ゆらゆらと漂う水のなか。ぷくぷくと大小様々な泡が生まれ、上に向かって吸い込まれるように消えゆくのを眺めていた。まるで重力が上に向かって働いているよう。泡は仄かに発光していて、暗澹とした海の中で幻想的な光景を見せている。
 泡のひとつひとつには様々な場面が写し出され、ショートフィルムをスクリーンに写し出しているかのように、中では色々なシーンが演ぜられている。どれも明朗とせず途切れたようなものばかりだけれど、どうやら気泡に押し込められ上へ上へと消えてゆくあれらは、私が生まれてから記憶を無くすまでに見た映像の断片らい。私はそれが目の届かない位置にまで上っていってしまう前に記憶に焼き付けようと、懸命になって目を凝らしている。
 ごぽり、ごぽり。
 派手な音をたて新たに生まれた、人の親指の爪ほどの大きさをした泡の中には、男がひとり写し出されている。あれは私の父だ。いくつもの泡を眺める過程でよく登場する、幼い少女の頭を撫でたり、あやしたりしていた存在の事を、なんとなく父だと認識していた。それが正解なのかは分からない。
 次に生まれた気泡は先程のものより一回り小さく、小指の爪程度。ここでも私は魚なので、それを小さいとは感じない。中では、私やアヤトくんと年の頃が同じにみえる男の子が二人、難しい顔やにやついた顔をしていた。どういうシーンなのかは分からないけれど、紫の髪のお人形みたいに可愛い男の子はぬいぐるみを抱き締め今にも泣きそうで、もうひとりの帽子をかぶった方はつばを片手で押さえたポーズを取っている。二人の登場人物から滲み出る雰囲気が、ほんの僅かだけだけれど、アヤトくんに似ている気がする。彼らのどちらかが、もしかしたらレイジというアヤトくんの兄弟かもしれないし、違うかもしれない。
 ごぽり。また新たな気泡が現れて、それもまたわたしの失われた記憶の欠片を内包している。気泡の大きさには強い意味があるようで、私が特に大切だ、印象的だ、と感じた記憶は大きな泡に閉じ込められて、再生されるシーンも他の者よりかは明朗としているらしい。大方の泡は人の爪で例えられるくらいに小さなものだけれど、中には人の拳大の物もある。大きい気泡の中には大抵、アヤトくんと私とが閉じ込められていた。
 私が夢から覚めるまで、生まれてくる泡の中の映像をただ眺めるその光景は、エンドレスに繰り返される。夢から覚めるときは昔と一緒。響くアヤトくんの声。海底から炎が燃え上がり、泡はぱちぱちとはぜ消えてゆく。私はまだ夢に浸っていたいとすがり付く。



「……っ」

 がんがんと頭蓋骨を直接槌で殴られているような頭痛に耐えながらアイアンメイデンから起き上がる。室内はしんと静まり返り、窓に引かれた分厚い遮光カーテンの隙間からは昼間の一番強い時分の太陽の光が漏れでている。ただでさえ重い頭に、耳障りな耳鳴りまでもが響くようだった。アヤトくんは隣で寝息も立てず死体のように眠っている。私も頭を擦りながらもう一度身体を横たえる。
 アヤトくんに吸血されてからこの方、こんな調子だった。アヤトくんはあれから何回か私から吸血したけれど、その度に脳味噌がちりちりとやけつくような、おかしな感じがした。アヤトくんの牙は私にとって何か大きな意味があるもので、牙にこじ開けられた肌の隙間から、隠れてしまった記憶がじわじわと少しずつ、少しずつ、溢れでているような心地だった。無くした物を取り戻す儀式には痛みという捧げ物が必要で、頭に情報量の多い記憶の渦を叩き込まれた後は、いつも頭痛に苛まれる。それでも、自分の記憶が帰ってくるのは、特にアヤトくんとの想い出をちゃんとこの手に取り戻せたのは、喜ばしい事だった。
 そうして私は夢を見るたび、空白だった心の中に、落書き程度の曖昧な記憶を蓄積させてゆく。目を醒ましてからはその日みた記憶を思いだし、整頓する。私にはその日見た記憶がいつのものなのかも判断がつけがたくて、それはあたかも、ノートにバラバラに書き付けられた落書きを切り出し、そして手がかりも無しに、拙すぎるそれが描かれた順番にきちんと並べてスクラップしてゆくような、困難を極める作業だった。
 再び目を瞑る。外にはまだ太陽がでている。起きるには早い時間だ。記憶を取り戻す作業に戻らなくてはならない。私はすっかり、夜の生き物と化していた。ごろりと寝返りをうって、すぐそばにあるアヤトくんの暖かみの無い気配を感じながら再び微睡みの中に身を投じる。





 ごぽり、ごぽり。魚になったわたしは泡の影をぬって泳ぎ、岩影の定位置に向かっていた。あの場所からが一番眺めがいいのだと、幾度となく夢を見ている私は知っていた。
 ――ぼこり!
 道中、今までに聞いたことの無いような、爆発音にも似た大きな音が背後から響いた。くるりと身体を旋回させて振り向けば、背後には見たこともないような巨大な泡が、ふわふわと浮いていた。人の爪の大きさではとうてい例えられる物ではなく、それは人の顔よりも大きな泡だった。魚になった私の体など優に飲み込んでしまいそうな大きさに威圧され、小さな心臓がどきんと鼓動を刻む。
 中では例のごとくアヤトくんが、にやりと片方の口角を吊り上げて、私のよく知る余裕たっぷりの笑みを浮かべてこちらを見ていた。吸い込まれるようにそれを見つめる。どきどきと心臓が煩いくて、水に振動が伝わってしまうんじゃないかと思った。暫く見つめてみたが写し出されたアヤトくんは余裕たっぷりの笑みのまま、動くことは無かった。どうやらそれは静止画のようで、息をすう僅かな肩の上下すらも無い。わたしは暫し考えてから、目の前で浮かぶ大きな、しかしどんどんと上にのぼって小さくなってゆく泡を、追い掛ける事を決意した。何故だかあの泡を逃してはいけない、直感めいたそんな思いが頭を占める。
 水の抵抗を全身に受けながら、必死に鰭を動かす。こうして浮かんでゆく泡を追い掛ける事は初めてだった。何故なら一度だけ記憶の泡に触れた事があるけれど、その瞬間泡はぱちん! と宇宙に浮かぶ惑星が弾けて消えたように、無くなってしまったからだ。記憶をひとつ、永遠に失ってしまったような、そんな恐怖感に身を押し潰されるようだった。それからは泡の沢山浮かぶ場所からは少し離れた岩の影で、ただ泡を見上げる事にした。
 途中でぶつかった他の小さな泡たちが、鱗に覆われた体にぶつかってぱちんと弾けて消えてゆく。記憶が、海の暗闇に溶けてゆくようだった。それでも私は恐怖感にも襲われなければ気にもならなかった。それくらい、今追いかけている物の方が大切に思えた。あと一センチで追い付くというところで一気に身体をくねらせる。勢いに乗った体はまるで吸い込まれるように、泡に突っ込んでいった。
 小さな私の体はするん、と、泡の中に入ってしまう。膜のようなものを身体が通過した感覚ののち、一瞬、目の前が真っ白になった。真っ暗な海からの真っ白な空間への切り替えに、頭がぐわんと軋む。目のおくがちかちかしてまともに前を見ていられない。









 次に瞳に映像が写し出された時、私の視界をおおい尽くしていたのはアヤトくんの顔だった。私はそれをわりと近い場所から見上げている。ちゃんと口から呼吸をしているし、両足で立っている。ここは海の中でもない。アヤトくんが、泡ごしに見つめたあの余裕の笑みをそのままに、目の前にいる。そして動き出して、私に話しかけていた。わたしは人間として、本来の姿でアヤトくんの前に立っていた。一瞬夢から覚めたのかと思ったけれど、どうも様子がおかしい。
 ここはキッチンのようで、私とアヤトくんは向かい合いになりコンロの脇に立っている。コンロには八分目ほどまで水の満たされた、寸胴の鍋。キッチンに来た記憶など、わたしには無い。水を満たした鍋を横目に見れば、銀色をした胴体が鏡のような役割を果たし、包帯の巻かれていない“私”の顔が写し出されていた。
 ここはどうやら、泡の中の、私の見た記憶の世界らしい。
「――――」
「――――」
 耳がなにか分厚い膜に覆われているかのように、アヤトくんの声はくぐもっていて、内容は少しも聞き取れなかった。それに反応して、私の口も開く。私の意思で開いたのではなく、体が勝手に動いたのだった。勝手に喋る“私”の声も、不明朗で言葉がぼやけている。手足の感覚はあるけれど身体は自分の物でないように上手く動かなくて、身体にもう一つの別の意志が入っているかのようだ。耳からきこえるものは判別出来ないほど遠い。五感の中で正常に機能し、なおかつ使えそうなものといったら、視覚くらいのもの。
 記憶の中の世界に入った私は、それを自らの身体であたかも現実のように体験しながらも、現実通り進んでゆく様子を傍観する事しかできないらしい。

