もう、こんな事は止めようよ。


 わたしのおかれた異常というべき現状で、わたしがやるべき事といえば、単純明快だった。それはきっと、この関係が始まった当初から、どこか頭の中では分かっていた答えなのだ。けれど、だからこそ酷く難しい。
 アズサくんにそう一言告げて、それから別の方法で彼に誠意を見せ、償って行くべきなのに。だってこんなの、絶対に間違っているのだから。少なくとも、アズサくんが傷付く必要は少しも無いのだ。
 こんな事、止めよう。
 そう一言、口に出来たら。



「――で、こっちのナイフがバタフライナイフ……。昨日、たっぷりと時間をかけて研いだばかりだから、切れ味は保証するよ……」

 しゃき、と金属の擦れ合う鋭い音が、空気を切り裂いた。刃を剥き出しにしたバタフライナイフが、アズサくんの手中でぎらぎらと煌めいている。
 ことり。家庭科室の調理台の上に整列した何本ものナイフの端に、バタフライナイフが彩りを添える。
 こんなにも沢山の刃物をどうやって持ち運んできたのか、今日のアズサくんは授業が終わるなり「ナイフのコレクションを見せてあげるよ」と、顔を綻ばせた。空いている教室を探し、家庭科室が空いているのを見つけて忍び込み、コレクションの紹介が始まったのはついさっきの筈なのに、並ぶナイフは既に調理台の端から端までを占領しようとしている。整列した凶器を支えるのは、あの調理実習の日に、わたしたちの班が使用していた調理台だ。それが偶然なのかアズサくんの無言の訴えなのかは、わたしには分からない。

「こっちのペティナイフはね……昨日コレクションに加えたばかりの新入りだから、まだ切れ味は試した事が無いんだ……」

 列にもう一本ナイフを加え、ふふ、とアズサくんが笑う。
 彼がナイフの事を、とりわけ切れ味のいいそれをとても愛しているのという事を、わたしは今日知った。わたしはてっきり、わたしに罰を与えるために慣れない刃物屋に入り、ナイフを購入するアズサくんの後ろ姿を想像していたけれど、先程からナイフについてを語るアズサくんの饒舌な言葉は留まる事がなく、付け焼き刃のものとは思えない程だった。

「それで、こっちはボウイナイフ……。大きくてすごく切れ味がいいから、たくさん傷をつける時にオススメ」

 次に愛しそうに彼が指を這わせたナイフは、ボウイナイフという名前らしい。
 ナイフなんて滅多に目にする事もないし、興味だって無かったけれど、こうもずらりと並べられると、用途や目的によってサイズや形状が全く異なっているということを知った。バタフライナイフは洗練された無駄の無いフォルムがきっと、ナイフ愛好家たちに好まれているんじゃないだろうか。その隣に並ぶペティナイフは普段目にする包丁と同じに見えるし、ボウイナイフは刃渡り二十センチかそれ以上ありそうな大降りなサイズに迫力がある。
 けれどやっぱり、わたしにとってはそのどれもが、人を傷つけるための凶器にしか思えなくて、整列するそれらの威圧感に恐怖を感じてしまう。にこにこと楽しそうに紹介をしてくれるアズサくんにそんな事を感じるのは失礼な気がして、なんとか平静を装ってうんうんと頷きながら、機会を伺い続ける。
 ――もう、止めよう。
 鞘を持ち上げぶらぶらとさせているアズサくんに言ったら、彼はどんな反応をするのか。想像するだけで胃がきりきりと痛む。

「ねえ、名前さん」
「……っ、うん」

 コレクションのあらましを解説――といっても、どれだけ切れ味がいいかだけしか語っていなかった気もするけれど、解説を終えたらしいアズサくんの眼差しが、ついにぎらぎらと光るそれらから、わたしに注がれる。わたしがほとんど上の空だった事が、バレてしまってはいないだろうかと肩を震わせてしまったけれど、そんなのは全くの杞憂らしく、アズサくんは尚も上機嫌ににこにことしている。

「君は、どのナイフが好みだった……?」

 両手の指先で整列したそれらを順に弄びながら、アズサくんは視線だけはわたしから外さずに、首を傾げる。
 どれが、と言われても、わたしはナイフに魅力を感じる感性を持ってないらしく、分からないというのが正直な感想だ。けれど、アズサくんが説明をしてくれた最中、いつもよりも上機嫌だった彼の目元が殊更細まり、くちびるの端がつり上がり、眉根は下がり、愛しいものを見るような、そう、彼が傷口を撫でる時とよく似た表情をして説明をしていたナイフなら、とても印象に残っていた。右から三番目、彼が三番目に紹介してくれた、分厚い刃が、並ぶどれにも劣らぬ鋭さを放っているナイフ。柄には繊細な装飾が施されている。
 説明されたばかりの名前も思い出せないのに、アズサくんの表情だけは鮮明に思い浮かぶ。

