「けっきょくオマエはさ、オレの事が好きなんじゃなくて、この牙で貫かれる快感に縛り付けられているだけなんだよ」



 頭の片隅にぶら下がってゆらゆらと揺れている声が、何度も何度も頭蓋骨を打ち付ける。私は瞼を持ち上げるエネルギーをさくのすら億劫で、ずっと、手元で鋭利にきらめく包丁を眺めていた。
 うなじの辺りをもう一方の指先でゆっくりと辿る。ぽこり、ぽこり。幾つかの虫刺されよりか若干大きな盛り上がりが指先の神経が感じとる。もしもこれが全てアヤトくんのものであったなら、彼のくちびるはこんなふうに私を突き放す言葉を吐き出さなかっただろうか。彼の翡翠石の瞳に愛しさを忍ばせる事が出来たんだろうか。ひとよりも美味しい血を持って生まれてしまった事を呪いたい気分だった。けれどこの血が無ければ結局、彼は私の事なんか、見向きもしなかったのだから、皮肉なものだ。私はこの決められた大きな流れに逆らえなくて、波にさらわれるみたいにただ弄ばれるだけ。その中で私が一つ明確な意思として持ち得たのは、彼への愛だけだった。それすらも否定されたのなら、私は、もう私ではなく、建物の影にだらしなくぶら下がったただの虫の脱け殻に等しい。

 ――けっきょくアヤトくんは、私のこの血を永遠に手にしていたいだけなんでしょう?

 今にも外へ飛び出してしまいそうな言葉を縫い付けておくのは存外苦痛で、まな板に叩きつける包丁の切っ先はぶるぶる震えていた。大きめに切り分ける筈だった魚の切り身は、狂った手元でみるみるうちにミンチになってゆく。私も魚だったらよかった。深海を泳ぐ魚だったら。心地よい水の中でただ鰭を動かしているだけの。そうしたらこんなにも悩む事なんかなかったのに。
 彼のひと一倍強い独占欲と、私のちっぽけで滑稽な自己愛精神は、どこまで足を進めてみても交わる場所なんかない。ほんの少しだけ行き先を傾ければ遠回りしてもいつかは混ざりあうのに、私たちはいつでも平行線上で手足をばたつかせている。

「ねえ、アヤトくん。どうしたらアヤトくんは私の事を、信じてくれる?」

 それでも私が彼の愛を欲するのは愛があればこそで、私はやっぱりアヤトくんの事が好きなんだ。ぽつりと呟くように吐き出した声。斜め後ろで沈黙し、ずっと眺めていたアヤトくんが1歩進み出て、私たちはコンロの前で横並びになって向かい合った。このキッチンできこえる音と言えばゆいいつ、こおぉと小さな炎の揺らめく音。コンロにかけられた寸胴の鍋には八分目くらいまで水が満たされていて、煮え立つ寸前だった。まるでいまの私の気分とよくにている。

「アヤトくんが、好き」

 陳腐な愛の告白。
 私の好きなひとは、表情一つ崩さずこちらを眺めてる。たとえばこのうなじに広がる噛み痕が全てアヤトくんのもので、私の全てがアヤトくんのものだったら、彼はそれで満足してくれるのだろうか。私はいつだって私の全てが彼のものになる事を許容して、況んや望んですらいるけれど、彼が同じとは限らない。
 彼が求めているのはこの血として、私はそれでも、彼が私に触れてくれるなら構わないと思ってる。それは彼の牙に貫かれる事だけを望んでいるという事ではなく、彼がアヤトくんだからだ。

「あなたの牙じゃなくて、アヤトくんが好き」
「好き、ねえ。口で言うことなら誰だってできるけどな」
「アヤトくんに信じてもらえるなら、私はなんだってする」
「ふうん。なにをしてくれんのか、楽しみじゃねーか」

 ほうれんそうをひと束、洗ってザルにあげた。今日のメニューは、ホウレン草と赤味の魚を使ったいためもの。ありふれた日常の一コマですら、鉄分だとかなんだとか、常に頭の片隅では考えている。アヤトくんの餌としてしか行動できない自分は頭がおかしいのだと思う。もうアヤトくん無しでは生きていられない。わたしが雛鳥で、アヤトくんは親鳥。庇護がなければ息さえしていられない。
 鍋の水は直ぐに火に炙られて、ぷくりぷくりと鍋の底から小粒の泡が沸き立ってくる。せわしなく浮かんでは消える泡は儚くて、なんだか呼吸が苦しくなった。

「私にひとつ、考えがあるの」

 顔を付き合わせる。翡翠石の瞳に射ぬかれ、喉の奥がからからに干上がってゆくような感覚がした。陽光に焼かれたヴァンパイアは、こんな感覚を覚えるのかもしれない。喉がからからで、痛いくらいだった。赤い前髪が薄くかかったそれは、魅惑的なコントラストで私を捉えて離さない。鍋の中でついにごぽごぽと音をたて煮え立ち始めた水のように、私の中の何かも熱を持ち始めていて、くちびるが勝手に開いてゆくのを自分の意思では止められなかった。

「考えって?」
「でもこれをすると、私はアヤトくんから嫌われてしまうかもしれない。それだけは嫌だな」
「ああ、なんだよそれ。いいからいってみろって」

 乾きを癒す慰めに、ごくりと唾を飲み込んでから、再び上唇と下唇を引き剥がす。ごぼりごぼりと鍋の湯はついに沸騰して、地獄の釜が煮え立つような音が煩いくらいにキッチンに響いた。あの泡のように、勢いよく言葉が飛び出してきて、止まらなくなった。

「私が醜い化け物になればいい。そうしたら誰も私を見ようとすらしなくなる」
「化け物? オマエはもう半分は闇の住人だと思うけどな」
「違うの、たとえばもし、このお鍋のお湯」

 そっと両手鍋の片方の取っ手に手を添える。黒色をしたそれはたっぷりと熱を蓄えていて、ちりっとした痛みがいかに高温なのかを伝えていた。

「これを頭からかぶったら? 私の顔はきっと焼けただれてぐちゃぐちゃで、見るに堪えられない、まさに“バケモノ”に成り果てる。そうしたら私には誰も近づかない。私がゾンビよりもおぞましい見てくれをしていたら、いくらヴァンパイアでも血を吸おうなんて気力すら沸いてこないでしょう」
「で、オマエはオレの為に、その鍋を頭にかぶってくれんの?」
「それで証明になるのなら、そうするのもいとわない。でも、ひとつだけ、問題があるの」
「なんだ、怖じ気づいたのか?」
「ある意味では。私が化け物になったら、アヤトくんも私の事を――それだけは絶対に嫌だなって」

 伏せた瞳に写る床に落とされた私の影が、どこまでも黒い色をしていた。いま私のお腹を切り裂いたら、同じ色のどろどろとした物体が、勢いよく飛び出してくるんじゃないだろうか。たとえ覚醒しかけていても、私は愚鈍とすら言える人の性を脱ぎ捨てる事が出来ないらしい。やっぱりまだ、愛しいひとの愛を諦めきれず、浅ましい台詞が口をついてでる。ああ、なんてせこい言い方をしてしまったんだろう。自己嫌悪に勝る嫌な感情はない。
 彼はきっと私の浅ましさになんか気づいていたのだろうけれど、頭上から降ってきたアヤトくんの笑い声は、じつに愉快そうだった。

「クク、いいぜ、おもしれぇ。もしオマエがオレの為にその鍋の湯を頭からかぶるっていうのなら、オレはオマエの言う『愛』ってヤツを信じてやるよ。ついでに、オマエの欲する『愛』を思う存分くれてやる」


 弾かれるように顔をあげる。アヤトくんはコンロから鍋を持ち上げて、こちらへと押し付けていた。どくどくと鼓動がうるさい。彼のくちびるから吐き出される麻薬のような言葉の数々が私の身体を犯して、だらしなく上下する肩を諌める事は叶わなかった。
 アヤトくんは意地悪だけど、いつだって可能性を与えてくれる。彼の独占欲は、愛情ではないけれど、強すぎる独占欲はともすれば愛情に成り代わるのではないだろうか。


「――たとえどんな姿になっても、目を反らさない。オレだけがオマエを愛してやるよ、ずうっとな」


 甘あい果実を前にした時のように恍惚としていて、溶けかけのアイスクリームのようにとろけてて、それでいて毒を含んでいる。まるで白雪姫が口にした毒りんごのような声だった。
 どうしても欲しかった物を目の前には差し出され、どうして我慢せずにいられようか。可能性に、みっともなく手を差忍ばして、なりふり構わず掴み取る私の姿は、どんな化け物よりも醜く写るのだろう。


「ああ、でも、中途半端なオマエがそんなことしたら下手すりゃ死んじまうかもな」

 やめておいたほうがいいんじゃねぇ? というアヤトくんの言葉が挑発にしかならないと、彼は分かっていて言ったのだ。死んだって構わない。何を失っても構わない。このまま生きてるよりかは。それが何よりの証明になるのだから。鍋をもとの位置へと戻そうとしたアヤトくんの手をつかんで、静止する。彼から鍋を奪い取るようにして、手にした。ずしりと水の重みがてのひらに伝わる。ちりりと痛いほど高温だった取っ手からは、興奮でアドレナリンがでているのか、温度らしい温度なんか感ぜられなかった。

 そうして私は、永遠に脱ぐことの出来ない化け物の仮面を、顔に張り付けたのだった。



20130525


   

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