「――!」
「――!」
 言葉は判別できなくとも二人の声の応酬はヒートアップしていって、語尾も強くなっていっている事はわかった。私とアヤトくんは、どうやら言い争いをしているようだと、目の前でこちらを見据えた鋭い眼光を眺めながら考える。
 二人の言い合いはすぐに一時休戦へと持ち込まれ、私はそのまま料理を始めてしまった。鍋を火にかけ、まな板で具材を刻み、洗った野菜をザルにあげる。随分と慣れた手つきのようだ。料理を続けながら、私たちはまた、二三言葉を交わす。私がアヤトくんを見つめて何かを言えば、彼はこんな愉快な事は無いとばかりに豪快に肩を上下させる。ぐらぐらと煮え立ち始めた鍋の湯が、彼の笑い声と共に遠くから聞こえてくる。それからだんだんと音が大きくなって、私の耳にかかった膜は逆に薄く薄くなってゆき、音が返ってくる。
 ぐらぐらと鍋の煮え立つ音がうるさい。それに重なる、アヤトくんの声は愉快そう。翡翠石の瞳はわらってる。ふいに鍋の取っ手に伸びていったアヤトくんの指先が綺麗だなぁ、と、わたしは考えていた。つり上がる目の前のひとのくちびる。持ち上げられた鍋の銀色が目の前に差し入れられ、アヤトくんの顔が見えなくなる。すぐ目とはなの先にあるそれからは強い熱気が伝わってきて、顔の皮膚がひりひりするような気がした。鍋の向こうから聞こえるアヤトくんの声。


「――たとえどんな姿になっても、目を反らさない。オレだけがオマエを愛してやるよ、ずうっとな」


 あの声だった。甘あい果実を前にした時のように恍惚としていて、溶けかけのアイスクリームのようにとろけてて、それでいて毒を含んでいる。まるで白雪姫が口にした毒りんごのような声。私の精神をじわじわと侵食してゆく例の言葉が、いま記憶の欠片のアヤトくんの口から発せられた。
 その声を聞いた瞬間に、頭の奥底でぱちんと何かが弾けるような音がした。唯一正常だった視覚までもが、目の前がちかちかしていて、まともではなくなる。痛い、頭や、からだや、顔面が。脳裏に映像が写し出される。私はずっと、鍋のそこを眺めていた。鍋から降り注ぐ熱湯が、じゅうじゅうと皮膚を焼いてゆく感覚は、言葉に表せない程の激痛で、目の奥のちかちかが酷くなる。心臓が痛いほどになっている。次々に降り注ぐ痛みの元に、耐えきれずに私は、叫び声をあげる。うわああ、あああ。まるで獣の声だったけれど、それでも焼けるような痛みは遠ざかってはくれない。逆に開いたくちから、口腔内へと熱が雪崩れ込んできて、舌や喉を焼いた。涙を流したいのにぐちゃぐちゃの顔ではなにがなんだか、理解も出来ない。ぶつん。意識が途切れても私は、叫んでいた。













 悲鳴に似た息を吐き出しながら目を覚ます。私は目の前のアヤトくんの体に、しがみついていた。アヤトくんが少し驚いた顔でしがみつく私の事を見下ろしている。しんとした空気が満ちる室内。少ししたらすぐに面白い物を見たというようににやりと笑って、私の顎を掴んで上を向かせた。

「なんだあ、こわい夢でもみたのか?」
「……あ」

 ぶるりと肩が震える。今度は本当に、夢から覚めたのだった。顔を覗きこんだアヤトくんは顎から指を滑らせて、今度は手の甲で頬を擽るような仕草をする。私はちゃんと泣けていた様で、顔面に巻かれた包帯は涙で湿っていた。指に絡まった涙をアヤトくんの赤い舌が舐めとった。

「……怖い、ゆめ?」

 どうだっただろう、あれはわたしにとって、怖い夢だったのだろうか。痛かった、苦しかった、でも怖い、とは少し違う。ずっと愚かな妄想だと思っていたものの現実への足掛かりを発見できた。むしろ喜ばしい夢だったような気もするけれど、だとすればこの涙は嬉し泣きなのだろうか。それも何か違うような気がするし、今の私には答えが見つけられない。
 目を瞑るだけで鮮明に思い起こされる、昔の私の顔と、今と変わらないアヤトくんの顔。
 「――たとえどんな姿になっても、目を反らさない。オレだけがオマエを愛してやるよ、ずうっとな」
 夢を見るたび聞こえる、あのアヤトくんの声。私が都合よく作り出したものだとばかり思っていたけれど、もしかしたら。もやもやした胸のわだかまりがすうっと溶けていくのを感じると同時に、他の場所からまたもやもやが生まれ落ちたような、そんな相反する感情がせめぎあっている。



「夢、というよりは、現実を見た気がする」
「へえ、どんな?」
「――ねえ、アヤトくん」

 少し首を傾げながらも、アヤトくんはやっぱり面白そうな顔でこちらを覗きこんでいる。その愉快そうな表情が、夢の中の彼と重なる。頬を撫でるその指先に、夢の中の彼の綺麗な指先が重なる。


「もしかしたら、私のこの火傷は、アヤトくんが作ったものなの?」

 私の問いかけに、アヤトくんは表情を崩すことも無ければ、答えをくれる事もなかった。面白そうな笑みにほんの僅かな挑戦的な色を含ませ、私に試すように、見つめている。
 ――自分で思い出してみせろよ。
 決して開かれないアヤトくんの赤いくちびるの隙間から、そんな言葉が聞こえて来るかのようだった。




20130515

   

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