「……っあ、う、ああ……。や、やめて、お願いだから、もうやめてよ。それ以上やったら、死んじゃう……!」

 そうアズサくんの傷付いた腕に飛び付けたのは、結局、壁掛け時計の秒針が随分と音を刻んだ後の事。
 傷を抉ったナイフがついに大切な血管を傷つけたのか、ナイフを引き抜いた瞬間に、噴水のように血が吹き出してきたのを見て、我に返る。悲鳴を押し止めてすがりつくわたしに、アズサくんは不思議そうな顔をしていた。

「……このくらいの血で、死ぬわけないでしょ……」
「そんなことない……!」
「ふうん。でも俺は、大丈夫だから」

 しがみついたわたしを暫く見下ろしたあと、アズサくんはわたしの肩を押して、ベッドに転がした。アズサくんを映していたはずの視界に、自室の天井が広がる。
 アズサくんが身体の上に乗り上げると、ぎりしとスプリングが嫌な音を立てた。逃げ場を塞ぐみたいに、顔の横に二つの手を置いて、アズサくんの身体が覆い被さってくる。顔のすぐ横にあるアズサくんの手首からはどくどくと血が溢れているのに、目の前にあるアズサくんは平然としていて、もう訳が分からない。

「ねえ、どうしたら君は俺から逃げなくなるの? やっぱり、痛いのが足りないからかな?」

 目の前のアズサくんのくちびるが動き、そんな言葉を紡ぎ出す。ナイフの切っ先は今度、シーツに投げ出されていたわたしの腕の傷を抉りにかかった。殴られたような強い衝撃と、鋭い痛みに目の前がちかちかと輝く。引き抜いて、二度、三度、とそれを繰り返す。

「ぅ、あっ、い、いたい、いたい、いたい! やめて、アズサくん……!」
「やだ。止めたら、君が逃げていっちゃうから。ふふ、痛みで流れた君の涙は、きらきらしてて、綺麗だね……。んっ」
「……ぁ、ぐっ」

 涙を舐めとりながら、なおもナイフを突き立てる作業を止めない彼は、何かに憑かれている様にも見える。じいんとした衝撃が何度も続き、痛いという感覚もすでに無くなってきた頃に、アズサくんはナイフを真っ赤に染まったシーツに、放った。

「逃がさない、絶対にどこにも行かせないよ、……俺の大切な、名前さん」

 シーツと背中との間に腕を差し入れられ、ぎゅうっと抱き締められた。耳許で囁かれた言葉が、まるで恋人に贈るような甘い響きを帯びていて、痛みでぐにゃりと歪む自室の天井を見上げ、はあはあと浅い息を繰り返しながら、胸が締め付けられるような感覚を覚える。大切なんて言われたら、勘違いをしてしまう。
 好き、大好き、アズサくんが大好き。どんな事をされても、アズサくんが好き。例えアズサくんがわたしの事を嫌いでも、アズサくんが好き。
 彼の服が血で汚れてしまうかな、と少し迷ったけれど、そんなの今更だ。ゆっくりと、背中に腕を回す。
 望んではいけないと思っていたものに、手を伸ばしてしまった瞬間だ。アズサくんはそれを拒絶するどころか、嬉々として受け入れてしまった。

「……ふふ、嬉しいなあ、君から抱き締めてくれた。やっぱり君は、痛いのが好きなんだね……いま、すごくいい顔をしてる……」

 自分がどんな顔をしてるのかなんて分からないけれど、顔を覗き込んだアズサくんが言うから、そうなんだろうか。痛いのが好き。わたしは、自分が痛い思いをするのも、アズサくんを傷付けるのだって、嫌で嫌で仕方がなかった筈だ。
 だったら何で、この関係を終わらせようって、なかなかアズサくんに言い出せなかったのかな。それは、わたしがこの関係を、本当は終わらせたくなかったからじゃないのだろうか。

「……っ、アズサ、くん……」
「ふふ、やっとでこっちに落ちて来てくれたね……名前さん……」

 耳許でアズサくんがくすくす笑っているのが聞こえる。すぐ近くにあるアズサくんの息遣いを感じながら、ぎゅっと強く、アズサくんにしがみつく。アズサくんの身体は冷たかったけれど、わたしの身体はどんどんと熱くなってゆく。
 耳許で感じていた息遣いが、だんだんと下ってゆく。頬を伝って、顎、首筋と、産毛の先が揺らめいている感覚で、アズサくんを感じる。そのまま、首筋にくちびるを押し当てられた感覚がした。ぺろり、と一回、肌を舐められた。

