「よお、やっと目覚めたのか」




 私の始まりの記憶は、アヤトくんの言葉から始まる。その日だって彼は、いつもやってくる次の日を迎えたかのように、何気ない挨拶だというように、覚醒した私を翡翠石の瞳で覗き込んでいた。うすぼんやりとした視界の中に浮かぶ鮮やかな赤や翠を眺めながら、徐々に自分の意識が現実世界へと引きずり出されるのを感じる。そして思ったのが、彼は、誰だっただろうか。そんな考え。
 ながい睫毛に筋の通った鼻、余裕たっぷりにつり上がった口許。思い出そうとしても白いフィルターのようなものがかかっていて、思考が働かない。つまり、彼は自分の知らない人間なのだ。彼を瞳に写してから時間にして数秒かかりそう答えを導き出した私が次に疑問におもう事は決まりきっていた。なんで、知らないひとが目覚めたら隣で横になっているのかという、大問題について。



「ったく、いつまでたっても眠ってるからたたきおこしてやろうかと思ったぜ」
「あ、あなた、誰なんで――!?」



 口を開いた瞬間から多少タイムラグがあって、顔面に激痛が走った。口を動かせば動かすほどくちびるに貼り付いて他の皮膚が引き摺られ、裂けるような痛み。それで脳みそにうすぼんやりとかかっていた白いフィルターのようなものが、取り払われてしまった。ずきん、ずきん。鼓動がなるごとに呼応するかのように、顔や体いたるところの神経が、焼ききれるような痛みを伝えてくる。訳もわからず一番傷む顔面を撫でさすろうとして、でも少し動くだけで痛くて、それからは半分丸まったような体制のままじっとしていた。痛みが収まるような様子はなくて、余りの痛さに見開いた瞳から涙がこぼれてきた。それは痛みを和らげるどころか新たな痛みの火種にしかならなかったのだけれど。伝う涙は痕跡を残すかのごとくひどくしみる。それが限界への王手となった。ついに喉の奥から呻き声が漏れてきた。いたい、いたい、繰り返すように呟く。そうするとまたひきつった頬の肉が動いて痛い。


「そうとう痛いみてぇだな。だからさ、オレが言ったのによ」


 隣の名前も知らぬ彼が何か言っているけれど、よく聞き取れない。私の中の全ての感情が痛みという感覚に奪われていて、それ以外の事は世界の外側に追いやられたように虚ろにうつる。この場所が何処なのかとか彼が誰なのかとか、考える余裕は無かった。まるで生きたまま全身を焼かれているようだ。

 それからどのくらいの時間が経過したのか。一秒だったのか一日だったのかすら私には判断がつかない。ただ、私の中では経験が及ばぬほどの長さに感じる時間、痛みに耐え抜いていた。何度も何度も現実と無意識の境目にたまった心地よい暗い海の中をさ迷っては、痛みで現実に引き戻されてを繰り返して、およそ五回目に現実へと帰還した時の事だった。
 口の中に、何か違和感を感じる。
 ざらざらとした感触の湿ったものが、舌の上に乗っかっている。乗っかったそれが、私の乾ききった舌に僅かな潤いを与えていた。砂漠で出会ったオアシスのように、ぐったりと消耗しきった私の心と体に、少しだけ余裕が出来たような気がした。

 それの正体を知ったのは、また次に目覚めた時の事。存在すらも忘れかけていた隣にいた少年が私を覗き込んでいる。ふいに彼から伸びてきた指先。そこにはガーゼのようなものがつままれていて、今にも落ちそうな水滴が重力に従ってぶら下がっている。ガーゼには、たっぷりの水が含まれているようだった。ガーゼをつまんだ手とは別のもう一方のそれも伸びてきて、顎の辺りを掴まれる。触れた部分から伝った激痛に肩を跳ねさせている隙に下顎をゆっくりと引っ張られて、あいたくちびるにガーゼがふれた。しっとりとした冷たさが心地良い。そのままガーゼは口内に押し込まれて、舌の上に収まったのを確認すると、彼の両手もすぐさま離れていった。乾ききった喉が、潤されてゆく。どうやら彼は、こうやって私に水を飲ませてくれているようだった。

