神様なんてこの世界にははじめから存在しないのかもしれない。






 最初に目覚めてから二週間が経過する頃には、アイアンメイデンから抜け出してアヤトくんの部屋の中を歩き回れるまでになっていた。痛みももう殆ど感じない。夜になると起き上がって彼の部屋の中で掃除をしたり、彼が扉の向こうから運んでくる洗濯物を畳んだり、食事をしたりして過ごした。狭い部屋の中では直ぐにやる事も尽きて暇になったけれど、隣にアヤトくんが居さえすれば退屈だとは思わなかった。
 長時間起きていられるようになって判明したけれど、アヤトくんは四六時中部屋で過ごしている訳ではなく、よく扉の外に出掛けて用事を済ませてくる。生活に必要なものをもってきてくれたり、何をして居るのか分からない時もあるけれど、それを詮索する権利は私にはない。彼が部屋に居ないときは退屈をもて余したけれど、私も彼について扉の外にいこうなんて気には到底なれなかった。こうして自由に歩けているのだから体力的な問題は無いのだけれど、それは精神的な問題だった。








「……ふぅ」


 ドレッサーの前に立ち尽くし、鏡を見つめながら、ため息をつく。包帯をぐるぐる巻きにされた、ミイラ男ならぬミイラ女のような真っ白な自分の顔がただ写っている。記憶の無い私に、この包帯の向こうにある顔がどんなものだったのかは、分からない。けれどどんな状態なのか、想像は容易だ。前が見えるよう、息が吸えるよう、隙間を取られた目許や口許から少しだけ覗いている肌は人の肌とは思えないような色をしている。それは凡その痛みが消えた今でも、変わることはなかった。手足の包帯は外れて指の先まですっかり肌の色に戻っていたけれど、ダメージの大きい顔はそうもいかないようだった。ヴァンパイアの回復力をもってして全身の火傷痕、綺麗さっぱり消えてしまうのではないかと期待もしたが、今のところそんな気配はない。
 そっと顔の包帯にふれる。ちりりと僅かな痛み。暫くそのままの体勢を維持して勇気を奮い立たせようと試みる。このままではいけない、本当は分かっていた。どきん、どきん、心臓が大きく旋律を刻む。包帯の下に潜んだ、化け物。見たくなんかない。そして、誰の目にも触れられたくない。特に、彼には。もしも彼の目に触れたなら醜いものだと嫌われるだろう。どきん、どきん、胸がいたい。ついぞ指先はぴくりとも動かす事は出来なくて、仕方なく腕を下ろす。壊れたように鼓動を刻む胸元をぎゅっと押さえつけ、無意識に指先で固いものを探り当てた。首からぶら下げられた、クロス。服の下に隠すように首にかけられたそれの存在に気がついたのは、体が自由に動かせるようになってからだった。半ば体に染み付いた癖というように、私の体はふとした瞬間無意識に胸元の十字架にすがり付いてしまう。
 きらきらと輝きをはなつ、宝物のように大切にされた十字架。もしかしたら昔の私は、熱心なクリスチャンか何かだったのかもしれない。神様を信仰すべき絶対的なものと疑いもしなかった、無垢で純粋な少女。
 今は、神様なんかもしかしたらこの世に存在すらしないんじゃないかと、疑いすら持ち始めていた。神様がいるのなら、何の意味があって私にこんな残酷な試練を与えたというのか。神様のいたずらという言葉で片付けたくなんかないし、片付けられる物だとも思わない。そんな自分に、記憶を失う前の自分は嘆くのだろうか。

『――たとえどんな姿になっても、目を反らさない。オレだけがオマエを愛してやるよ、ずうっとな』

 そんなどうにもならない自らの状況を自覚する度に、毎日の夢で聞こえるあのアヤトくんに似た声は、都合のよい妄想なんだと痛感する。痛みが消えた今でも、相変わらず夢を見る。あんな夢を見る理由は今となっては明白だ。
 このままではいけない。分かっているのにどうしても勇気が出ずに、あれから一度も顔の包帯を外せていない。人間にしてみたらとんでもない事だろうけれど、私はこうして生きていられるのだから、それに甘んじてしまう。私は異形の化け物への恐怖心に打ち勝つすべを持たない。








