こんな唇ちぎれ落ちてしまえばいいのに。



 人間が無意識のうちに発揮するちからというのは恐ろしいもので、ここ最近ずっとそんな思いを抱えながら過ごしてきた私の唇はすっかり荒れ果てていた。知らず知らずに掻き毟っていたらしく、めくれて乾燥した皮膚が鱗のようになって唇の端にぶら下がっている。しわにそってあかぎれのようにばっくり裂けた傷が3つほど。とても人前に出られるような状態ではない鏡の中の顔を見つめ、溜め息をひとつ。


「鏡を見つめて溜め息だなんて、ビッチちゃんはいつからナルシストになっちゃったのかな?」


 溜め息の間から聞こえたのは、今一番聞きたくなかった声だった。背後からくすくすと聞こえてくる愉快そうな笑い声は、間違えようもなく聞き慣れたものとなったライトくんのそれ。目の前の鏡に軽やかな外はねの髪の毛の端がうつりこんだ瞬間に、咄嗟に顔をそらした。鏡にうった自分を見られないようにする為だったのだけれど、逆効果だったみたい。そらした瞬間に、鏡の中どころか本体の自分の顔とライトくんの顔とが、ばっちりと向き合う事となってしまった。一瞬驚いたように瞳を見開かせたライトくんの視線は、私が一番触れられたくなかった部分にしっかりと注がれていて、いたたまれない気分になる。


「あれ、名前ちゃん、どうしたの。唇が凄く荒れているね。なにか悪いものでも食べたのかな?」


 興味津々というように荒れ放題の唇にぐいっと顔を寄せられて、数歩後ずさる。鏡に邪魔されて、すぐに逃げ場は無くなったのだけれど。汚いだとか痛そうだとか目を反らされる事もないかわりに、心配するような色も含まない瞳。想像通りの反応に、だから嫌だったんだと下唇を噛み締めたら、つきりと鋭い痛みがはしった。こんな汚い姿、見られたくなかった。それがたとえ、ライトくんにとってどうでもいいような事でも。


「ああ、だめだめ、そんな風に噛んだらもっと悪化しちゃうよ。せっかく美味しそうな唇をしているんだから、もっと見た目には気をつけてくれなきゃ」
「……ライトくんには関係ないじゃないですか」
「もしかして名前ちゃん、ご機嫌ななめ? どの口がそんな生意気なこと言うんだろうね、まったく」
「関係ないから、ほっといて」
「んー? 大いに関係あるよ。だって名前ちゃんのこの唇は、ボクのものだからね」


 私にだって大量に言い分はあったけれど、この唇、そう言ってライトくんが唇をつまんできたものだから飲み込まざるをえなかった。人差し指と親指の間に挟まれた唇が、アヒルのような形になっている。裂けた部分が歪んでずきりとまた痛む。かなり痛いから、もしかしたら傷が裂けて血が出てしまったかもしれない。悪化するだなんてつい今しがた言っていたのはどこの誰だっただろうか。それに、この唇がライトくんの物だなんて、よく言えたものだ。本当にそうだったら、どれだけ良かったか。
 誰かに吸血される私を嬉々として見つめるライトくんの瞳は、たとえ私の唇がライトくん以外の人に奪われようとも曇ることはない。助けてくれるどころか、その様子をまじまじと観察しながら、にやにやと口許を歪ませているのだ。時には涙を見せながら、時には大笑いしながら。吸血だけなら耐えられた。私の血はどうやら他の人よりも美味しいらしく、彼らは吸血しなければ生きていけない。彼らは私たちが肉や野菜を口にするのと同じよう、生きるために食事をしている、ただそれだけ。それは仕方のない事だ。
 だけど私のこの唇だけは、愛しい人の為だけに存在するものでありたかった。きっとライトくんは、たとえ私が目の前で強姦魔に襲われているのだとしても、嬉しそうにしながら高見の見物を決め込むだろう。それは私とライトくんの関係が、どこまでいっても捕食者と餌の関係であるという証拠に他ならない。私がいくら愛しく思っていてもライトくんには関係ない。そう思ったらたまらなく悲しくなった。
 ライトくん以外のものに触れたこの唇なんて、むしりとってしまいたい。気持ちが悪くてしかたがない。私がそんな思いを抱えていただなんてこと、ライトくんは知らない。それがとても憎らしい。


「んふ、本当にカサカサしてるね、名前ちゃんの唇」


 親指の腹で2、3回唇の輪郭をなぞったあと、やっとでライトくんは指の力を抜いて解放してくれた。やっぱり傷が裂けていたようで、彼の親指の先には赤色が滲んでいる。それをペロリと舐めとると、まだ足りないとばかりに唇の傷口に舌を這わされて、肩がふるえる。すっかり乾燥しきっていた唇が、彼の唾液で潤う。裂けた部分に擦り付けるように舌先が動いて、ぴりぴりとした痛みに、思わず顔をそらしてしまう。


「駄目だよ逃げたりしたら。こんな醜い唇をした女の子にキスをしてあげる心優しい男は、世界中探してもボクしかいないんだから。ちがう?」


 小首を傾げるライトくんが覗きこんできて、もうどうにでもなれと思った。再び唇の上を這う舌先と痛みとに耐えるように、固く目を瞑る。そうすれば今度は、下唇をちゅうっと音を立てて吸われた感触。ざらざらの感触を確かめるように、ゆっくりと移動するライトくんの唇。ただ痛いだけの行為の筈なのに、胸の奥がきゅっと締め付けられたような気分になる。


「んふふ、気持ち良さそうな顔。キミはきっとボクにこうしてほしかったから、こんな風に荒れ果てるまでケアもせずに放っておいたんだよね」


 背中にライトくんの両腕が回ってきて、私はすっぽりと抱き締められている。どんどんと深みを増していく口付けに酔いしれていると、ついに舌が口腔内に侵入してきた。すぐに私の舌を探り当て、慣れた様子で絡み付いてくる。息も出来なくて頭の奥をぼんやりさせていると、合間に牙の先で唇の傷口を押し広げるように引っ掻かれた。ここ一番の刺激にビクンと肩が飛び上がる。


「ほら見て名前ちゃん。いっぱい血がでてきたよ、まるでルージュを塗ったみたいだ。たまには唇から飲むっていうのも、悪くないね」


 ライトくんの腕の中、くるりと半回転させられると、背後にあった鏡に自分の姿がうつりこむ。蒼白な顔に毒々しい赤色をした唇が鮮やかに映えて見える。
 私は少しだけ、この唇が好きになれるような気がした。




20130317

   

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