堅牢な鉄の檻だ。
 いくらヴァンパイアの力と言えど、びくりともしない。逃げ出そうと無駄にもがくだけ徒労に終わる。幾度となく閉じ込められてきたボクは、それを経験則として知っていた。だから目の前にストライプ模様のように規則正しく並ぶ冷たい鉄の棒を、ただ瞳に映して立っていた。
 檻の内と外で、まるで別次元の空間のような気がする。境界線に、分厚く冷たい氷がはられているんじゃないかというような、世界から切り離されてしまったような不可思議な感覚。
 何度も何度も地下牢にぶちこまれたのに、父親と呼ぶのにも反吐でるようなアイツに逆らうことを止められないボクは、学習能力がないのだろうか。助けなんか来ない。それも分かっていたし、別にもう、期待していたわけでもないんだ。

 んふふっ、と、あの人の艶めかしい笑い声が遠くから耳に忍び込んでくると、途端に胸がざわめく。心臓なんてないはずなのに、大きく脈打つ心臓の上を隙間なく蛆虫が埋めつくし、好き勝手に這いずり回っているような、そんな気持ち悪くて気持ちがいい、ざわざわした感覚。また、男を連れ込んだのかな。これで何度目だろう。ボクはあの人に愛されもせず愛される相手の可哀想な男たちが羨ましくて羨ましくて、あの人が誰かに抱かれている様を見せつけられるたび、汗や唾液が止まらない。
 それから愛を錯覚する可哀想なその男と、愛を受け取れない可哀想な自分とを重ね合わせて、涙が出そうなくらいの憎たらしさと恍惚とを受け取るんだ。

 やがてあの人が男に絡み付きながら、部屋の中に入ってきた。見つめあい微笑みあう二人の、絡み付くような笑い声が鼓膜を揺さぶる。また、見たこともない知らない男だった。彼女はアイツに見つからないように浮気をするには、地下牢に隠れて事を済ますのが一番いいのだと思っているのかもしれない。ボクは、ストライプ模様の壁の向こう側で繰り広げられる様を静かに見つめる。頭をじいんと熱くするこの感情は、興奮という名前なんだと少し前に自分で結論付けた。

 絡み合う雄と雌。まるっきり女と化した彼女が一瞬だけこちらを見て、“静かにしていい子で見ているのよ”と、細くて長い指をくちびるに押し当てて見せた。あの人の深くていやらしい色をした瞳が、ボクの翠を捉えている。この檻の外と中、完全に隔てられた空間の中、その瞬間の、あの真っ赤なエナメルで綺麗に彩られた指先だけはボクだけに向けられたものだった。
 ああ、そうだ。
 あの人を喜ばせるすべのないボクは、あの人に都合にいい、いい子でいる事にしか存在意義がない。ボクはこうして、いい子で見つめているのが、大好きなんだ。にやりとくちびるを歪める。嘘みたな美しさの赤い指先が、ほの暗い牢を照らすランプを反射して、つやつやと煌めいていた。
 その指先はすぐに男の首筋を撫で上げ始め、ボクだけのものではなくなってしまったけれど、それにだって興奮を覚えるボクは、くちびるを歪めたままごくりと喉を鳴らした。
 それから、ボクは少しだけボクの檻に閉じ込めているミケの事を考える。ミケの檻はこれとは違い、鍵がかけられている訳じゃなければ鉄に囲まれてもいない。
「逃げようと思えば逃げられるのに、ミケは逃げようとは思わないの?」
 いつかそう問い質したとき、ミケの貧相な薄いくちびるは、どんな言葉を紡ぎだしたんだっけ。あの人のぷっくりと艶やかなくちびるからこぼれ落ち始めた嬌声が、下らない思考を掻き消した。











「逃げようと思えば逃げられるのに、ミケは逃げようとは思わないの?」

 死神さんの綺麗な形をしたくちびるは、いつでもくいっと口角がつり上がっている。死神さん――ライトくんのくちびるから、いつかそんな質問が飛び出したことがあった。わたしは何でそんな事を聞くのだろうと、その質問の意図がまったく読めないままくびを傾げていた。

 ライトくんはひとりぼっちのわたしの光みたいな存在だった。
 暗くて怖くて押し潰されそうなあの森の中で、差し出されたライトくんのてのひらはとても綺麗で、明かりひとつ差し込まない森の中でお月さまを砕いた粉を振り掛けたようにきらきらと輝いて見えて、どこまでも美しくわたしの網膜を焼ききるくらいだった。迷いなんかしなかった。あのてのひらを取れば、わたしは幸せになれるんだって、わたしはひとりぼっちじゃなくなるんだって、直感めいたものでそう感じ取った。
 あの時のライトくんのてのひらの、すらりとした指の長さとか、色だとか、温度だとか、どんな表情を浮かべていたのかとか、やっぱりあの時もライトくんの口角はくいっとつり上がっていたなあとか、意識は朦朧としていた筈なのに、今でも鮮明に思い出せる。
 ライトくんはあの森からわたしを救いだしてくれて、ライトくんはわたしに住むところと食べ物を分け与えてくれて、ライトくんはわたしを綺麗にしてくれて、ライトくんはわたしにミケという名前をくれた。
 やっぱりあのてのひらを取ったから、わたしは幸せになれたんだ、ひとりぼっちじゃなくなったんだ、と思った。

「大好きな飼い主から逃げるペットはいないよ」
「んふ、ミケはペットよりも家畜に近いんだけどね。今もまだ、怖いとは思わない?」

 ライトくんがわたしを食べたいというのなら、それはきっと正しいことだ。わたしにはもう飼い主であるライトくんしかいなくて、わたしのすべての行動の指針がライトくんだから。ライトくんの好みの女の子になるのが、わたしの使命。それだけがわたしの、存在意義。ライトくんが喜ぶことを、少しでも出来るようになりたい。
 食べられるのは痛いのかな、って想像すると少しだけ怖いけれど、以前あの森で感じたように、未知の黒々とした世界にどろりと片足から引きずられてゆくような、そんな恐怖はもう感じない。わたしの魂はきっと、食べられる事によって死神さんと永遠に一緒にいられるのだ。わたしはひとりぼっちじゃない。それはわたしみたいな人間には身に余る幸福なんだと思う。そう思ったらライトくんがわたしを食べてくれるその日が待ち遠しくすらなっていた。

 それに見あうよう、やっぱりわたしはライトくんが「好み」って言ってくれるような可愛らしい女の子にならなくちゃいけない。

「ライトくんの質問の意味が分からない」

 そう返答したらライトくんのくちびるは、いつも以上につりあがって、まるで三日月みたいな形をしていたな、なんて事を思い出したらくすくすと笑いが零れてきた。近ごろ面白いことがあると、自然と笑いがこみ上げてくるようになった。
 いけないいけない、手を止めちゃ。ライトくんが帰ってくる前に、小屋を少しでも綺麗にしておかなきゃいけないんだから。
 にやついた顔を何とか窘めて、再びごしごしと床を拭く。年季の入った小屋の床は黒ずんでいて、軽く撫でただけじゃ汚れは落ちそうに無かった。それが終わったら立て付けの悪いあの扉が壊れかけていたから、新しい板をはって釘を打ち付けようかな。

 そんな事をしながら毎晩たしは、ライトくんがやってくるのを待っている。
 近ごろではライトくんは毎日この小屋に訪れるわけじゃなく、三日に一回だとか、そんな曖昧な頻度でやってくるようになっていた。今日でちょうどライトくんの顔を見なくなって三日目。もうすぐ、ライトくんがやってくるかもしれない。ライトくんが現れるのは決まって月と星とが空でいきいきと輝いているような時間だった。

 ライトくんは人間じゃないからきっと活動時間が夜なんだろうなって、わたしは考えた。ライトくんは本当は死神さんじゃないんじゃないかなって最近では思う事がある。ライトくんが人間ではない何かなことは確かだけれど、ライトくんは大きな鎌を手にしているところや黒いローブ姿でいるところなんか一度だって見たことがない。わたし以外の魂を管理しているところも見たことがないけれど、それはわたしが見たことがないだけで、実際のところは分からない。だからこれは、わたしのただの予想なのだけれど。
 それでもライトくんのわたしの魂を食べるって言葉は本当みたいだし、別にライトくんが死神さんでも、そうじゃなくても、わたしにはどちらだっていい。わたしには彼が何者かよりも、彼がライトくんだって事の方が重要に思えた。あの翠の瞳も、つりあがった口角も、ひょこんと跳ねた髪の毛も、ライトくんという名前も、全てがライトくんがライトくんで、わたしの大切な飼い主である証なのだから。

 もうすぐ、夜も更ける。

 彼が姿を表すのは今か今かと、お掃除をしながらそわそわと扉の方ばかりを伺っている。最近では食料と共にわたしが暮らしていけるだけのお金を持ってきてくれるようになったので、わたしは近くの少し大きな街で買い物をして、ライトくんのいない間の生活を成立させている。このまま全部をライトくんに任せているのはいいことには思えなくて、今度その街のパン屋さんで働かせてもらえないかと交渉をするつもりだ。そのことを報告したら、ライトくんはどんな反応をするだろう。いい子だねって頭を撫でてくれるかな。それとも余計な事はするなって怒るだろうか。はたまた、興味がないような生返事が帰ってくるのか。ライトくんの言うように、決めようと思う。




 床がぴかぴかに磨き上がる頃に、ぼろぼろの扉が押し開かれる音が聞こえた。キィとネズミが鳴いたみたいな音だった。そちらのほうを振り向けば、ライトくんが立っていた。この小屋に寄り付くひとなんて、彼以外にはありえない。
 この狭い小屋の中、ライトくんの瞳はすぐさまわたしの姿を見つけ出す。いつもは楽しいことばかりを見つめているような、それでいて何かを諦めているような、そんな瞳なのに、今日のライトくんは少しだけおかしかった。ぎらぎらとした森にすむ獣のような鋭い眼光と、つり上がっていない口角と。

 雑巾を放り出してすぐさまご主人様のお帰りをお迎えする犬のように、彼の元へと駆けようとしていたわたしは、拭いされない違和感に立ち止まる。

「ライト、くん?」

 何かがおかしい。ライトくんが、まるで、ライトくんじゃないみたいだ。わたしはライトくんがあんなふうに感情を表に出しているところを、長いこと一緒にいて初めてみた。彼の顔をおおう笑顔の仮面が引き剥がされて、心の中がさらけ出されているみたいだった。何が彼をそうさせたのか、この小屋の外の彼のことなんか何一つ知らないわたしには、何も分からない。


「ライトくん、なにか、いつもと違うよ?」
「ちがう?」
「うん」
「んふ、いいことがあったからね。今日のボクは機嫌がいいから、そう見えるのかもしれないね。……ミケ」

 いつものからかっているような口調とは違う、ひんやりと底冷えするような口調で呼ばれる。ミケ、わたしの名前。ライトくんがくれた名前。
 そのまま、ライトくんは身体を扉の中に滑り込ませると、扉を閉じる。パタン、密室と化した狭い室内に響き渡るおと。ぎしぎしと古い床を踏みしめながら、ライトくんが近づいてくる。豆電球に照らされた彼の表情は固く、ぎこちない、普通の子供みたいな表情だった。機嫌がいいときのライトくんと違って見えるのは、わたしがおかしいのだろうか。


「――ボクのいないあいだ、ちゃんといい子にして待っていた?」
「うん」
「そう、ミケはいい子だね」


 ライトくんのわたしより少しだけ大きな体が覆い被さるように、わたしにしがみついてくる。ライトくんの胸に埋もれてわたしの視界は真っ暗になった。背中に腕を回されて、骨が軋むくらいにぎゅうっと抱き締められる。
 今日のライトくんは、やっぱりおかしい。たまに、ライトくんがおかしかったり、機嫌がよかったり、逆に機嫌が悪かったりするときもある。けれど、今日はそれらとは全く違う。ライトくんが、まるで傷ついた小さな子供みたいに見える。
 わたしは動かしづらい腕をそっと動かして、ライトくんの背中に回してみた。男の子に抱き締められた時はこうするんだって、以前ライトくんが教えてくれたから。

 鼻先に押し当てられたライトくんの肌からはいい香りがする。普段のライトくんから香ってくるそれとは違う、薔薇みたいな香り。まえ、ライトくんがわたしにくれた香水と同じ香り。特別な日の香り。ライトくんが様子がおかしい日はきまってライトくんの身体からその香りがするんだと、わたしは知っていた。この香水の香りはライトくんを狂わせる何かがあって、だからライトくんはわたしにあの香水をプレゼントしてくれたんだって思った。

 腕の中の体の重みがます。そのままわたしは後ろに押し倒され、床に転がった。ぎしりと古い床がなる。覆い被さったままのライトくんがわたしのお腹に乗り上げて、じっとわたしを見下ろした。薄暗い室内で逆光になったその表情は、暗くてよく分からない。


「今日はミケに新しい事を教えてあげようと思うんだ」
「新しい事?」
「そう、ミケがボクの好みの女の子になるために重要な事だよ。これからはボクのこと、たくさん喜ばせてくれるよね?」


 こくんこくんと頷いた。
 んふ、笑ったライトくんの真っ暗な顔が降りてきて、柔らかくくちびるが合わさる。キスをするのは二回目だ。こんなふうに柔らかくて、それから生暖かいへんな感覚がするんだって、わたしは知らなかった。ぎゅっと瞳を閉じる。それから、ライトくんのくちびるが移動して、耳たぶに吸い付かれる。ぞくっとしたへんな感覚に、びくりと肩が跳ねた。
 何が起こっているのか、よく分からない。
 するりと腕を取られて、持ち上げられる。ライトくんが自分のシャツのボタンを上から三つ目まではずした。そのまま、ライトくんのはだけた胸にわたしの手のひらをおしつけるようにされる。
 にやり、ライトくんが笑うのが、光の加減で一瞬だけ見えた。熱っぽいような、蕩けるような瞳でわたしを見下ろしている。どこか別のだれかを見ているような、虚ろな瞳。楽しそうなのに、誰かにそうさせられているような瞳。驚いて、わたしの喉からひくっ、と変な声が漏れた。


「んふ、いい顔で驚くんだねミケは。キミの瞳はもう、真っ暗な穴なんかじゃないみたいだ。ボクの事も気持ちよくさせてよ」


 ライトくんの導きに従って、わたしはてのひらでライトくんの胸元を更にさわさわと触ってみる。すべすべしていて、何だかずっと触っていたいような気分になった。わたしが触るたび、ライトくんはくすぐったそうに身を捩り、笑い声をあげる。その度にわたしの心臓がどきどきいっていた。
 それからライトくんはわたしの着ている、ライトくんがわたしに与えてくれたぶかぶかのシャツに手をかけて、びりびりと破きはじめた。外気にさらされた胸元がすーすーする。これから何が始まるんだろう。首をことりと傾げてみたらライトくんが笑って、熱い息のまま、胸元にキスをしてきた。
 ふわりと香ってくるあの香水の香りは意識しなければ感じないほどの僅かな香りなのに、ライトくんがわたしに触れるたび、わたしがライトくんに触れるたび、どこまでもどこまでも主張してきた。











「ねえライト、身体が熱いのよ」

 男と絡み付いていたあの人が、そいつと口喧嘩を始めたのはついさっきだ。男は彼女をひとしきり馬鹿にする台詞をはいた後、地下牢を飛び出した。可哀想なあの男はただの馬鹿な男だった。顔は覚えていたし次あったら八つ裂きにしてやる予定だけれど、ボクがやるまでもなくカナトくんあたりに今ごろ人形にされているかもしれない。
 あの人は慰めてくれる相手が居なくなりもて余した身体の熱の処理を、ボクに託した。
 初めて触れる身体に、ボクは今までにないってくらいに興奮していた。肌の滑らかさとか柔らかさとか、ずっと見ていて重ね合わせていただけのものとは全然違う。漸くになってボクにも、少しだけ、彼女を楽しませるすべを与えられたというわけだ。じいんと芯から熱いどろどろとしたものが沸き上がってくる。近づいた肌からは沸き立つように香ってくる、香水の香りは、何処までもボクを追いかけて狂わせる。

 ああ、こんな楽しいこと、ミケにも早速教えてあげなくちゃね。明日の晩ミケに会いにゆこう。そんな事を考えながら、ボクは静かに、確かに、罪を重ねていった。


20130703

   

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