ときどきわたしは夢を見ているんじゃないかと思う。長い長い悪い夢だ。
 薄い硝子で隔てられた光と闇の世界に、順番に放り投げられ、硝子の向こうで藻掻く自分の姿を眺めては、悲鳴を押し止める。アズサくんは光と闇と、その傷だらけの両腕にそのどちらともを抱えているような人で、わたしは彼の嬉しそうに綻んだり、悲しそうに細まったりする瞳を見詰めていると、訳がわからなくなってくる。



「……名前さん」

 背後から控え目に呼び掛けられて、もう随分聞き覚えのある声となったそれに、びくんと無意識に肩が跳ねてしまった。手元のペンを握る手と、日誌の一ページに乗っけた手が強ばって、書き入れる途中の紙にしわを寄せてしまった。どくどくと煩い心臓は確かな緊張を伝えてくる。
 ゆっくり振り返ればアズサくんは、まるでご主人様を見つけた忠犬みたいな嬉しそうな顔をして、こちらに駆け寄ってきている。アズサくんはいつもこうだ。まるで、わたしの事を慕ってでもいるような顔で、わたしを見つける度にこうして駆け寄ってくる。そして嬉しそうに名前を呼びながら、放課後の予定についてを語り始める。

「アズサ、くん」
「今日は、日直なんだね……。早く終わらないようなら、俺……手伝おうか」
「う、ううん、大丈夫。後はもうこれを書き終えて先生に届けるだけだから」
「そう、じゃあ今日は……いっぱい、いっぱい、遊べるんだね。嬉しいなぁ……」

 嬉しそうに目元を緩めるアズサくんに、びくりと肩を跳ねさせてしまう。額に滲む汗が、罪悪感の証。
 アズサくんとわたしは近頃ずっとこんな感じで、放課後になる度に一緒に過ごすようになった。もちろん二人の間にはぎらりときらめくナイフがいつだって横たわっていて、わたしの腕にもアズサくんの腕にも、数えきれない程の罪の証が刻まれ続けている。わたしはアズサくんに懇願される度罪悪感から逃れたくて、いけないと分かっているのにまた、罪を重ねてしまう。そしてその罪の重さに、アズサくんの傷だらけの腕に抱えられたみたいに、また深みにずぶずぶと嵌まってゆくという、悪循環。
 ナイフを前にしていないアズサくんはわたしを嫌っているなんて事が分からないくらいに穏やかなひとで、わたしはアズサくんを目の前にする度に、さらに申し訳なくなっていった。彼がわたしの罪悪感を煽り、よりわたしに罪を認識させるためにそうしているんだとしたら、物凄い効果だ。クラスメイトとして接している時、彼はとても優しい。わたしが沢山の仕事を抱えているときは、早く一緒に過ごすためといって積極的に手伝いをしてくれるし、体育の時に貧血で倒れた時は、血は大切にしなきゃ駄目だと言って保健室で介抱をしてくれた。細い指先でなにかをするアズサくんは全てがたどたどしい手付きなのに、だからこそそれが彼の優しさのような気がしてしまう。
 だからわたしはわたしを怨んでナイフを持たせ、傷をつけあっているはずのこの関係の意味がわからなくなって、とても苦しい。無意識に、彼から距離をとり、びくびくとしながら接してしまう。今も座る椅子を少しだけ引いて、ずいっと近寄ってくる彼から無意識にだけど、遠ざかろうとしてしまう。
 アズサくんはパーソナルスペースが極端に狭いのか、その度にぴったりとくっついてきて、わたしは更に心臓をどきどきと鳴らしながら、額に滲む汗を感じる。悪いのは自分なのにそうしてしまう自分が大嫌いだ。アズサくんがまだ、わたしの「ごめんなさい」を受け入れてくれないのは、わたしのそうした浅ましい部分が、彼に伝わっているからかもしれない。










「…………ん」
「ああ、起きたんだね、名前さん」

 目を覚ましたら目に眩しいくっきりとした白が視界を占領していた。なんとなく、アズサくんがいつも腕に巻いている包帯のような色だな、なんて思う。息を吸えば消毒液独特の鼻につくような臭いがする。
 ここは保健室だ、と記憶を手繰り寄せて認識する。
 アズサくんはわたしが横たわる保健室の固くも柔らかくもないベッドの脇に腰かけて、じっとわたしを見下ろしていた。アズサくんと傷付けあう途中、くらりと目が回って倒れてしまったんだった。

「なかなか起きないから、心配していたんだ。先生は、軽い貧血だって……」

 上体を起こそうとすれば倒れる寸前と同じように、くらりと視界が渦巻いて、倒れ込みそうになる。それをアズサくんが支え、それから優しくベッドに寝かされた。アズサくんはわたしを心配しているような瞳にも見えて、だけど少し羨ましそうな顔をしている気もする。わたしが何かに苦痛を覚える度、彼はこうしてきらきらと瞳を輝かせ、羨ましくてたまらないという顔をする。ちくちくと胸が痛む。ますますアズサくんが分からなくなる。

「先生は、今、職員室に行っているけど……名前さんが起きたら、安静にしてるようにって……」
「ごめんね、アズサくん」
「……なにが?」
「ずっと、わたしの事を見ていてくれたんでしょう」
「いい、……名前さんの寝顔、眺めてるの、楽しかったから……」
「……あの、別にわたし、一人でも大丈夫だから、先に帰ってくれてもいいよ」

 どうせもう放課後なんだから、先生が帰ってきたらわたしも家に帰されるんだろうから。そうは言ってみたものの、アズサくんは腰を下ろしたベッドにどっしりと根を張ってしまったみたいで、ずっとそこで横たわるわたしの方を眺めていた。
 もう一度目蓋を閉じてみたものの、そこにアズサくんの気配があり、こちらを見守っていることを思うと、どうにも居心地が悪い。再び目蓋を持ち上げると、やっぱりアズサくんはわたしの方をじっと見下ろしていている。

「……眠らないの?」
「うん」
「そう。じゃあ、退屈しないように俺が、なにか話をしてようか……」
「アズサくんが?」

 アズサくんはこくりとひとつ頷いて、左腕に巻かれた包帯をぐるぐるとほどきはじめる。既に見慣れたものとなったその動作、見慣れたものとなった、アズサくんの傷だらけの腕が目前にさらされる。見慣れている筈なのに、やっぱり隆起した数々の傷痕を見ると心臓がぎくりとする。アズサくんはそれを眺め、いつもするようにうっとりとした顔をしてみせた。

「ふふ、俺の友達を、名前さんに紹介してあげる……」
「とも、だち?」
「うん。君はもう、何回も何回も会ってると思うけど、挨拶はまだだったよね……? この子の名前は、ジャスティンっていうんだ……」

 アズサくんは隆起するいくつもの傷の中のひとつを、愛しいひとを撫で回すようにゆっくりと撫で上げ、目元を細める。ほら、挨拶して、なんて、優しげな声色で語りかけたりなんかしてから、この子はクリスティーナ、この子はメリッサ、と、傷のひとつひとつを撫でながら、愛の囁きのように様々な名前を口にする。名前を口にする度、アズサくんの瞳には力がこもってゆくようで、その名前はきっと彼にとってとても大きな影響を与えた人達の名前だったんじゃないかなんて事を考えた。
 腕に走るそれらの凡そをなぞり終えてから一呼吸おき、アズサくんはついに、中でも赤黒く痛々しく真新しい傷口に指を這わせた。膿始めているようにも見えるそれは、酷く痛むのか、指が乗った瞬間に彼の眉がぴくりと動く。

「それから、きみがつけてくれたこの、綺麗な傷……」

 その禍々しい色合いには凡そ似つかわしくないような“綺麗”という形容を用いながら、更に瞳をとろけさせ、アズサくんは言った。

「……君の名前をつけようと思うんだ。名前さん」
「……っ」

 アズサくんはうっとりとした瞳のまま、その傷口に小さくキスを落とした。愛しいひとに贈るような口付けに、どきりと胸が鳴る。それから、傷口に吸い寄せられるように持っていかれていたアズサくんの瞳が、横たわるわたしに向いた。
 アズサくんの瞳。
 じりじりとわたしを射抜くその瞳はとろんとしていて、どくどくと胸が動き出す。わたしは白い天井やカーテンに向けきょろきょろと視線をさ迷わせながら、浅い呼吸を繰り返す。胸に絡み付くようなどろどろとした気分が這い上がってくる。

「……その、傷の名前って、」

 自分のくちびるが自分の意思とは関係なしに動き始める。アズサくんが小首を傾げると、彼の黒髪がさらりと揺れた。

「もしかして、アズサくんに傷をつけた人の、名前なの?」

 わたしの名前を付けるということは、つまり、そういう事、なのだろうか。名前、アズサくんの薄いくちびるが紡ぎだしたわたしの名前が、耳にこびりついてしまったみたいに、何度も何度も頭の中を駆け巡る。それはとても、恐ろしい事に、思えた。

「うん、そうなんだ。……俺の、大切な――」

 にこり、また、彼の顔にあの、何処を見ているとも知れない不可解な笑みがもたらされる。
 ああ、やっぱり、と、わたしは自分の呼吸が更に早くなってゆくのを感じた。アズサくんの腕が傷だらけなのは、わたしが包丁で彼を切りつけた日のずっと前からのようだった。わたしは自分の事で精一杯で、その事の意味なんか深く考えたりしなかったけれど、もしかしたら彼は昔にも、わたしにされたみたいに、大きな傷を負わされたのかもしれない。それは大きな心の傷となって、今も彼の中に根付いているのかもしれない。怨めしい人の名前を、その傷につけてしまう程に。
 だとしたらわたしは、なんて酷い事を彼にしてしまったというのか。だとしたらわたしは、今現在もずっと、アズサくんにとても酷い事をしているんじゃないだろうか。わたしはアズサくんに渡されたナイフを、断固として拒絶するべきだったのだ。何も知らないわたしが軽々しく、そして乞われるままに傷付けた赤黒い痕は醜悪そのものだ。

「……ごめん、なさい」

 何とか誠意を伝えたくて、重い頭を持ち上げて謝罪を口にしても、やっぱり彼は不思議そうな顔をする。今日もわたしの「ごめんなさい」は彼に受け取ってもらえない。

20131115

   

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