「ああ、君の、いい匂いがするよ」

 呟くように吐き出された声をわたしの耳が聞き取った瞬間に、つぷり、と何かが首に突き刺さってきたような痛みが襲ってきた。刃を刺し込まれる痛みとはまるで違う、抉じ開けられるような感覚。脳を掴まれたような鮮烈な痛みに両目を見開くけれど、身動きは取れず、天井を見上げる事しか出来ない。訳もわからず、彼の背中に殊更強くしがみついて、ひたすらに耐えた。そうしたら首に刺さっていた異物感がすっと消え、次いで何かに吸い付かれたような感覚が襲ってきた。これは分かる。アズサくんが、首筋に吸い付いているのだ。ナイフで傷をつけた後、彼はこうしていつも、必ず血を舐めたり吸ったりして、飲み込んでしまう。

「……っ、ふ、んん、はあ。……おいしい」

 こくこくと小さな音を立てながら、確かに彼はわたしの血を飲んでいるみたいだった。わたしはアズサくんが喉を鳴らすたびに、可笑しな感覚に襲われていた。丁寧に、なぶるように首筋を這う舌先や、息遣いを感じる度、くすぐったさに息が上がって、アズサくんの背中に回した腕がぴくんと反応してしまいそうになる。ぞわりとした震えが、背筋を駆け巡ってゆく。おかしい、感じたこともない、初めての感覚だ。

「んっ、ふふ、ああ、すごく気持ち良さそうな顔、してる……。こうして気持ちよくしてあげたら、名前さんは俺から逃げなくなるのかな……」

 首に埋めた顔を持ち上げたアズサくんのくちびるの端には、きっとわたしの血であろう赤いものが滲んでいた。ぺろりとそれを舐めとりながら、頬を愛しそうに撫でてくれる。
 気持ちよさそう?
 これは、気持ちがいいという感覚だったのか。妙に納得してしまう。再びアズサくんが首筋に顔を埋めた瞬間に、また何かが突き刺さってきた感覚がして、今度は痛みの中に、はっきりとした快楽をも身体が見つけ出してしまった。可笑しな声が出てしまいそうになるのを堪えるのだけに、神経をもっていかれる。
 これは何? 訳が分からない。

「……ねえ、名前さん、君に、俺の秘密を教えてあげる……。ルキは言っちゃ駄目っていうけど、君にだけは、言いたいんだ……」
「アズサくんの、秘密……?」
「うん」

 再び顔を上げたアズサくんが、わたしを覗き込み、悪戯っ子のような笑顔をみせる。アズサくんにしては珍しい表情だな、なんて、頭がぼおっとしていたわたしは、そんな事しか考えられなかった。

「俺、ヴァンパイアなんだ」

 にこり、彼が笑えば、犬歯というには鋭すぎるものが、くちびるの端からこちらを覗き込んだ。

「だから、もっと血をちょうだい。……いいよね?」

 もう一度、顔が近づいてきて、首筋にかじりつかれる。つぷり、肌を破き肉を割って、アズサくんの口内できらめくそれがわたしの中に入り込んでくるヴィジョンが浮かび上がる。
 ヴァンパイア、その存在の有無を論じる余裕なんて無いままに、息を詰め、ヴァンパイア、と小さく呟く事しか出来なかった。そうだよ、と返事を返し、溢れ出た血に舌を這わせるアズサくん。ぴりぴりとした快楽が、じんわりと身体の芯をゆさぶった。
 ヴァンパイアだから、アズサくんはあんなに血を流しても、平気でいるのだろうか、なんて考えながら。

「ん、……っ、んんっ、はあ。おいしい、名前さんの血は、すごぐ、すごく、おいしい。もっと飲みたい、全部、全部、俺のものにしちゃいたい……」

 わたしは今、ヴァンパイアに血を吸われているのか。なんて他人事のように思う。ヴァンパイアがどうとかよりも、彼が無神アズサくんだという事の方が、わたしには重要だったから。
 おいしい、おいしい、と言って血を啜るアズサくんを見ていたら、気持ち良さと共に、胸にじんわりとした気持ちが広がっていった。考えてはいけない事を、考えてしまいそうだ。否、もうわたしは、考えてしまっている。
 アズサくんは背中に回るわたしの腕をひっぱって、そこに出来た傷から流れている血にも、舌を這わせた。いとおしそうなとろんとした眼差しと、優しい舌使い。
 考えてはいけない事なのに、わたしの頭にはある可能性が顔を出している。
 それは、アズサくんと関わる前の自分だったら、絶対に考えられないような事で、わたしの中の理性はその可能性を必死に追い出そうとしていたけれど、血を失いすぎたのか、ぼんやりとしている今のわたしは、烏滸がましい、自分に都合の良すぎる考えなのに、そうとしか考えられないんじゃないか、って気持ちになっているのだ。
 ちゅっと音を立て、アズサくんがわたしの腕からくちびるを離した隙を見て、わたしはゆっくりと口を開いた。

