今日も雨が降っていた。容赦なく床に叩きつけられる水の音の、煩いくらいのオーケストラ。降り注ぐそれを一身に受けた髪の毛の隙間から、いく筋もの水がさらさらと流れ落ちてきて、私が正常な呼吸をする権利さえも奪ってしまう。普通の家庭のものよりも幾らかは大きいけれどそれでも圧迫間のあるバスルームに、水音とライトくんの笑い声とだけが反響している。ざあざあざあ。シャワーから作り出される雨が肌を打つ感覚ももはや僅かにしか受け取れなくなっていて、朦朧とする頭がぐらりと軋んだ。
 それでも考えるのは目の前でわらうライトくんの事ばかり。三日月のように細まった瞳。左側だけ器用に吊り上げられた口角。いつもは外に向かってぴょこんと跳ねている髪の毛がしっとりと濡れてフェイスラインに貼り付いている。全部がたまらなく愛しい。ライトくん、ライトくん。あなたが快感を得られるのならば、私はどんな冷ややかな水の中だって、平然とたゆたっていられるよ。
 肌にはりついたシャツの鬱陶しさを無視しながらそっと腕を伸ばして、触れたライトくんの頬。冷水を浴びせかけられ続け熱を失った指先では、ヴァンパイアの冷ややかな肌ですら少し温かいような気がする。それだけであたたかな愛にすっぽりと包まれたような気分になった。
 ライトくんは自分は愛なんて知らないって言う。だから私は世間一般的な愛なんて軽々しいものはもう信じない。ライトくんはこうして、自分の思う形を私に叩きつけてくれるのだから。

「血、吸ってほしくなっちゃったの?」

 頬の上の冷たい掌を引き剥がすと、それを口許に持っていくライトくんを見つめる。ややあって手首に突き立てられた牙こそが、ライトくんの愛。伏せられた艶やかな緑色を見つめながら、昔食べたマカロンを思い出していた。ピスタチオのマカロン。ライトくんの大好物。
 いつだったか、こうして私を吸血した後、ライトくんが私にマカロンをくれた。私はその艶やかに輝く丸いフォルムと緑色を見つめながら、ライトくんの瞳みたいだなと思ったのだ。私がライトくんを愛しく思い始めた、ちょうどその頃の話。まるで餌付けされたみたいに、彼の瞳が頭から離れなくなった。あのマカロンには魔法がかけられていたのかもしれないとも考えたけれど、きっと私はマカロンを食べなかったとしてもライトくんに心奪われて、闇に引きずり込まれていたんだろうなと今では思う。底の無い暗い闇に転落するような恋だった。ライトくんの隣の席は、マカロンみたいに甘くなくて、とても苦い。だけど私のお砂糖みたいな感情を持ってして、まるでメレンゲみたいにふわふわに何倍にも膨れ上がる。

「おっと、まだ気絶しちゃ駄目だよ」

 手首からライトくんの胃袋へと消えた血液も大量のものとなって、冷えきった体もついに限界が来たみたいだった。がくがくと震えていた膝からついに力が抜けた。腰を抱いてすぐさま支えられ、毛先から水滴が何粒か跳ねる。キュッキュッと音を立ててライトくんが蛇口を捻ると、バスルームは途端に静かになった。濡れた肌とたっぷりと水分を含んだ布、そしてその向こうにライトくんの肌がぴったりと寄り添う。それらがくっつく感覚がもどかしくて気持ちが悪い。彼も同じことを思ったのかシャツの貼り付いた私の腹部を何度かまさぐった後、ビリビリとそれを引き裂きにかかった。

「んふ、やっぱりキミはこの部分に魅力が足りないね」

 シャツに隠れた慎ましやかな胸があらわになると、いかにも嘲るように言いながら、その部分を下着に沿って指先でなぞられる。おおよその事柄はライトくんの愛し方なんだと捉える事に慣れたけれど、こんな時ばかりは私もどんな顔をすれば良いのか分からなくなる。ライトくんはたまに、間違い探しをするような瞳で私の事をうつす。彼の憎くて憎くて愛しい人は、私とは違い、たっぷりとした柔らかさの豊満な胸をしていたのだろうか。ライトくんは愛を知らないって言う。それはその人に愛されなかったからだろうか。叶わなかったその恋は、今でも彼の胸の奥底に燻っているのだろうか。ライトくんのこんな瞳を見ると、上から容赦なく押さえつけられて私の大切な感情たちがぷちり、ぷちり、と一つづつ押し潰されてゆくような感覚がする。愛しい、悲しい、苦しい。悲鳴を上げながら弾けてゆく感情たち。

