔を覗き込む。それでも笑いは止まらない。笑いすぎて涙が出ちゃいそう。


「アッハハハハハ……! そっかそっか、分かったよ名前ちゃん。キミは、ボクの事を愛しているんだね。だからボクから離れられないんだ」
「……愛、してる……?」
「いい、いいよ、すごく面白い。じゃあ、さ」


 小屋の片隅に転がっていた鋏を名前ちゃんに握らせる。いつか、彼女の髪を切ってあげた鋏。いつか、彼女の心臓に押し付けて、死への恐怖を教えてあげた鋏。鋏の握られた腕を掴み、ボクの胸の間へと導く。


「ボクのこと、刺してもいいよ。ボクの事をキミの手で殺したら、ボクは永遠に名前ちゃんのものだ。どお、嬉しい?」
「……っ」
「そんな怯えた顔をしなくても大丈夫。ボクら闇の生き物からしたら、死は凄く喜ばしい事なんだから。愛があるなら、ボクを自分だけのものにしたいなら、キミはボクを刺せるはずさ」

 ぐいっと、ボクの身体の、人間だったら心臓がある位置に鋏を押し付ける。それを握った彼女の腕は、面白いくらいに震えだした。
 もちろんボクらヴァンパイアが、鋏を突き刺されたくらいで、死ぬ筈も無い。ここに銀のナイフでもあったんだったら、迷わず渡して刺されてやってもよかったんだけれど、生憎そう都合よくもいかない。
 彼女がボクを刺す勇気があるのなら、胸に鋏を突き刺したまま床に転がり、そのまま死んだふりでもしてやろうと思った。そうしたらきっと、名前は急速にどうでもよくなるだろう。ボクへの執着、全てが偽りだと、ボクが死んで初めて気がつくんだ。ボクがコーデリアに、そう感じたように。名前は、昨日までのボクだから。
 一番近くの特等席で名前の繰り広げる滑稽な喜劇を鑑賞して、大声で笑い飛ばしてやるのだ。

「どうしたの、はやくしてよ、ほら」

 更に腕を引き寄せる。名前は今にも泣き出しそうな顔をして、ふるふる、ふるふると首を振り始めた。しわくちゃの顔は不細工で、せっかく可愛い女の子になったというのに台無しだ。

「……いや、できない」
「生き物を殺すのに抵抗がある? 大丈夫、ボクらとキミら人間とでは、全く別の次元で生きているんだから。きっとキミを咎める奴はどこにもいないだろうし、キミの魂が罪に汚れる事もない」
「ちが、う」
「違うって、なにが」
「わたしは、ライトくんを殺したくなんかない。ライトくんに、生きていてほしいよ」

 床へと、鋏が滑り落ちる。ついに名前はえんえんと声をたてて泣き出した。思えば名前がこんな風にして泣くのなんか、長いこと一緒にいて初めて見た。出会った頃の絶望を抱えた虚無の瞳の時も、感情を取り戻しころころと表情を変えるようになってからだって。人間には耐えられないようなひどいことをしてあげた事も沢山あったけれど、それでもこいつは涙を流す事なんか一度だって無かった。ライトくん、ライトくん、そういってずっとボクにまとわりついた名前。

「なに許可もなく勝手にぎゃあぎゃあ泣いてるの、イライラするなあ。同情をひこうとでも思ってるのかよ」
「……っ、う。だって今日のライトくん、何だか、辛そう」
「辛そう、このボクが? ちょっと優しくしてあげてたら、調子にのるなよ。お前にボクのなにが分かる」

 ぐいっと肩を押して、名前の身体を壁に押し付ける。ぎりぎりと軋む骨のおと。痛みに耐えるように歪んだ顔をした名前は、まだぼろぼろとなき続けている。


「わたし知ってるよ、ライトくんに何かがあって様子がおかしいときは、いつもあの香水の香りがするんだって」
「……は、」
「わたし知ってるよ、ライトくんはいつでも楽しそうに笑顔を浮かべているけれど、本当は何かを諦めていて、本当は脆くて弱くて繊細なひとなんだって」

 わたし知ってるよ。わたし、知ってるよ。知ってるよ。知ってるよ。そう何度も何度も続けて、名前はこれまで心中で留めてきたんであろう言葉をぽろぽろと溢していった。こんなにべらべら喋る名前も、初めて見た。当たり前だ、そんな発言、ボクは許した覚えなんか無いのだから。
 ぼろぼろと頬をこぼれ落ちて行く大粒の涙が、床に歪な斑点を描き込む。

「ライトくんの言う愛っていうのは、わたしにはよく分からない。だけどわたしはライトくんが大好きだよ。だからわたしは、ライトくんがわたしを好みの女の子にするっていうならその通りにするし、ライトくんがわたしを食べるっていうならその通りにするし、ライトくんがわたしを苦しめたいっていうのなら、その通りにする。だけど、ライトくんに捨てられたくない。我が儘だって言われても、ライトくんを殺したくなんかないよ」

 ごしごしと涙を拭い、赤くなった瞳で再びこちらを見据える。

「ずっと、側にいたい」

「……だから、ボクに食べられる事を、楽しみにしていたの?」

 魂を、寄り添わせるために。
 何を馬鹿な事をと思っていたのに、呆気にとられたボクは、そんな検討違いなことを聞いていた。こくんこくんと名前が頷く。しばらく沈黙が続く。ボクは、なんとも言えない気分になっていた。初めての気分だから、なんとも説明のしようがない。コーデリアに向けていた感情とも、アヤトくんやカナトくんたち血を分けた兄弟に感じる感情とも、可愛い女の子を前にした時の感情とも、愚かな人間を前にした時の感情とも、どれにも当てはまらない。


「じゃあさ、ずっと一緒にいようか」
「……え?」
「ボクはもうキミを食べてやる気は無くしちゃったけれど、一緒にいてあげる事なら出来るよ」

 すうっとボクのてのひらが、名前の前に差し出されるのを他人事のように眺めていた。どうしてこんな事をしているのかは、自分でもよく分からない。あんなにも、どうでもいいと、何もないんだと思っていたのに。


「そんな変な顔しないでよ、名前ちゃん。ボクもどうして名前なんかにこんな言葉をかけてやってるのか、よくわかんないんだから」
「ご、ごめん、なさい」
「ねえ、旅にでようよ。嫌な事すべて忘れてさ、手を握ってあもなく歩んだ。ずっとずっと」


 単なる思いつきだった。名前とだったら、この世のしがらみ全てから一緒に逃げ出していいかな、なんて、柄にもないことだ。こんな事言い出したのは、ボクも何だかんだで名前が気に入っていたからかもしれない。
 何もないんだと思っていたボクに残っていたのは、何もなかった名前だけだった。そう考えると名前とボクは、違うのかもしれない。ボクは、一度だってあの人に気に入られた事なんて無かった。
 正直言って名前がボクに抱く感情がボクがあの人に抱いていた感情と一緒なのかそうじゃないかなんて、ボクにはもう分からない。けれど、どっちだっていいんだ。これから、たぶん長い間一緒にいる事になるんだから。ゆっくりと、名前の事を知っていけばいい。ボクはミケの事はよく知っていても、名前の事はよく知らない。飽きたら捨てればいいんだし、そうじゃないなら一緒にいればいい。


「えーとね、ボクはきっとキミの思ってるようなやつじゃないから、キミにひとつ選択権をあげるよ」

 二人の身体の間に差し出したてのひらをぴらぴらと振りながら、んふっと笑う。


「もうキミはペットなんかじゃないし、ミケなんて呼んであげないよ」

「もうキミに命令もしてあげないし、キミを食べてあげることもない」

「それでもいいなら、それでもボクと一緒にくるのなら、この手をとって、ボクについておいで」

 まずは、二人の出会ったあの森まで歩いてゆこう。手を繋ぎながら。それからどこにいくのかは、まだ決めていない。
 差し出したボクのてのひらに、迷いなくてのひらが乗せられた。それはふわりと柔らかくて熱のこもった、可愛らしい女の子の手のひらだった。


20130705

 

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