「もしかして、アズサくんは、わたしの事が、………………好き、なの?」

 虚ろな瞳が愛しそうに細くなり、赤く染まった薄いくちびるの両端が吊り上がっていくのを見た。
 答えをくれるように、アズサくんは再び首に顔を埋め、牙を何度も、何度も、突き刺した。そのたびに身体中を支配する僅かな痛みと快楽とが、わたしにアズサくんの気持ちを伝えてくれる。
 傷付いた腕や、ベッドに押し付けられた背中、噛みつかれた首が、痛くて、痛くて、痛みを感じる度、それがアズサくんがわたしを必要としてくれている証のような気がして、嬉しくてどうしようもなくなる。
 アズサくんと一緒にいる時、何処か歯車が噛み合わないような心地を覚えていた意味に、わたしはようやく気がついた。そう思えば、今までのアズサくんの不可思議な言動の全てに、理解がいくような気がした。かちりと、わたしの歯車と、アズサくんの歯車とが、正しい位置に導かれた。

「わたしは、アズサくんを好きでいても、いいのかな……?」

 もう一度、わたしを押し潰そうとでもしているかのようにぴったりと乗っかっている身体に、抱きついた。首筋をねっとりと滑る舌が、その答えをくれる。身体を満たす幸福感に、わたしはぎゅうっと目を瞑る。














「名前、そろそろ夕食よ。お粥を作ったけど、食べられそう?」

 二回続いたノックの音と、ドアの外から聞こえてくる母親の声。まるで膜がかかったように遠くの音に聞こえたのは、アズサくんの牙にすっかり翻弄されてぼんやりとしていたからだ。ドアが開かれる音が聞こえた瞬間には、ぼんやりとした頭でも流石にこれはまずいと気がついて、乗っかっている筈のアズサくんの身体を押し、目を開く。
 すかり、押し出した両手はなんの手応えも無いままに空気を掻いた。

「なあに、変な格好をして、夢でも見ていたの? 布団も被らずに寝ているなんて、風邪が悪化するわよ」

 ぱちん、照明のスイッチをオンにした音。眩しさに、瞑目する。直ぐに目は慣れたけれど、明るくなった室内には、やはりわたしと母以外はいない。
 母は天井に向け両手を押し出して間の抜けた顔をしているわたしに向かい、首を傾げている。ちくたくと刻む秒針の音。壁掛け時計を確認すれば、短針が七の位置、長針は十二と一の間あたりを指し示している。キッチンから聞こえていた母の鼻唄は消え、今、母はわたしの部屋のドアを跨いでいる状態だ。
 先程まですぐ目の前にあった筈のアズサくんの身体が消えていた。わたしの部屋は、無神アズサという違和感を吐き出して、普段通りのわたしの部屋に戻っている。
 ――――夢?
 とてもリアリティーがあったけれど、わたしがつい先程まで体験していたのは、母の言った通り、夢だったのだろうか。だとしたら、納得がいく。あまりにも自分に都合のいい事ばかりが、起こったからだ。わたしは本当に風邪で寝込んでいて、それで、夢を見ていた? だとしたら、どこからが夢で、どこからが現実なのだろうか。さあっと全身からは血の気が引いていった。心臓が、どきどきといって、額には汗が滲んでくる。

「顔色が悪いけど、大丈夫? 一人で食べられる?」

 心配をしてくれた母には申し訳ないけれど、早く一人になって、確認をしたかった。大丈夫だからと言い張ると、母はおかしな顔をして、テーブルの上に夕食のお盆を置いて、部屋を出ていく。
 ドアが閉まるのと同時、ベッドから大慌てで飛び降りる。貧血時のように目の前がくらくらとしたのを無視して、布団を両手で掴みとり、ばさりとベッドから引き剥がした。布団の下に押し込むように寄せられたくしゃくしゃのシーツには赤黒いしみがいくつも出来ていて、それを見た瞬間に先程までの時間が戻ってきたような気がして、胸がどきどきと鳴る。
 背後から僅かに感じる、空気の振動。振り向けば、夜空を映し出す窓は少しだけ開いていて、隙間から爽やかな風が吹いてきていた。ゆっくりと、窓に近付く。
 足を一歩踏み出すたび、胸が期待に揺れる。
 さわりと髪が風に吹かれ、後ろに流れる。顕になった首筋。暗闇を写す窓に反射して、いくつもの丸く小さく真っ赤な傷跡が描かれているのが見えた。愛しいその痕をそっとなぞると、ちくりと小さな痛みが走る。アズサくんの牙が首筋を貫いた瞬間の事を、鮮明に思い出す。

「……やっぱりあれは、夢じゃなかった」

 腕を持ち上げ袖を捲りあげれば、わたしの腕には真新しい赤い傷跡や、ケロイド状に盛り上がった傷跡、様々な傷が刻まれていた。それは、アズサくんと過ごした大切な時間の数々そのものだ。腕にそっとキスを落とす。

「……ありがとう」

 わたしの「ごめんなさい」はアズサくんに受け取ってもらえなかったけれど、アズサくんの「ありがとう」を、わたしはやっとで受け入れる事が出来そうな気がした。

20140117

 

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -