「オマエの名前は苗字名前。で、オレが逆巻アヤト」



 アヤトくんの声は不思議だ。四六時中身体中を這いずり回っている痛みも、彼の声が鼓膜を揺さぶる瞬間にだけは、若干ではあるけれど和らいで感じる。夢の中のあの海の中を泳ぐあいだ、羊水をたゆたう赤子のように心地よい感覚を得られるのは、もしかしたらずっとアヤトくんに似た声が響いているからかもしれない。
 名前、彼の形のよいくちびるから私のだというその名前がこぼれ落ちるたび、全身でぱちぱちとおとをたてて悦びのような感情が弾ける。聞かされた自分の名前はやっぱり記憶になくてぴんと来なかったけれど、アヤトくんがそう呼ぶのならそれでいいやという気になった。逆に逆巻アヤトという名前は、目の前でいつも余裕を含んだ笑みを浮かべる彼に、かっちりとあっているように思う。
 アヤトくんが何かを口にするたび、その言葉は根拠は無いけれど、妙な説得力をもって私の胸に落ちてきた。きっと昔の私は、アヤトくんの事が好きだったのかもしれない。記憶は空白そのものだったけれど、身体は彼が喋るたび、触れるたび、隣で感じる吐息すらに反応する。私と彼がどんな関係だったのかは、まだ聞けていない。やっぱりまだ口を動かすのすら億劫だったし、仮に満足に口を動かせていても、私は彼にそれを聞こうなんて気にはならないだろう。
 私たちはたぶん、恋人同士なんて生暖かい関係じゃない。空白の記憶の中、何故だか確信めいた思いでそんな事を考えた。






「……私、このまま、死ぬのかな……」

 その晩は数えるほどしか記憶にない夜の中で、もっとも辛い夜だった。顔面の火傷が疼いて仕方がない。全身が燃えるようにあつい。今熱を測ったらきっと、体温計は壊れて本来の役目を全うできなくなってしまうだろう。なんて事を考えられるのは、まだまだ余裕があるしるしなのだろうか。アヤトくんが体温計なんてアイテムを用意してくれないのは明白だけど。どっちみち今の状態で体温計だけ渡されたって、意味をなさない。
 自分では手の施しようもない感覚に侵蝕されつくし、私はきっとこのまま死んでしまうんじゃないかという、ずっと考えないよう見ないようにとつとめていた恐怖が溢れ出して止まらない。奥歯を噛み締めるようにして襲い来る痛みにたえながら、うわ言のように呟いていた。もうすぐ死ぬかもしれない。こわい。いたい。死にたくない。
 ひたひたと迫り来る死の足音が、聞こえ始める。こつーん、こつーん、こつん。死刑宣告のカウントダウンのように響いていた恐ろしい音が耳許で停止した。隣のアヤトくんにはきっと、聞こえていないんだろう。闇の深淵に直面した私だけに聞こえる足音。私だけに見える、死神。血の通っていない真っ白い顔をした死神は、まるで死そのものを表現しているかのようだった。長い髪間からのぞく、闇のように何処までも暗い色をした瞳に吸い込まれてしまいそうで、ぞくりとする。皮と骨だけの細い片腕で軽々と持ち上げている大鎌が、なんだかアンバランスにうつる。喉元に容赦なく突きつけられる鋭利な切尖。空っぽな私は、死んだらどうなるのだろうか。胸の中には死神に取られるような魂すら、収まっていないのかもしれない。くらいくらい闇色の絵の具に、空白のこころをぐちゃりぐちゃりと塗りつされてゆく。
 このまま、アヤトくんには、もう二度と会えないのだろうか。私にとったらまだ数日しか一緒に過ごしていない筈なのに、胸のあたりがぎしぎし言いながら哀しみに似た感情を伝えてくる。死ぬのは怖い。それ以上に、私はこの人から離れたくないと思っている。最後の抵抗に、もう一度奥歯を噛み締めて、アヤトくんを見つめる。



「……う、ぅ、さ、よなら、アヤト、くん……」
「ばーか、ずっと寝てるからって寝ぼけてんじゃねぇぞ」
「……っ、」
「覚醒しかけのオマエがこの程度のことで死ぬわけねぇだろ」
「……かく、せい?」


 そうだ、と、いつもの余裕に満ちた笑みを浮かべるアヤトくん。ああ、いつものアヤトくんだ。彼の笑顔を見た瞬間に、胸の中の哀しみに似た感情が和らいで、死ぬほどの痛みもどうでもよくなってくる。
 そのとき、私だけに見えていた死神の白塗りの顔がぱっと一瞬にして弾けた。白い顔と黒い髪の毛や外套で構成されたそれは、砂浜の砂のようにさらさらに散った。ぱらぱらと死の残滓が宙を舞いながら、寝そべる私とアヤトくんへと降り注いでくる。それを浴びるアヤトくんはきらきらと綺麗に輝いて見えて、私は彼から目がはなせない。首もとでひやりとした存在感を放っていた大鎌も、闇に溶けるように静かに消えていった。まるでアヤトくんのその存在感に、死神が押し負けたみたいな光景だった。やがて目の前はすぐにいつものアヤトくんしか存在しない空間に戻る。
 そのままぷつりとテレビが消えたように、目の前のアヤトくんばかりがうつる光景は遮断された。

 次に目覚めたとき、驚く事に私の身体は快調の兆しをみせていた。抉られるようだった痛みはずいぶんと和らいで、身体もゆっくりとなら動かせる。昨晩からは想像もできないような回復ぶり。峠を越えたというやつかもしれない。
 アヤトくんの言う通りだった。私は死ななかった。すぐ枕元まで迫っていた死神は、わたしの魂を持っていかなかった。不確かだった彼の言葉に感じる不思議な説得力が、実績の伴った説得力へと変化する。