「……これ、かな」

 アズサくんの顔が頭から離れなくて、無意識に右から三番目のナイフを指差していた。指先を近づけるだけで切れてしまいそうな気がしたから、なるべく距離を取りながら。
 アズサくんは途端に顔を輝かせ、にこりと犬歯を見せて笑う。アズサくんの犬歯はびっくりしてしまう程鋭い。こんな風に近くにいるようになって、知った事だ。

「ふふ、やっぱり、君にも分かるんだね……。俺も、この中では一番、これが好きだよ。……一番、切れ味がいいから。力を込めなくても、肌に吸い込まれるように刃が落ちていくんだ……。ああ、でも、あえて切れ味が悪いナイフで抉るように付けた傷も、とてもいいんだけどね……。ああ、選べないよ……」

 ぶつぶつと呟きながら、アズサくんは迷うように右の端からから左の端まで、コレクション全てに視線を注ぐ。
 結局、選ばれたのは右から三番目のナイフだった。持ち上げた凶器をうっとりと眺め、くちびるを吊り上げる。

「でも、せっかく名前さんが選んでくれたナイフだから……今日はこれの切れ味を再確認する事にしよう……」

 こんな事に慣れてはいけない筈なのに、人間の順能力というのは恐ろしいもので、ナイフの切っ先を向けられても昔みたいに喉が張り付くような恐怖は訪れない。代わりに胸がぎゅうっと締め付けられて、どきどきと言っている。わたしはくちびるをぴくぴくと動かしながら、息を吸ったり、吐いたりを繰り返す。言わなきゃ、言わなきゃ、こんなのは間違ってるんだ。

「ねえ、もうこんなの……」
「今日は君からにする、俺からにする?」

 何度も言い淀みながら、何とか出だしの言葉を吐き出したものの、アズサくんと声が被ってしまった。
 アズサくんもわたしが何かを言いかけたと言うことに気がついたらしく、どうしたの? ときょとんとしている。それからは何も言わず、促すようにじっとこちらを見つめてきた。片手にはしっかりとナイフを握ったまま。
 じっとりとした、何処か絡み付くようないつもの彼の眼差しが、目からわたしの中に侵入して、心臓を乗っ取ってしまったみたいに、どきどきどきどきと鼓動を刻ませる。

「こんなの、こんなの、もう……」

 止めよう。止めるべき。駄目だよ。間違ってる。
 続けるべき言葉はいくつだってあるのに、その次に続く「ごめんなさい」の言葉もきちんと用意できているのに、喉のすぐ奥で沢山の言葉が渋滞を起こしてしまったみたいに、その先が一行に出てきてはくれない。言わなきゃ、言わなきゃ、焦れば焦る程、わたしの喉は声を作る方法を忘れてしまうようで、ぱくぱくと空気を噛む。
 アズサくんはぱちりと瞬きをしてから、ナイフを握り直した。きらり、角度がかわった事により鋭い刃が照明を反射する。あの日、この場所で彼の腕を抉った包丁が、脳裏に描き出される。包帯で固められた彼の真っ白な腕。

「こんなの、」
「?」
「こんなの、もう……」

 もう、嫌だ。










「…………ん」

 今日も、何も言えなかった。大切な事を言い出せず、ずるずると一番楽な方へ流されてしまった。
 罪悪感で満たされた重い頭をゆっくりと傾ければ、膝の上に乗っかったアズサくんの頭が視界に入り込む。目蓋が閉じられ、長いまつげは不健康な程白い頬に影を落としている。疲れ果てて床に座り込んでしまったわたしの膝は確かに、僅かな重みを感じている。
 今日の日課も一通り終えたアズサくんは、やることは終えたとばかりに、寝心地がいいとは思えない膝を枕にして眠りについてしまった。
 血液嗜好症と言っただろうか。血を口にする事を好む、特殊な嗜好の人間がいるらしいという事が、テレビ番組で紹介されていたのを観た。アズサくんはもしかしたら、それなのかもしれない。わたしの腕に傷口が描き出される度、そこから流れ落ちる血を、彼は必ずその口の中にいれ、飲み下してしまう。なんだか、お腹が膨れて眠りについた子供みたいだ。
 今日はいっそう血を流したのか、身体には罪悪感と共に倦怠感も取り巻いている。壁にぐったりと背を預けながら、膝の上ですうすうと寝息を立てるアズサくんをどうする事も出来ず、じっと見下ろす。
 こうしてじっくりアズサくんの顔を眺めるのは初めてかもしれない。鼻の上に小さな傷跡、それが横にすうっと伸びて、頬の横の辺りにも伺える。長い睫毛に、薄いくちびる、痩せた頬。寄った眉間のしわ。不自然なほど白い肌に、不健康そうな目の下の隈。柔らかそうな黒髪は頬にかかり、彼の寝息でゆらゆらと揺れている。

「……う、んん……」

 そっと手を伸ばして、髪をどかしてあげる。指先で感じるアズサくんの髪の柔らかな感触が何だか心地よいな、なんて思ったら、浅く寝息を吐いた彼の眉間のしわが僅かに薄くなった。もしかしたら、彼も気持ちよかったのだろうか。もう一度、触ってみても、良いだろうか。

「……ん、ふふ……」

 どきどきとしながら、再び手を伸ばすと、アズサくんはくすぐったそうに喉を鳴らす。
 先程、わたしとアズサくんとの日課を果たしたままのわたしの腕は、制服の裾が捲り上げられ、包帯が解かれたままだ。素肌に真っ赤な傷口が並んでいるのが嫌でも視界に入って、何だかいけないことをしている気分になる。
 ゆっくりと、髪を梳く。それから頭を撫でたり、頬にそっと触ったりしてみた。アズサくんの髪はさらさらで触り心地がよかったし、頬は冷たくて、なんだか気持ちがよかった。

「……アズサくん……」
「ん、ん……」

 わたしから彼に触れるのは、これが初めてだ。胸がどきどきと言っている。今のわたしはどうかしているみたいだ。指先に、黒く柔らかな髪を絡める。アズサくんが眠っているのをいいことに、何をしているのだろう。彼が起きていたら、とてもこんな事は出来ない。
 嫌いな、憎んでいる人間にこんな風に触れられていると知ったら、罪の痕だらけのこの腕に触れられていると知ったら、きっと彼は気持ち悪く感じるだろう。

「…………ん」
「……っ」

 暫く頭を撫でていると、アズサくんがふいに目蓋を持ち上げた。目が合った。
 わたしは焦りに焦って、口をぱくぱくと何度か開閉してから慌てて腕を引っ込めようとしたけれど、指先がぴくっと動くだけに終わった。アズサくんの指が、気がつけばわたしの腕に絡まっている。

「あ、ご、ごめんなさ――」
「……それ、気持ちがいいね……」
「……え?」
「俺の髪、引っ張ってくれるのかなって、期待してたけど、違ったんだね……。でも、なんだかそれ、気持ちがいいよ……」

 ぐいっと腕を引かれ、彼の頬にわたしの手の甲が宛がわれる形になる。アズサくんは再び目を瞑り、あろう事かわたしの手に頬擦りをしているようにも見える動作をした。なんだか、もっとやって、と催促をしているようにも見える。もしかしてアズサくんはずっと前から起きていたのだろうか。それとも、いまもまだ、寝惚けているのだろうか。
 分からないけれど、いつもと少し様子が違う。
 きょろきょろと視線をさ迷わせていると、眼下の目蓋は再び持ち上がる。

「ああ、名前さんの傷、ここからだとよく見える。すごく、すごく、似合ってる……。すごく、かわいい」

 アズサくんは握ったわたしの手を更に引いて、舌をぺろりと付きだし、腕に引かれた真っ赤な傷を、その舌先でゆっくりとなぞっていった。

「……この、横に伸びた傷は今日つけてあげた傷で、こっちの小さな傷は、昨日の傷。それから、こっちのは一昨日。全部、全部、かわいい……食べちゃいたい……」

 ふふ、とアズサくんが笑うたび、吐息が傷口に吹きかけられる。ひりひりとした痛みが襲ってきて、アズサくんの舌が滑る度、腕がぴくぴくと反応する。アズサくんは真剣そのものみたいで、わたしの顔がどんな風になっているかなんて、気付きもしないみたいに、腕の傷と、舌先に意識を集中させているみたいだ。
 彼は、どうしてこんな事をするんだろう。嫌いなわたしに、痛みを与えるため?

「……や、だめ」
「ふ、……っ、んん。どうして? 痛い? それとも、気持ちいい?」
「ひりひり、するよ」
「そう、じゃあ、もっとしてあげるね」

 止めて、もう止めようよ、駄目だよ。わたしが悪かったから、もう止めよう。
 言うべき事は沢山あるのに、腕を這うアズサくんの舌先を見つめていたら、声が出なくなってしまう。ひりひりと痛くて、それ以上に胸が痛くて仕方がない。どうすればいいのか、分からない。ぱくぱくと空気を噛むだけで、わたしはやっぱり、何も言えなかった。
 暫くそうした後、ふいにこちらを見上げたアズサくんは、ぴたりと動きを止めた。じいっと、アズサくんの吸い込まれそうな瞳が真っ直ぐに見上げてくる。わたしの手を握った方の手はそのままに、もう一方の手が伸びてきて、頬に触れられる。見下ろしたアズサくんの顔は、やっぱりじっとわたしを見上げている。なにか、考えているような表情だ。
 再び感じる違和感。アズサくんはいつもと少し違う。そのてのひらの冷たさは、いつも通りなのに。
 わたしが戸惑っていると、すぐに頬を覆う冷たさは離れていった。

「……ねえ、やっぱり撫でられただけじゃ物足りないよ。俺の髪、思いきり引っ張ってくれる? 頭皮が剥がれるくらい、思いきり……。ねえ、いいよね……?」

 腕を引かれ、わたしのてのひらが導かれるのは、膝に乗っかったままのアズサくんの頭の上だ。
 もう、こんなの止めよう。
 簡単なその一言が、アズサくんの瞳を前にするとどうしても言えないのは何故だろう。

20140116

   

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