 それからは意識が現実に戻るたび、痛みのことと共に、隣で看病をしてくれている、謎の彼のことも考えるようになった。彼のしてくれることと言えばガーゼに湿らせた水を飲ませてくれる事か、二、三声をかける事だけ。痛みの正体を治療するだとかいう様子は、一切みられない。朦朧とした意識ではかけてくれる言葉も殆どがよく聞き取れなかったけれど、聞き取れても病人にかけるものとは思えない乱暴な言葉だったような気がする。触れてくる手つきも凡そスムーズとは言い難く、きっとこういう事には慣れていないんだろうなと思う。ここは病院でも、ましてや彼はお医者様でもない。

 八回目の帰還の際、やっとで口が開けるような気分になってきた。正体不明のこの激痛も、一応は回復しているみたいだった。


「……あの」
「……お、」


 例のごとくガーゼを口に運ぶ一連の作業をこなしていた彼は、口を自ら開いた私に驚くようにして、すぐくちびるの近くまで来ていた指先の動きを停止した。


「んだぁ、やっと喋れるようになったのか」
「……ここ、は……」


 やはり普通のようには喋れないみたいで、単語を捻り出すようにして彼に意思を伝えようとつとめる。最初よりは随分ましになった痛みも、口を動かしたらやっぱり響くように熱をもつ。彼がじっと耳を傾けてくれている事だけが幸いだ。


「ここ、……は、いったい、どこなんですか……? この、痛みは、なんなんで、すか……?」
「もしかしてオマエ、忘れてんのか?」


 意外というような口ぶりではあったけれど、顔はちっとも驚いてなんか居なかった。


「オマエさ、火傷したんだよ。覚えてないか? そりゃあ酷いもんだったんだぜ?」
「……や、けど?」
「そ、んで、オレ様が看病してやったワケ。つってもどーすればいいか検討もつかなかったから、上から包帯でぐるぐるまきにしてやっただけだけどな」


 からからとわらった彼の態度からは事態の深刻さは伝わってこない。火傷。やっとで判明した激痛の正体は、思ったよりも深刻なものだった。焼けつくように熱をもったまとわりつくようなそれには、ぴったりのような気もするけれど。けれど全く思い出せない。


「つーかさ、ホントに思い出せねぇわけ? ま、人間なんて弱ェ生き物、都合の悪い事は忘れなきゃ、すぐ壊れちまうからしかたねーのか」
「……あなた、は」
「ん? つーか名前、なんでさっきから敬語なんだよ」


 ここで初めて彼の顔に怪訝な色がさした。今まで眺めてきて、ずっと余裕たっぷりにつり上がっていた口許が、初めて余裕を消してしまったのだ。何故だか目の前のひとは私の事を知っているように話す。だけど私には彼が誰だか分からない。それが何だか無性に恐ろしい事に感じる。もしかしたら、私は火傷をした瞬間と同時に彼の記憶も手放してしまったというのか。


「……あなたは、だれ、なの?」


 向き合って横たわる二人の間に、僅かな沈黙が満ちた。彼はひどく驚いた顔をしていたし、私もそんな彼に驚いていた。


「もしかして、痛みとショックで全部ぶっ飛んじまったのか? ……くそ、まさかオレ様の事すらわかんねーとはな」


 がりがりと鮮やかな赤色をした髪の毛をかきむしる彼を、どこか他人事のように眺めていた。知らない、彼は、知らないひとだ。忘れているもなにも、いくら記憶を探ろうが、最初から存在しないみたいに、ない。記憶に存在しないものを信じろと言われてもすぐには無理な話で、けれど彼の言う通り、火傷らしき傷をおっている事は事実で、朦朧とした頭で考えても混乱が増すだけだった。


「……っ、あなたのこと、しらない、よ」
「オマエさ、あれなんじゃねーの? なんだっけ、キオクソーシツとかいうやつ? そこまでしねーと精神保てねぇなんて、人間っつーのも相当厄介だな」
「……そ、んな、はず……」
「ふーん。じゃあさ、オマエ思い出せるわけ? 自分がどこの誰で、今までどうやって過ごしてきたのかを、さ」


 最初は、何を当たり前のことを言っているんだろうと思った。自分が誰で、何者なのかなんて、振り返るまでもない話なのだから。けれど言われる通りに記憶を探ってみて、戦慄した。存在しなかった。私の頭の中は、彼の存在どころか、中身を全て取り出したみたいに、空っぽ。
 私の記憶の全ては、目が覚めて彼に話しかけられた場面から始まっていた。いくら辿ってもそれ以前の記憶は書き入れる前の画用紙のように真っ白で、消し痕すら見つけられない。



20130325

   

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