「ずいぶんマシな面になったじゃん」
「……うん、なんか、いつもより気分がいいかも」



 そっと両手を天井の方につきだして、五本の指を開いたり閉じたりしてみる。やっぱり傷むけど、動かせないほどの激痛じゃないことに感動を覚え、動く指先をじっと見つめてしまう。包帯だらけだけれど、これは枝が肩からぶら下がっているのではなく、本当に私の腕だったのだ。脳からおくられた信号をキャッチし、命令通りに体が動かせる。当たり前の事だけれど、それすらが奇跡なのかもしれない。
 ふと、指が動くたび、手の甲にまかれた白い包帯の隙間から、赤黒い火傷の痕がちらり、ちらりと覗くのが見えて、胸がずきんと痛んだ。死の危機から脱してみて、初めて直面した、現状。この包帯の下には、なにか醜いものがひっそりと潜んでいる。私はもはや人間じゃない、化け物だ。その瞬間に、初めて私は自覚した。それは女の私にとって、身体中を襲う激痛なんかより残酷で堪えがたい現実だった。


「ねえ、アヤトくん」


 見たくない現実をそっと視線から追いやって、手を顔のすぐ横にあった壁に引っ掻けるようにしてのばす。横になっているあいだずっと気になっていた。私とアヤトくんが眠る、狭い壁に囲まれた空間。なにか鉄でできた『箱』のようなものの中で、私はずっと眠っていた。蓋は空いていたので暗くはなかったけれど、壁に囲まれたこの空間から外の様子は全く伺えない。蓋のあいた部分から、四角く切り取られた天井ばかりが視界を埋め尽くした。ぐっと『箱』のふちに手を引っ掻けて力を込める。力をかけた部分がやっぱり痛かったけれど、頑張って上体を起こそうと試みる。
 それに気が付いたアヤトくんが、僅かに浮いた私の背中に手を差し入れて、援助してくれた。ずっと天井ばかりを見上げていた視線が徐々にあがっていき、頭がすこしくらくらする。


「……っと、」
「っ、ありがとう、アヤトくん。やっとで起きられた」
「隣でふらふらされるとなんかもどかしいんだよな。で、なんだ?」
「ここはどこなのかなって、ずっと気になってたんだけど」
「んな事もわかんねぇのかよ。オレの部屋だ」


 ずいぶんな時間と体力を消費してやっとで起き上がる事ができた。開けた視界の先には彼の言う通り、至って普通な部屋が広がっていた。シンプルにまとまった部屋。少し散らかっては居たけれど、私がアヤトくんから受ける印象からすれば意外にも大人しめの家具たち。
 ベッドやドレッサー、キャビネットといった定番家具が並ぶ部屋で、ゆいいつ異質な空気を放っているものといったら、いま私たちが収まっている、鉄の箱のようなものだけだった。箱と言っても真四角なわけではなく、長方形の角をすこしカーブさせたような、妙な形をしている。手をかけたそれを、少し撫でてみる。冷たい温度が伝わってくるだけ。


「この、箱みたいなものは?」
「ハコ?」
「私たちが今入ってる……」
「ああ、これの事か。クク、これはオレ様の寝床」
「寝床?」
「ああ、アイアンメイデンっつーんだ。分かるか?」


 アヤトくんはくすくすと愉快そうにわらっている。アイアンメイデン……。どうやら私の記憶喪失は一般教養の類いは忘れず残っている類いのようで、誰もが知っている言葉や物の名前、計算の仕方などといったものは難なく思い出す事ができる。
 拷問器具の名前が一般常識なのかはちょっと定かではないけれど、アイアンメイデンの名はしっかりと記憶に存在していた。中世の拷問器具。鉄の処女の体の中にはずらりと鋭利な刺が整列していて、蓋を閉められたが最後、中に入った者は永遠の眠りにつく。私たちが入っていた『箱』には刺は生えていないようだったけれど、アヤトくんの側の箱の縁に開いた蓋がくっついていて、それは人のシルエットのような形をしている。蓋の裏からではよく見えなかったけれど、表には鉄の処女の無慈悲な顔が刻まれているのかもしれない。


「な、なんでこんなもののなかで……?」
「あ? きまってんだろ、寝心地がいいからに。この僅かに残った血のにおいとか、さいっこうだと思わねえ?」
「血の、におい?」
「ま、こんな近くで極上の血の香りがするんじゃそれも意味ねぇけどな」
「?」


 くんくんと小鼻をふくらませてみせたアヤトくんに首をかしげる。彼は私を笑わせる為に冗談を言ったのかもしれないけど、どこに笑えるポイントがあったのか、よくわからなかった。昔の私にならきっと分かった事なんだろうと思うと、少し残念な気持ちになる。そんなわけで、彼がどんなポリシーのもとこんな固いものを寝床としているのかもよく理解できない。向こうに白いシーツがピシッとしかれたふかふかそうなベッドもあるのだから、あちらで眠ったらどれだけ快適だろうか。


「なんだか棺の中で眠るヴァンパイアみたいだね、アヤトくんって」
「お、ちゃんと覚えてんじゃん、オマエ」
「……え?」
「名前がいうとおり、オレはヴァンパイアだ」


 彼の言葉は、私の記憶に残った一般常識と照らし合わせれば「そんな馬鹿な」の一言で片付くような代物だった。それなのに、アヤトくんの口にする言葉がもつ絶対的な説得力によって、今回も胸の中にすとんと落ちてきた。

20130331

   

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