「ちょっと行ってくるけど、名前はここで大人しくしてろよ」


 もしかしたら、私の火傷は私が想像するのよりも酷いものではなかったのだろうか。それか、この手にあった火傷みたいに、知らないうちに綺麗さっぱり治癒していたのだろうか。再びアヤトくんの背中が遠ざかっていっても、先程までアヤトくんの顔が存在していた方を見上げていた。アヤトくんの消えたそこでは空に浮かんだ満月が、私を見下ろしている。アヤトくんの私を見つめた時の瞳がこびりついて離れない。ざわざわと、胸が痛い。考えすぎて脳みそが溶けてしまいそう。
 私は、化け物なんかじゃなかったのだろうか。私は、私は、――。

 その時、とん、と足元に何かがぶつかった。ずっと何もない場所から目が離せなくなっていた私はそれではっとして、呪縛から解かれたようにやっとで身体が動かせるようになった。足元を覗いてみたら、オレンジが一つ転がっていた。先程まではなにも落ちては居なかったのだから、何処かから転がってきて、私の足にぶつかって止まったのだろう。反射的に立ち上がり、オレンジを拾い上げる。ざらりとした皮の感触が指先に伝わる。



「あ、すみません拾っていただいて。そのオレンジ、私が落としたものです」

 直ぐに前の人混みの方から声が飛んできて、女性ものの高いヒールを履いた足が視界に入り込んできた。一瞬、このまま顔をあげていいのかと逡巡する。頭を過るのはアヤトくんが私を見つめる時の視線だ。彼の言うことはいつだって私にとっての正解だった。だったら、あの、アヤトくんの私を見たときの瞳は。
 精一杯にこりと笑顔を形作って、人のよい普通の人間にみえるよう、落ち着いて顔をあげる。

「はい、どうぞ」

 オレンジを差し出す。
 瞳に写した見知らぬ女性は脇に抱えた買い物袋に沢山の食料品を詰め込んでいた。オレンジに手を伸ばしかけた彼女は、その体制のまま私の顔を見て、金縛りにでもあったかのように硬直し、動かなくなった。分厚い化粧が施された顔をみるみるうちに覆い尽くす恐怖に、私の足元からも同じ感情が這うように上がってきた。硬直した彼女のくちびるが痙攣したようにぴくぴく動いて、ひゅっとすきま風みたいな音にならない音が喉から漏れている。私はそれを、絶望とも諦めともつかない気持ちで、眺めている。


「おい、早くいくぞ。なにして――」

 口の開閉を繰り返す事しか出来ないからくり人形と化した女性の背後から、新たな男性がぬっと飛び出してきた。彼女の表情をみて、何かがおかしいと感づいた男は、首を傾げる。次いで、硬直した彼女の視線の先を確かめる。
 私がいた。
 耳をつんざくような悲鳴が、私の心臓を締め付ける。

「ば、化け物!」

 オレンジを投げつけられた。痛い。私の体でバウンドしたオレンジが地面に叩きつけられ、ぐちゃりと崩れる。
 男の錯乱し怯えきった瞳が、なによりも事実を物語っている。硬直した彼女の身体を引き摺って一目散に逃げていく、二人の後ろ姿。がくがくと自分の足が震えているという事に、漸く気がついた。
 怖い。
 汗ばむてのひらをゆっくりと開閉する。自分のからだが自分の物じゃじゃないような錯覚を覚える。本当にそうだったら、どれだけよかったか。それでも私が動けと頭で思えば、足はゆっくりと動き出す。
 嫌だ、怖い、見たくない。
 そう思う自分と、確かめなくちゃいけないと考える自分とが戦っている。足の動きはスローモーションをかけたみたいに緩慢だった。漸くたどりついた、洒落た服で着飾ったマネキンのディスプレイされたショーウィンドウ。どきどきと煩い胸を押さえながら、覗き混む。



 まるでこの世のものとは思えない、醜い顔をした化け物が、こちらを覗き返していた。




「い……っ、いやあああ」

 硝子に写りこむ化け物をやっつけるように、目の前のショーウィンドウに拳を叩きつける。覚醒しかけの私の力は想像以上の物を発揮した。派手な音を立て、マネキンと道路とを隔てていた分厚い硝子が、粉々になって砕け散る様が視界に写る。小さく散った硝子の一枚一枚全てに、こちらを覗き返す化け物の姿が写って、どこまでも、どこまでも私を見つめている。十人も二十人も連なるその姿に、ひゅっと喉から息が漏れでた。こんなにも恐ろしい光景を目にした事は、一度だってない。

 逃げるように顔をあげる。

 騒ぎを聞き付けた通行人の視線が、痛いほど注がれていた。その一つ一つが鋭利なナイフの切っ先となって、私の心に突き刺さる。ちかちかと光の煌めくまちに敷き詰められた好奇の視線。ざわざわと大きくなる囁き声。ぼたぼたと、硝子で切ったらしい拳からは血が流れ出ていた。痛みという痛みは感じない。代わりにひどく痛む心が、だらだらと血を垂れ流し赤にまみれていた。視線から逃れるように右を向けばそこからもナイフが飛んできて、悲鳴があがる。左を見ても視線、視線、視線。
「きもちがわるい」
「どうしたのかしらあのこ」
「恐ろしい」
「かわいそうね」
 そんな目で見ないで。同情も心配もいらない。みないで。
 ついに私は両手で顔をおおい、その場で踞ってしまった。怖い、ひとの視線が、こわい。このまま闇の中にいる方がまだましだ。涙が溢れる。やっぱり私は、化け物で、見るに耐えない醜い生き物だ。息がうまく吸えない。胸元の十字架を手繰り寄せ祈る。神様。