「ライトくん」
「ん?」
「私を、見て」

 私だけを見てほしい。それが叶わぬ事なんてずっと前に分かりきっているのに口にする私は、どうしようもない愚か者だろうか。次に彼が口にする言葉なんて、私には既に分かっていた。キミは頭の悪い子だね、ライトくんはそう私を馬鹿にするだろう。そんな事あり得る筈がないだろ、って。













 しばらく気絶していたらしい。私が起きた時、いまだ私は籠の中の鳥のように、ライトくんの両腕に収まり捕らえられていた。お腹に巻き付く両腕に、夢から覚めてもなお夢の中みたいな心地を覚える。絡み付くこの両腕から抜け出す事は容易だ。けれど、本当の意味で、彼の綺麗で残酷な指先やしなやかで狡い腕なんかで構成されたこの檻から抜け出す日は、きっと永遠には来ないのだ。
 背後でシーツに半分埋まっているライトくんを起こさないように、そっとベッドから這い出した。深い眠りについた彼の顔からは、常日頃顔に貼り付けた、何処か達観したように見える笑みが消えていて、ただの綺麗な顔をした男の子みたい。

 ぺたぺたと数歩フローリングを素足で踏みしめて進む。ふと、キャビネットの脇のランプに照らされて、普段見慣れない長方形の白い小箱が薄暗い室内に浮かび上がるようにしているのが視界にはいる。キャビネットの天井、その隅にぞんざいに乗っかっていて、半分宙に身を浮かせたたその箱は少し触れたら床へと投げ出されてしまいそうだった。導かれるようにそれを手に取る。
 ライトくんの部屋にはしょっちゅうお邪魔している――というか、起きたら居るのだけれど、普段は見かけない箱。持ち上げてみた感じ、そこまで重いわけでもなく、かといって軽い訳でもない。手に馴染む重さ。大切に保管されていた訳でもなく、ただの厚紙で出来たちゃちな箱だった。けれどその箱は見慣れたライトくんの部屋の中で唯一の見慣れない存在で、だとすればそれの中には私のまだ知らないライトくんの秘密のようなものがぎっしりと詰まっているような気がしてしまい、そなると私的には凄く気にかかってしまう。
 ごくりと唾を飲む。人の部屋にあるものに許可もなく触れるのは良くないことと分かってはいたけれど、沸き上がる好奇心に自制心が負けてしまった。右手は勝手に、それの蓋の部分に到達している。厚紙の、ざらりとした感触。ライトくんと過ごすようになって私は少しおかしくなったらしい。こんな瞬間、ひしひしとそんな思いを噛み締める。以前の私だったら、ひとの部屋の物を勝手に漁るだなんて、人間として従うべき道徳に反する行為に及ぶことは、たとえ好奇心と言う名の悪魔が誘惑してこようとも、断固とした精神力ではねのけていただろうに。
 僅かな背徳心に胸を高ならせそっと蓋を持ち上げると、その向こうに見覚えのある可愛らしい姿があらわれた。フランボワーズの赤に、シトロンの黄、ショコラの茶に、ヴァニラの白、そしてピスタチオの緑。まるでジュエリーボックスに収まった宝石のように、光を浴びてつやつやと輝きながら規則正しく整列するそれは、ライトくんの大好きなマカロンだった。おやつに自分で自分に買ってきたのだろうか。パティスリーの扉を押してショーケースに並ぶマカロンを眺めるライトくんを想像して、少しだけ微笑ましいような気持ちになる。ずいぶんと可愛らしい秘密だった。いつもこうなら可愛いのに。しばらくマカロンを眺めた後、ようやく箱を元の位置に戻そうという気分になった瞬間に、後頭部のあたりから声が降ってきた。

「それ、名前ちゃんにあげるよ」

 はっとして振り向く。そこまで長時間眺めていた筈ではないのに、確かに先程までシーツに埋もれていた筈のライトくんが、すぐ背後に立ってこちらを指差している。ぴょこんと跳ねた毛先の右側だけが普段よりも重力に逆らって天を仰いで見えるのは、もしかしたら寝癖なのかもしれない。おはよう、ライトくんが眠そうに言う。勝手に部屋を漁っていた私を責める色は一切含まない声色に安心しながら、私もおはようを返す。
 それ、と言って、さっきからライトくんが指しているのはどうやら私の両手に収まったこのマカロンの事らしい。

「え? マカロン?」
「うん、マカロン。キミにあげるために買ってきたんだ」
「……ライトくんが、私に?」
「名前ちゃんたら、そんな驚いた顔しなくてもいいのに。たまにはね、ボクだってキミに贈り物をしたくなるんだよ」

 頭を支配したのは純粋に「驚愕」という二文字。二の句を紡げなくなった私に、ライトくんはくすくすと笑って見せてから、マカロンへと手を伸ばす。春のお花畑のように色とりどりの箱の中、一番端に収まっていた緑色、ピスタチオのマカロンを親指と人差し指の間に挟むと、ぐいっと私の口許へと押し付ける。どうやら食べさせてくれるという事らしかったけれど、ライトくんの行動は私にしたらまるきり予想外の出来事だったため、ぽかんとしてしまう。

「さ、名前ちゃん、口をあけて。ボクが食べさせてあげるから」
「な、なんで?」
「んー? 女の子に甘いものを贈る事に、理由は必要かな? 強いて理由をつけろって言うのなら、ご褒美、かな? 最近のビッチちゃんは随分とボクに従順で、すごく可愛いから」
「ライトくんがご褒美だなんて――」
「怪しい、って?」
「……はい」
「もう、失礼だなあ。大丈夫、毒なんか入っていないから安心して。でも、いやらしい気分になる薬なら、入っているかもしれないけれどね」
「……!」
「んふ、キミの顔は素直だねぇ。うそうそ、今のはただの冗談。期待してるところ残念だけど、これは本当に、純粋なるただのマカロンさ」
「そういう事、ライトくんがいうと冗談にならないよ……」

 からかわれるのには慣れっこだけれど、頬が赤くなるのだけはいつまでたっても治らない。とにかく、このマカロンはライトくんから私へのプレゼントらしい。照れ隠しのように目の前のライトくんの瞳と似た色でつやつやと輝くそれにかじりつく。ふんわりと口の中に広がる甘さ、そしてナッツの風味とバタークリームの香り高い味わい。途端に胸の中が幸せな気分で埋め尽くされる。貧血による酷い吐き気や目眩も忘れられるような幸福感に、だらしなく筋肉が緩んでしまう顔を見て、勝ち誇った笑みを浮かべるのはライトくんだ。

「やっぱり本当に素直だね、名前ちゃんの顔。そんな美味しそうな顔されたら、ボクも食べたくなってきたよ。貰ってもいい?」
「え?」
「いっただきま〜す」

 誰も許可なんてしていないのに、齧りかけのマカロンはライトくんの口の中へと消えていった。自分だって随分と幸せそうな顔で、口の中のものをもぐもぐと咀嚼している。私にプレゼントだなんて言っておいて、結局は自分で食べてしまうなんて、本当にマカロンが好きなんだな。私はまだ、面積にして3分の1くらいしか食べていなかったのに。
 間接キスだなんてそんな些細な事を気にする間柄ではもうないのかもしれないけれど、やっぱり少し照れてしまって、嫌でもライトくんの唇に目がいってしまう。

「ああ、そんな恨みがましい瞳でみつめないでよ。ちょっと貰っただけじゃないか」
「食べ物の恨みは恐ろしいっていいますから」
「んふ、ボクからプレゼントを貰えただけでも喜ぶべきなのに、欲張りな子だね。分かった、じゃあビッチちゃんにキスをしてあげるよ」

 何がどうなってそんな結論に至ったのかはよくわからないけど、次の瞬間にくっついた柔らかな唇は、マカロンの味がした気がする。手にした箱をキャビネットの上に戻すと、ライトくんの背中へとしがみつく。
 こうしているとまるで、普通の恋人同士のようだ。まったくの倒錯だとは分かっていても、忍び込んできた舌先に蹂躙され痺れた脳味噌は、そんな考えを作り出す。この時ばかりは幸福に満ちていて、ライトくんの間違え探しをする瞳や、憎くて憎くて愛しい人の存在、嫌なこと全てが忘れられる。続くこの道の先に絶望しか存在しないのだとしても、裸足で踏みしめていけるのだと、そんな気分になれる。飴と鞭みたい。膨らんだり潰れたり、私がライトくんに抱く感情はぐるぐるとめまぐるしい。だけどそのたびに、私はライトくんから離れなくなる。ライトくんは私でさえももうコントロールできなくなった感情を操るのがひどく得意だ。
 愛しい、悲しい、苦しい。
 ぷちり、ぷちり、と音を立てて、上から容赦なく押さえつけられて、弾ける私の大切な感情たち。それはマカロナージュされたみたいに、つやつやと輝く状態の良いものへと変化を遂げるのかもしれない。



20130320




マカロナージュ:
マカロン作りの作業行程のひとつで、メレンゲの泡を押し潰して生地の状態を整えることをいう。これをしないと美味しいマカロンが作れない。

   

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