「なーに鏡なんか睨んでんだよ、名前?」
「……あ、アヤトくん!」


 ふと気がつけば、鏡の中の醜いミイラ女のすぐ背後に、翡翠石の綺麗な瞳をもつ赤い髪の男の子が写り込んでいた。「ただいま」鏡のアヤトくんが右手をあげる。左手にはなにやら、箱のような物を抱えているのが見てとれる。アヤトくんが扉の外へと用事に行っている暇にこうして物思いに耽るのが日課となっていたのだけれど、恥ずかしい所を見られていまった。アヤトくんは時々音も気配もなく近づいてくる時があるので油断ならない。


「おかえり、今日は早かったね」
「まーな。それより、オイ、名前! そろそろその包帯、取り替えるぞ!」
「……え?」


 ここで初めてアヤトくんのほうへふりむく。アヤトくんは左の脇に長方形の箱を抱えると、右手でそれの蓋を持ち上げる。ふわりと空気中に消毒液の独特の香りが立ち上る。中身をごそごそと物色して、包帯のロールをひとつ、取り出したアヤトくん。どうやら今回彼が扉の向こうから持ちこんできたものは救急箱のようで、箱の表面には十字架を縮めたようなマークが描かれている。ヴァンパイアの彼がそれを持っている光景は、なんだか不似合いに見える。


「ど、どうして今更?」


 今までだって私の火傷について、彼はただ見ているだけだった。だからその言葉はわたしにとって寝耳に水もいいところで、どくんどくんと脈打つ心臓がうるさい。そんな事をされたら、醜い姿が白日の元へと曝されてしまう。せりあがる恐怖心で声はすっかり上ずってしまっている。


「私はこのままでも大丈夫だよ。これ以上アヤトくんに迷惑をかけたくないし」
「オレもそう思ったんだけどさ、レイジの奴がうるさくて」
「レイジ?」
「ああ、そうか。オマエはレイジの事も覚えてねぇのか。そう考えるとちょっと面白ぇな」
「そのレイジってひとは?」
「人じゃなくてヴァンパイア。レイジは一応、オレの兄弟だからな」
「アヤトくん、兄弟がいたんだ」
「まあな」
「アヤトくんに兄弟だなんて何だか想像できないよ」
「あいつはほんっとうるせぇヤツだぜ。
 『火傷に包帯を直接巻いて放置してる? アヤト……貴方の馬鹿さ加減には毎回驚かされますね。今ごろ細菌の温床ですよ。そもそも、患部と包帯とが癒着してしまうかもしれない。今すぐ消毒を施し清潔な包帯に取り替えなさい』
 ――って、なんでオレ様が偉そうにセッキョーされなきゃなんねーんだ!」


 アヤトくんの手の中の包帯がぎゅうっと握りつぶされる。レイジというお兄さんないし弟の存在は凄く興味をひかれるものだったけれど、アヤトくんの声真似を聞く限りではアヤトくんと違い丁寧で常識的なひと――じゃなく、ヴァンパイアのようだった。しかし少なくとも彼が兄弟について快い感情を抱いているようには見えない。


「ねえ、もしかして私が弱っている時にアヤトくんがガーゼで水を飲ませてくれたのも」
「レイジがあんまりにもうるさかったからしかたなく、だ!」
「……やっぱり」


 これであの、アヤトくんに似つかわしくない行動の正体も分かった。外へと繋がる扉の向こうでは、レイジという名前のアヤトくんの兄弟が暮らしている。アヤトくんについての情報を僅かにしか持たないわたしにとって、それは真新しい情報だった。何故だか私は、アヤトくんに直接私の記憶に繋がるような事柄について尋ねる気にはなれない。今はこうして何気ない会話に散りばめられた些細な事から、目の前の彼の事を想像するだけで満足だから。


「つーかそんな事はどうでもいいんだよ。ほら、さっさと顔こっちに差し出せよ」
「……っ、や」
「あ?」


 アヤトくんから延びてきたてのひらを、反射的に避けてしまった。彼は冷めたような瞳で私を見下ろしていて、途端にぞくりとした寒気が走る。けれど私には無理だった。弱い部分をさらけ出せるほど彼の事を知らないし、醜い部分をさらけ出せるほど彼の事をどうでもいいとも思えない。