「――名前」

 真っ暗な瞼の裏の世界で描かれるのは神様の姿なんかじゃなく翡翠石のきらきらと輝く瞳で、脳裏に響くのは神様の救いの声なんかじゃなく、アヤトくんが私の名前を呼ぶ声だった。――アヤトくん、アヤトくん、アヤトくん。胸の奥に描き出した彼に駆け寄って、すがり付こうとした刹那、はたと思い当たり絶望を覚える。
 そうだ、彼もさっき、私のこの顔を瞳に写して――。もしかしたら彼は、私を捨てて何処かにいってしまったのかもしれない。正体を暴かれた化け物は、もう愛しいひとの隣には要られない。私は、一人だ。一人、ずっとずっとこの闇に囚われながら、呼吸を続けなければならない。もう前なんか見えなくてもいい。

「おい、名前」

 こんな世界もう見たくない。

「名前、おい、こっち向けって」

 ぐいっと肩をひっぱられて、顔を持ち上げられる。再び光をうつしこんだ視界には、アヤトくんの顔が映っていた。それだけで締め付けられて今にも潰れてしまいそうな私の心臓が、すうっと軽くなる。辺りを覆う知らない目玉たちとは少しも似つかない、不快感も哀れみも恐怖も、ちっとも感じさせない、いつものアヤトくんの顔。唯一の宝石のような瞳。むしろ少しだけ、機嫌がいいときのものに見える。そんな顔で見られたらまた、勘違いをしてしまう。私は、まともなんだって。私は、人間なんだって。


「うわ、血塗れだなオマエ。手からすげぇ血が溢れ出てるし、それが顔についてるぜ。何やってんだよ」
「い、いや、見ないで」

 慌てて顔を反らそうにもアヤトくんの両のてのひらに頬を包まれて、無理矢理前を向かされた。しゃがみこむ私にあわせて屈んだアヤトくんの顔がすぐ近くで、私を溶かすように見つめる。また呼吸が苦しくなってきた。

「あーあ、もったいねぇ」

 どうしてアヤトくんはそんな熱っぽい顔で、こちらを見つめるの? 涙でぐにゃりと視界が歪む。アヤトくんの背負った街の明かりがぐちゃりと傾いて、幻想的な世界を映し出す。


「……どうして、」


 どうして、戻ってきてくれたの。どうして、そんな瞳で、私を見つめるの。どうして――。ぎゅっと十字架を握りしめる。怖い、このひとに嫌われる事がなによりも。このひとに嫌われるくらいなら、この世界から消えた方がまし。ぼろぼろと溢れてきた涙が、素肌の頬を濡らす。


「……ったく、そろそろ思い出せよな」

 チッと舌打ちをして、アヤトくんは私をそっと抱き締めた。そして耳元に淡い息を吹き込むように、その言葉を吐き出す。


「――たとえどんな姿になっても、目を反らさない。オレだけがオマエを愛してやるよ、ずうっとな」


 あまあい果実を前にしたように恍惚としていて、溶けかけのアイスクリームのようにとろけていて、それでいて毒を含んでいる。白雪姫が口にした毒りんごのような声が、耳元から脳味噌に忍び込み、殴られたかのような衝撃が走った。頭の中をぐるぐると駆け巡る様々な情景は、夢で見たどの泡の中のどのシーンよりも鮮明で、どんどんと視界が開けてゆく。アヤトくんの言葉はいつも正しくて、アヤトくんの言葉はいつも私を試していて、アヤトくんの言葉はいつだって私の全てだった。翡翠石の瞳で、長い睫毛で、綺麗な指先で、あかい唇で、尖った牙で、全てで私を魅了する。アヤトくんは私の全て。
 頬を滑るアヤトくんの指先が、なによりも大切。


「オレにはさ、今の名前が誰よりも可愛く見えるぜ。この血も、オマエ自身も、全部な」


 そうか、わたしは、アヤトくんにこの言葉を、


「愛してる」


 アヤトくんの全てを包み込むような甘あい声に、胸がうち震える。全身にざわざわとめぐってゆくこの感情は喜びだとかそんなありきたりな言葉じゃ言い表せない。アヤトくんが好き、愛しい。それが私の全てだった。思い出した、全て、全てだ。
 震えはもう、収まっていた。かわりに涙が溢れてくる。先程までの絶望と恐怖を詰め込んだ涙とはちがう、塩と水と喜びの味がする涙。それをアヤトくんの舌が舐めとる。オレンジジュースも、血も、涙も、全てを舐めとるように、愛でるように何度も何度も舌先のざらりとした感触が顔を這う。もう周囲に広がる知らない人たちの好奇の目玉なんて視界にすら入らなかった。アヤトくんの顔がすぐそこに存在していて、私を蕩けそうな瞳で見つめていて、愛してくれた。私もアヤトくんを見つめ返す。もうアヤトくんの視線から逃げて顔を覆おうなんて気にはならなかった。こうしていれば、私から目を反らさずに見つめてくれるのは、アヤトくんだけ。私の世界にはもう、アヤトくんしかいない。普段通りに余裕を湛えた愛しいくちびるが落ちてくるのをそっと受け入れ、瞳を閉じる。

 神様はいたずらなんか好きじゃなかった。奇跡もなければ苦難も授けない。いつだって人間は自ら取捨選択し、今その場所に立っている。少なくとも私が今アヤトくんの腕に、幸せに、すっぽりと包まれているのは、私の選んだしあわせ。握りしめた十字架を地面に投げ捨てた。神様なんかこの世にはいない。


 そうして私は幸せな化け物になった。



20130525

 

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -