※グロ注意















 カナトくんの部屋へと続く扉を開く瞬間、私はチョコレート菓子の蓋を開ける時みたいな気分になる。その向こう側にはいつだって、カナトくんと過ごす甘くてほろ苦い、夢のような一時が詰まってる。

 がちゃり、もう随分と聞き慣れた心地よく鼓膜を揺さぶるそれは、私の部屋の扉が奏でるものよりも少しだけ高い音だった。私の部屋の扉と、他の数ある扉と、カナトくんの部屋のそれとは一体何が違うんだろう。このつるつると光る銀色のノブを握ると、私の心臓はいつだってドキドキと暴れまわる。私はこの扉が大好き。その向こうで愛しい人が待っているから。




「おそい、いつまで僕を待たせる気なんですか」




 視界が開けた瞬間に一番にぶつかったのはカナトくんの綺麗な瞳で、その瞳は不機嫌を隠そうともせずに私を睨み付けていた。私が現れるのを待つ間中ずっと、扉を憎い相手のように睨んでいたのかもしれない。今日のカナト君は大層機嫌が悪い。テーブルに山を作ってる沢山のお菓子を目の前にお預けを食らうのは、カナトくんの眉間に深い皺を刻むに十分足りる事柄みたい。




「全く、君が待っていてっていうからわざわざ待っていてあげたというのに。そんな優しい僕を待たせるだなんて……どういう神経をしているんですか。君から誘ってきんですよね?」
「ご、ごめん。約束の時間よりちょっと遅れちゃった」
「ちょっと……?」




 気にくわないというように、カナトくんのスプーンを持つ手がぴくりと動く。私が扉の向こうのカナトくんを瞳にうつした瞬間、ちょうど彼はチョコレートプリンの最初のひとすくいをのっけたスプーンを口に運ぶ最中だったのだ。扉を睨みながら。




「か、かなり、かな?」




 良かった、間に合った。
 カナトくんに向けて曖昧に首をかしげながら、私は心底安心をしていた。後ろ手に隠した紙袋が見つからないように、ゆっくりとカナトくんの部屋に入り、扉を閉める。がちゃり、開ける時と閉める時、僅かに音が違う。




「信じられますか、約束の時間よりこの僕を10分も多く待たせたんですよ、名前さんのくせに。君は自分でした約束も守れないどうしようもない無能な人間なんですか」
「……ごめんなさい」




 つらつらと恨みの言葉を並べ立てる、形のよい唇。それを見つめながら、学校の帰り道にカナトくんとした会話を思い出した。何時何分に自分の部屋で待っていてね、というような事を私はカナトくんに約束してもらった。それから、今テーブルの上を占拠している甘い香りのそれらを私が来るまで絶対に口にしないで、とも。
 カナトくんが目の前にしているのは、彼の大好きな甘いチョコレート菓子たち。カナトくんのイライラの原因の2割くらいは、それらを口に運ぶのをもう待ちきれなかったからに違いない。ぎゅっと紙袋を握る手に知らず力が入る。

 結果私はカナトくんに待っていてとお願いした時間よりも10分も遅れて彼の部屋を訪れる事となる。そんなことをしたら当然だけど、カナトくんは本当に機嫌が悪そうでぎゅと寄せた眉毛が今にもくっついちゃうんじゃないかってくらい。イライラの原因の後の8割は、待たされた事に対しての憤り。




「で、約束を破ったのには何か理由があるはずですよね。今すぐ洗いざらい話してください。下らない理由なら承知しませんよ」
「それはね」




 ごくりと唾を飲み込む。言わなきゃいけないとわかっていても、その理由を言葉にするにはやっぱり勇気が必要だった。



「アヤトくんとライトくんに会っていたの」
「アヤトと、ライト?」




 ごとん、だか、どこっ、だか。
 その鈍い音が鳴り響いたのは、二人の名前を口にしたのとほぼ同時。カナトくんが手元のチョコレートプリンを、床にはたきおとした音だった。絨毯に中身をぶちまけたぐちゃぐちゃのチョコレートプリンは、何だか惨めったらしい物に見えてくる。それからカナトくんはトリュフやボンボン、ザッハトルテやブラウニー、数々のチョコレート菓子を本能の赴くまま、破壊の限りを尽くして床に叩きつけ、ヒステリックな叫びをあげる。




「ふざけるな! 君は僕を待たせて他の男の所にいっていたんですか? そんな事をされたら僕がどんな気持ちになるか、君は考えもしなかったんだ! どうせ君は僕のことなんかどうでもいいんでしょうね、どうせ僕なんか……名前さんのくせに……」
「ま、まって違うのカナトくん」
「何が違うんだ!」


 酷く錯乱した様子のカナト君の叫び声が、びりびりと叩きつけられる。ああ、カナトくんの事を哀しませてしまった。酷く切ない気分になる。床に散乱したチョコレートたちを踏みしめながら、慌ててカナトくんの傍へ駆けた。テーブルの上の山をあらかた綺麗にし終えたカナトくんは今度はテディに顔を埋め肩をぷるぷるさせていて、私はその肩を撫でさする。カナト君、泣かないで。ずっと背中に隠していた紙袋を差し出して、テディの奥に隠れてしまったカナトくんの瞳を、下から覗き込んだ。




「カナトくん、聞いて」




 半分だけ顔を覗かせてくれたカナトくんを愛しく思う。涙に潤んだ瞳を見つめながら、できるだけ優しい声が出るように努めた。



「今日はバレンタインデーだから、カナト君に何か、素敵なプレゼントを渡したくて。でも私には何を渡したらいいのか見当がつかなかったから。だから二人に聞きに行ったんだよ」
「……どうしてアヤトとライトなの?」
「三つ子の兄弟なら好みも知っているかなって。でも結局知らないって言われちゃったから自分で考えて用意をするのに、ちょっと時間がかかっちゃった」




 こんな説明じゃ納得なんかしてくれないだろうけど、涙の滲む上目使いでこちらを見上げたカナトくんの瞳の奥の狂気は、少しだけ収まったみたい。ぐすりと鼻水をすすってから、テディの向こうに隠れてしまった顔の全てを、私に見せてくれた。


「じゃあ君は、僕の為にアヤトとライトのところに?」
「うん、そうだよ」
「そうですか」




 涙声とはうってかわって、カナトくんが落ち着き払った声で言う。
 ややあって、右腕に鈍い痛み。カナトくんの肩を撫でていた方の腕だった。もっとも、何が起こったか理解するまでに随分時間がかかったから、痛みを感じたのとそれが起こったのには若干のタイムラグがあったのかもしれない。痛みの元を突き止めようと腕に視線をやれば、フォークが自分の二の腕の柔らかい部分につきたっている光景。途端に鈍かった痛みが刺すような鋭い痛みとなって、身体中を這いずり回る。皮膚を裂き、柔らかい肉の部分に深く沈みこむ銀色のフォークの先端。誕生日を迎えた子供がショートケーキの苺に思いっきりフォークを突き立てる瞬間のように、無邪気にフォークを突き立てたのは、カナトくんだった。そのフォークはきっと、今は床で崩れ落ちているザッハトルテを食べるために用意した物に違いない。




「っ、……ぁ!」
「ふふ、痛いですか、それはそうでしょうね。ほら、フォークがこんなに深くまでねじ込まれていますよ。でも僕が今受けた傷はこんなものじゃない」
「カナト……く、いた……やめ……」
「痛い? じゃあ、僕に謝るべきですよね?」
「……ご、ごめんなさ……っ」
「聞こえないんですよ!」




 ぐりぐりとフォークの柄を回されて、肉を擂り潰されたような感覚に見舞われる。あまりの痛さに全身から力が抜けて、紙袋が床のチョコレートの海にダイブした。私は、ごめんなさい、ごめんなさいと何度も何度も夢中になって泣き叫んでいた。謝罪を受けて一応はフォークを抜いてくれたけれど、カナトくんはそれでも納得していない様子。隈の深く刻まれた目に、収まらぬ害意をたぎらせている。




「他の男に会いに行って僕が喜ぶと思うなんて、君は放っておくと、本当にどうしようもない事を考える。それに、よりにもよってアヤトとライトのところにだなんて」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「なんですか、こんな酷いことをしておいて、僕に許されたいんですか。浅ましい人ですね。だけど、一応は僕の為にした行動だったみたいだから」


 言葉を一端切ると、半分以上が赤くなっている私の腕を粗っぽい手つきで掴む。ぽたぽたと垂れている血を暫く見つめたのち、ふいにペロリと舐めあげた。肌をすべる舌の生暖かさと吐息、そして傷口にわざと擦り付けるような舌使い。全身にびりびり痺れるような感覚が走る。体が熱くて脳みそがじんじん言っている。


「君が、僕の欲しいものを一つくれるっていうのならば許してあげてもいいですよ」




 腕を解放されてもまだ血は止まらなくて、ぼたぼたとチョコレートの海に垂れ流れ続けている。だけど感覚は麻痺していて、痛みさえまともに感じない。
 私を捕らえて離さない長いまつげの生えた瞳に私はゆっくりとうなずいていた。毎晩私の血液を吸い上げるその綺麗な形の唇が、歪むように吊り上がるのが見える。




「わかった」
「僕の欲しいものを先に聞かなくてもいいんですか。僕は名前さんの命を下さい、と言うかもしれませんよ」
「それでもいいよ。わたしが、カナトくんを悲しませちゃったんだもん、償わなくちゃ。私が差し出せる物なら何でも、カナトくんにあげる」




 満足そうに下がってゆく目尻に、酷く満たされるような気持ちを覚えた。

 カナトくんのためなら私はいつだって、何かの代償じゃなくたって、私の持ちうるもの全てを差し出すだろう。私の体とこころ、全てはとっくに目の前のこのヴァンパイアに捧げられている。だからそんなのは、今さらな話だった。カナトくんはそれを分かっていて、たまに私を試すような意地悪を言う。私の身体中の細胞全て、カナトくんの為に生きているのに。

 むしろ私の方が常日頃心配の種を抱え、それに蝕まれていた。カナトくんの綺麗な瞳が、他の女の子をうつしてはいないか。その綺麗な唇が、他の女の子の血を吸ってはいないか。だからわたしは、ときどきカナトくんの意地悪の仕返しをしたくなる。




「でもね、お願いがひとつだけあるの」
「お願い? やっぱり死ぬのは怖いから命だけは奪わないでとでも言うつもりですか?」
「ううん、そうじゃない。わたしがカナトくんの欲しいものを一つ差し出したら、代わりにわたしのお願いをひとつ、聞いてほしいの」
「お詫びに差し出せと言っているのに、それに対して”代わりに”だなんて。君って本当に図々しい人ですね」
「ごめんなさい」
「今日はバレンタインデーで、君は僕にプレゼントを持ってきてくれたんでしたねよね?」
「うん」


 床に落ちた紙袋を見つめるけれど、カナトくんはそれを拾おうとはしなかった。

「仕方がないですね。だったら、少し早いホワイトデーのお返しとして、聞くだけなら聞いてあげてもいいですよ。君のお願い」
「ほんと?」
「はい、言ってみてください」


 私も床のうえに視線を落とす。絨毯の上で噎せ返るような甘い臭いを放つ、見るも無惨なチョコレート。カナトくんに床に叩きつけられ、私に踏み荒らされ、可哀想なその姿。




「このチョコレートたちを、燃やしてほしいの」



 最早それらは、口に出来るような代物ではなかった。だけど、まだ足りない。カナトくんの灼熱の炎で、灰も残らないくらい、燃やし尽くして欲しい。このチョコレートたちは、この世に存在してはならない物なのだから。




「ああ、なんだ、そんな簡単なお願いなんですか」




 全ての事情を把握したとでも言うような口調で、カナトくんが目を細める。その声色はやけに、上機嫌に聞こえたのはわたしの妄想なんだろうか。




「特別に叶えてあげすよ、君のお願い」




 休み時間から感じていたわたしの醜くて身勝手な、こころの暗い部分。胸の奥にどろどろと絡みいた汚いうす緑色をした膿のような感情がすぅっと体の外に排出されるような感覚だった。カナトくんの一言一言で、こんなにも感情が浮き沈みしている現金な自分が嫌になる。だけど頭のてっぺんから脚の爪の先まで私のすべてをカナトくんに支配されているようで、喜ばしく感じている自分も確かに存在するのだ。

 休み時間。バレンタインデーということもあってか甘い香りを漂わせる校内。同じクラスの佐々木さんが持っていたザッハトルテの行方を、私は知っている。隣のクラスの進藤さんのトリュフチョコレートの行方も、下級生の内山さんのブラウニーの行方も、上級生の吉川先輩のチョコレートプリンの行方だって。甘いものをこよなく愛する彼は、そのチョコレートに込められた乙女たちの胸焼けするように甘い思惑なんか考えもせず、全てを受け入れてしまった。

 それから私はずっと、不快感と嫌悪感で胸がいっぱいだった。その感情があまりにも大きいものだから、明日には心臓が弾けてどろどろとした膿が飛び出してくるんじゃないかと心配したくらい。

 だけど不思議。カナトくんが指をぱちんと鳴らしただけで、目の前に現れて揺らめく炎に焼かれ、醜いこの感情がじくじくと焼かれ灰になってゆく。ぱちぱちとはぜる炎。乙女たちの想いを根こそぎ焼き付くすその炎は、わたしの目にはなによりも綺麗で尊いものに見える。酷く心地がいい時間だった。




「綺麗な炎」




 チョコレートを全ての飲み込み尽くした炎がすうっと消えた。不思議な事に絨毯は黒い煤みたいな跡が少し残っただけで、殆んど被害がない。これもきっとカナト君のヴァンパイアとしての力。




「満足ですか?」
「うん」
「ふふ、じゃあ今度は僕の欲しいものを下さい」




 余韻に浸るように炎が消えた後もうっとりと空を見つめていた。カナトくんのその愛しい声で、やっとで我に返る。フォークからスプーンへと持ち変えたカナトくんは、スプーンを私の方へとつきだし言った。




「君の、目玉が欲しいです」


 それは、チョコレートよりもよっぽど甘い囁きとして、すでに夢心地の私をあまやかに溶かしてゆく。


「君は放っておくと直ぐに余計な物を目に映す。そして余計な考えをおこす。だから君の目玉は僕が預かってあげますよ。そうしたら君の瞳は、僕だけしか見えなくなる」




 こんな幸せな事はないでしょう? と、カナトくんは優しくて無邪気な笑顔を浮かべた。

 ほんとうに私は幸せだ。もしかしたらカナトくんは、私の嘘に、気がついているのかもしれない。

 アヤトくんやライトくんに会いに行ったっていうのは嘘、カナト君の部屋に遅れて現れたのも嘘。わざと10分遅く部屋を出た。
 わたしにとってカナト君との過ごす時間は、何よりも大切な宝物だ。それを差し置いて他の人との時間を優先するだなんて、そんな事はやむを得ない理由でもない限りはあり得ない。ましてや遅刻をして自ら大切な時間を短めるようなミスを犯すだなんて。ちくたくと刻む秒針とにらめっこをして、今か今かとカナト君に会える時間を待ちわびている瞬間の私が聞いたら、何を言っているんだと憤慨するだろう。



 全ての計画は、佐々木さんが赤い頬でカナトくんにザッハトルテを渡したその瞬間に思い付いた。
 その時私はカナトくんの隣で、恋は女の子を綺麗にするというのは本当かもしれないと、思い知らされていた。カナトくんの整った形をした桜貝みたいな爪、細くて白い綺麗な指先が、ラッピングを施した少し大きめのその箱に触れた瞬間。箱を差し出す佐々木さんの指とカナト君の指とがくっついた刹那の彼女の反応は、どんな女の子よりも可愛く思えた。
 最終的にその箱がカナトくんの両手に収まった時の彼女の笑顔なんか、同じクラスに居て今まで見たことがないくらいにきらきらと眩しくて、醜い感情を抱いた私の心臓をじりじりと焼いきつくそうとしていた。
 隣の私の存在なんかまるで気づいていない様子でくるりと背を向け走り去っていく佐々木さんの背中を見つめながら、私は心の中で計画の骨組みを密やかに組み立て始めていた。

 吉川先輩がチョコレートブランド店の高級感溢れる袋に入った、最近話題のチョコレートプリンを持ってくる頃には、わたしの計画は既に完成一歩手前まで組み立てを完了していた。



 わざと遅刻をして、その理由にアヤトくんとライトくんの名前を出そう。そうすればカナトくんは手をつけられないほどに激昂するだろう。頭が足りない馬鹿だ馬鹿だとカナトくんに有り難いお説教を賜り続けている私でも、それくらいなら予想がつく。

 カナトくんは私を許す条件として、きっと何か代償を要求してくる。ここまでが、ここ最近は誰よりも長い時間カナトくんと時間を共有してきたという自負がある、私の読みだった。

 その代償が、血が、はたまた命か。

 何であるかは流石に予想がつかなかったけれど、何であったにせよ一ミリも迷うこと無く彼に差し出せる自信が私にはあった。カナトくんにチョコレートを渡した彼女たちでは、絶対にこんな事は出来ないだろう。これは大好きなカナトくんへ向けての、精一杯のラブコール。

 カナトくんにお願いを叩きつけるのは、その瞬間。わたしがカナトくんに何かを差し出す代わりに、一つお願いを聞いてもらう。今日貰った山のようなチョコレート全部、全てカナトくんの手で、この世から抹消ほしい。誰かからの想いの籠ったチョコレートが一瞬でもカナトくんの舌の上を滑り、彼のお腹を満たすだなんて、考えただけで吐き気がする。見たくない。そんな光景を見せつけられるなら死んだ方がまし。

 私の中で絡み付いて大きくなる一方のこの膿は、もはやカナトくん自身がそれを破棄している所を目にしないと出ていってくれないと、ザッハトルテを綺麗に包み込む、赤いリボンのカールした先っぽを目にした瞬間に直感した。だけど、甘い物が好きなカナト君からチョコレートを取り上げるなんてちょっとの事では無理。一か八か、この計画は賭けだった。

 10円で買えるチロルチョコレートみたいに、安っぽい嫉妬。だけどわたしはブランド物のチョコレートみたいに、高級な嫉妬の仕方なんか分からない。




「じゃあ、痛いと思いますけど、あまり煩くしないでくださいね」


 カナトくんのその言葉を合図に、握られたスプーンの先端が近づいてきた。私はそれを見つめながら、瞬きはしたらいけないのかなぁ、なんて事を考えて、最後の瞬間はスプーンの先なんかじゃなくやっぱりカナトくんのその綺麗な顔を刻み付けておくべきだと考え至る。もう完璧な形では見れなくなるかもしれない絹糸みたいにさらさらした髪の毛も、お人形さんみたいに長いまつげも、宝石みたいに大きな瞳も、その下に刻まれた隈も、鼻骨の形や唇の形、不健康な色をしたキメ細やかな肌、私の愛したものすべて、忘れることのないように。

 じっとカナトくんをうつす右目に、さっきチョコレートプリンをすくっていたのと同じ要領で、さっくりとスプーンが差し込まれる。流石のカナトくんもさっきよりは幾分か慎重な手付きだったように思う。目の奥でちかちかと弾けた痛みのおかげで、よくわからなかったけれど。目の前のカナトくんの一挙手一投足余すことなく全て記憶に記録していたいのに、痛みで何も分からない。言われたばかりなのに、私はみっともなく叫び声をあげていた。カナトくんがいつも煩いと嫌う叫び声よりも、もっと大きかったかもしれない。ぶちぶちぶち、神経が一つ一つ、ぷつりぷつりと千切れていく感覚がわかった。目の前は真っ白で真っ赤で真っ黒で、頭の中はとにかくぐちゃぐちゃ。後は痛みと、カナトくんへと愛情だけが渦巻いてる。目玉がついに身体から離れるときまでわたしはカナトくんの事を考えていた。



「……ぁ、……ぐ、……ぁ」


 ひとしきり叫んで声も枯れ果てた私は出血の止まない右目を押さえ込み、床に踞る。何度も何度も、見慣れたカナトくんの部屋の絨毯。ただでさえ痛みでもうろうとしているのに、出血多量が重なったと来れば一つになってしまった目玉にうつるのは元のものとは比べ物にらなないくらいにぐにゃんぐにゃんに歪んだ輪郭だ。




「……ああ、綺麗ですね、名前さんの目玉は……」


 恍惚とした響きを帯びた愛しい声は、視力を半分失った今のわたしにも変わらず聞こえる。弾かれるように顔を上げれば、まるで宝物でも手に入れたみたいに、光に向けて親指と人差し指の間に摘まんだそれを翳したカナトくんが、歪んだ視界の中で笑っていた。その笑顔が愛しいものに注がれれる無二のものに見えたのは、痛みが見せた幻だろうか。


「これで、名前さんのこの瞳は一生、僕だけを見続ける事になりました」


 ふだんは定規で引いたみたいに抑揚のない声をだすカナト君にはめずらしい、上ずった声だった。わたしはまた、満たされるような気持ちを抱く。失ったものよりも、得たもの方が大きかった。これは確信だ。




「……あまいにおいがする。ああ、酷い出血ですね、勿体ない」




 ぼたぼたと絨毯を赤く染め始めた血の臭いに、つられたようにカナトくんが近づいてくる。そのまま歪んだカナトくんの姿が大きくなって、床にしゃがみこんだ私と同じ目線まで降りてくるのにそう時間は掛からなかった。右目を押さえ込む私の両手を、手首を掴んで無理矢理に引き剥がす。もうすっかりと赤色に染まった掌にキスをして、掌のしわや五本の指の間に溜まった血を吸ったり舐めたり、ちゅっと小さな音をたてながらまたキスをしたり。いつになく優しいその行為に、わたしは泣き笑いのような顔になってしまう。




「まるで赤い涙みたいですね」


 目玉を無くした眼窩から頬に、肩に、胸に、床に、だらだらと垂れる血液を見つめ、カナトくんが言う。


「……だとしたら、これは、きっと、……嬉し涙だよ」
「君にしては気の効いた事が言えるじゃないですか」




 ご褒美だとばかりに右の頬を舐め上げて、流れる涙の源にキスをする。じゅるじゅると音をたてながら夢中になって喉を上下しているカナトくんに、もう痛みなんかどうでもよくなっていた。カナトくんの両手や唇や首もとや毛先やレースのついた白かったはずの襟元まで、私とおそろいの色。



「……ん、甘い。目玉を一つ失った後だというのに、君の血は変わらず甘いんですね。チョコレートなんかよりもずっと甘くて、よっぽど美味しい」




 こんなにも私の感情をさざめかせるのは、カナトくんの声だけだと思う。休み時間から考えると、今の私は有り得ないほどに上機嫌だ。やっぱりカナトくんの部屋の扉は他の数ある扉の中でもいっとうに特別なんだなと思う。私はまた、甘くてほろ苦い、宝物のような一時を手に入れた。


 ひとしきり血を飲んだ後、カナトくんは完全に燃え尽きて灰も無くなったチョコレートの中から、ひとつだけ残った紙袋を拾い上げる。中を覗いて少しも驚いた風もないその様子から、やっぱりカナトくんはあの紙袋に中身なんか初めから入っていなかった事に気づいていたんだなと思った。
 紙袋に目玉を放り込むと、朦朧とした意識の中床に倒れ込んだ私に向けとびっきりの笑顔をくれる貴方が愛しい。大好き。




「素敵なプレゼントをありがとうございます。ハッピーバレンタインデー、名前さん」




20130220

   

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