「あの、本当に、大丈夫だから。好意は嬉しいんだけど」
「へぇ。このオレ様が直々に治療してやるっつってんのに、そういう態度とるわけだ」
「ごめんなさい」
「……ふーん」


 すうっと翡翠石の瞳を細めてまじまじとこちらを眺めるアヤトくんに酷く居心地の悪い思いを噛み締める。彼は何かを理解したみたいに、冷めた顔ににやりと笑みを浮かべた。アヤトくんにはきっと、私の考えなんかお見通しなんだろう。何故治療を拒むのか。


「ま、そうだな。オマエが必要ないって言うんならいいか。レイジはうるせぇだろうけど、オレの知ったことじゃねぇしな」
「う、うん。せっかく気をつかってくれたのにごめんね」
「謝るくらいなら代わりにさ、血、飲ませろよ」
「……血を?」
「ああ、ホントはさ、オマエが完全に元気になるまで我慢してやるつもりだったんだけどな。オレの好意を無下に出来るくらいの気力があるんだから、ちょっと吸われるくらい平気だろ?」


 救急箱をドレッサーの上に放り出すと、アヤトくんは逃がさないとでもいうように私の肩をがっしりと掴む。そのまま首筋に顔を埋め、鼻を押し付けられた。近くで感じる息づかいとさらさらした髪が肌をなぞるのがくすぐったい。血のにおいを嗅がれているみたいだった。私の中の自分でも知らない部分を探られているみたいで、なんだか恥ずかしい。


「……っ、」
「なあ、どうなんだよ?」
「……うん、いいよ」


 ヴァンパイアに吸血されるという事がどういう事か、私にはよくわからない。あのアヤトくんが“我慢”なんて大仰な言葉を使うくらいなのだから、怪我人には負担が大きいのかもしれない。けれどそのかわりに醜い自分に直面せずにいられるのなら、私は迷わずアヤトくんに血を捧げよう。彼が私の血を飲みたいと思ってくれる。それが純粋に嬉しかった。そっと彼の背中に手を回して抱き締めてみる。広くて逞しい、男の子の背中。


「クク、いい返事だ。吸ってやるよ、いっぱいな。途中でやめてって泣き叫んでも知らねぇからな?」


 そのままつぷりと首筋にアヤトくんの牙が突き刺さってきた。綺麗とは言いがたい私の肌を押し広げながら彼の牙が進むにつれて、私の奥でぱちぱちと何かが弾けるような感覚がする。痛い、けれど、何故だか凄く心地いい。懐かしいような感覚だった。こうして牙が肌破り血を暴く感覚を私はよく知っている。アヤトくんが私の血を吸い上げるたび、失われた記憶の断片が、頭の奥で浮かび上がっては消えてゆく。そう、私はこうやってアヤトくんが血を吸ってくれるのが、好きだった気がする。
 私は――。
 きゅうっと胸がしめつけられるような感覚がする。熱っぽい顔で肌をむさぼるアヤトくんがぐにゃりと歪む。首筋、うなじ、耳元、二の腕、手首、ふともも、つまさき。身体中いたるところに牙を突き立てながら、吸われる。ふわふわと夢心地で現実とも夢ともとれるような浮遊感。魚になって夢の中の海を泳いでいる時と似た感覚。くらくらした頭で何処ともつかない方向を見上げる。そして私は空中に自分の記憶の断片が浮かび上がり、次々に連結して、空白だった私の心に書き付けられてゆく光景をみた。


「……ん、アヤト、くん」


 初めてホンモノの彼の名前を呼べたような気がする。アヤトくん。やっぱりそれは、わたしの好きなひとの名前だったのだ。アヤトくん。彼は撫でられるのを気に入っていた気がする。
 鎖骨から血を吸う最中だった彼の、すぐ目の前に埋まった頭を、そっと撫でてみる。空気を含ませたふわふわとした柔らかい髪の毛の感触。ひどく懐かしい思いが胸を占める。

「アヤトくん、アヤトくん」

 名前を何処ともなく吐き出し続ける私に、やっとでアヤトくんが肌からくちびるを離して、こちらを見上げる。真っ赤に染まった口許をつりあげてた彼はまた、“いつもの”笑みを見せてくれた。



20130421

   

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