「ライト、あなた最近なんだか人間みたいなにおいがするわ」



 艶のある瞳の中に幼いボクの顔が閉じ込められているのを、吸い込まれるような気持ちで見つめていた。今となってそれは、普通の親子関係にある奴らと比べてみれば、随分と機会が少なかった事のようにも思える。なのに彼女の瞳の色は今でも胸の奥にこびりついていて、どんなに艶やかだったのか、どんなに焼けつくようだったのか、どんなに冷淡だったのか、鮮明に思い出せるのだ。
 そんな彼女の瞳が不愉快そうに細められてゆくのを見て、しまったなぁとボクは考えていた。
 あの子を拾ってしばらく。あれから毎日餌を与えにあの小屋に通っている。確かに最初は酷いにおいだったけど、近くの泉で定期的に身体を洗ってあげるようにしたらどぶ水みたいな匂いはしなくなったから、人間自体のにおいなんてものすっかり失念していた。そういえばボクらの嗅覚はかなり鋭いんだったっけ。何か対策を講じなければならないな、と思いつつ、この場の言い訳なんて何とでもなるんだろう事を少しだけ残念に思っている自分もいる。この人はボクになんか興味はない。むしろボクの僅かな人間の残り香なんてものに気づいてくれた事に驚愕だ。

「まあ、何でもいいけど、カールみたいに下らない人間遊びをするのだけはやめときなさいよ」

 ほらね、彼女はすぐに興味をなくしたようにボクに背を向けて行ってしまった。












「ミケにプレゼントがあるんだ」

 言葉を吐き出すために空気を吸い込んだら、一瞬むせ返りそうになった。一応掃除はしているんだけれど、年季の入ったこの小屋の中は埃っぽくて酷くかび臭い。そんな環境下でもあいかわらずミケは表情ひとつ浮かべずに、うす暗い室内で座り込んでいる。

「プレゼント?」
「ほおら、受け取って」

 やっぱり幼くても女は女だったって事かな。ミケは渡された瓶を不思議そうに見つめ、豆電球の仄かな明かりの元それの正体を突き止めたあとは、表情の少ない顔に喜びを露呈さた。ありがとうライトくん、少し弾んだ声。こうやって贈り物をされて喜ぶ様子は一人前の女の子といったトコロ。

「ライトくん……これ、香水?」
「うん、そうだよ。薔薇のいい香りがするんだ」

 彼女の両手に収まるデザイン性に優れた瓶には、紫色の液体が半ばほどまで満たされている。香水を譲ってほしいって頼んだらあの人は「おかしな子ね」と不思議そうな顔をした。だけどちょうどタイミングがよかったらしく、「この前新しいものを買ったからいいわ」って譲ってくれた。ミケは誰かのお下がりを贈られたとも知らず、貧相な胸に大切に瓶を抱えてなんとも言えない顔をする。本人は笑っているつもりなんだろうけど、まだどこかひきつったようにぎこちない。でももの凄く喜んでいるって事は伝わる、そんな“かわいい”表情だ。


「ほら、こっちにおいで。ボクがつけてあげるから」

 素直に駆け寄ってくる姿は、猫のミケというよりは忠犬みたいだった。ミケが本当に犬だったのならしっぽを全力で振り回している姿まで思い浮かぶ。
 彼女はボクのいないあいだこの狭い小屋の隅っこで正座をして、石像のように動かないでいるらしい。ボクがここに訪れる毎、いつも同じ場所で同じポーズをしている。ボクにはなついてきたらしく、ボクが小屋の立て付けの悪い扉をあけると、こちらに一目散に駆けてくるようになった。その姿もまさしく犬のよう。ミケじゃなくて犬の名前をつけてやったほうがよっぽど似合っていたんじゃないかなって最近では思う。

「いくよ、目は瞑っておいてね」

 シュッと彼女の首の辺りに香水を吹き付けた。軽くひとふきだけで十分だ、それ以上はにおいが強すぎて逆に鼻が曲がってしまう。霧となって飛び出したにおいの元が、部屋中にふわっと広がって、かび臭いにおいまでもがあの人のにおいに変化する。香水なんてものとは無縁で過ごしてきたであろうミケは、少し背伸びした女の子の表情でボクの手中の紫色を眺める。

「どお、いいにおいでしょう?」
「うん、すごく」
「んふ、気に入ってくれた?」
「……ライトくんは、このにおい、好み?」

 純粋な真っ黒の瞳に写っているのはボクだけで、悪いことをしているみたいな気分だった。ボクは彼女の骨に皮が貼り付いているみたいな肩を抱き締めて、首筋に顔を埋める。腕の中の頼りなくて骨ばった感触。それを補ってあまりあるほどの、いいかおり。目をつむれば紫色の一輪の孤高の薔薇が美しく咲き誇っているような光景が、目蓋の裏にうつる。においっていうのは不思議なものだね。嗅覚に劣る人間ですらそうなのだから、鋭い嗅覚をもったボクらにとってはもっと印象深い。それを嗅いだときの体験と結び付いて記憶されているから、同じにおいを嗅ぐだけで思い出す。こうして瞼で目の前に蓋をして見る世界では、ボクは完全にあの人の事を抱き締めている。あの人の香りが鼻腔をくすぐり、ボクの脳みそをざわめかせる。


「……とても、好みだよ」
「よかった、だったら、わたしも、とても好み」
「じゃあすこしづつ――三日おきくらいでいいから、ボクのためにつけてくれる?」
「うん」
「ミケは素直ないい子だね。その中身が空になる頃には、きっとミケもボクの好みの子になってるんじゃないかな」

 腕の中の女の子が笑ったような気配がする。
 これで無事におい問題も解決だ。


 ミケはボクに恩義を感じているようで、ボクに概ね従順だった。ボクが好みの女の子を育てるといったら、その通りになるように行動をし始めた。それは多分この子なりの処世術だったんだろうけれど、それでも、ボクもミケも、その頃はまだ、幼さゆえの倒錯を胸に抱いていたんだ。


20130601

   

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