自分の過失で誰かを傷付けてしまった。
 その事実は大きな罪悪感の芽となって、わたしをちくちくと攻撃し続けている。本人の意思によるかどうかなんて関係はない、結果はどうせ変わりはしない。アズサくんの手首の薄い肉を切り裂いた包丁の、ぎらりと研ぎあげられた刃を彼に向けたのは、紛れもないわたしなのだ。あの時わたしがもう少し注意を払っていたら、アズサくんが痛い思いをする事も、だらだらと家庭科室の床の木目に染み込んで行く赤い血をクラスメイトが目にする事だって無かったはず。
 翌日、わたしはどんな顔をして学校に来ればいいのか、分からなかった。先生はクラスを安心させる為にか、アズサくんを送り届けた保健室から帰ってくるなり「大丈夫」なんて言葉を口にしたけれど、あれからアズサくんは教室に戻ってくる事はなかった。わたしは生徒指導室で少しだけ事情を聞かれたけれど、何も咎められる事はなかった。
 本当にアズサくんが大丈夫かどうかなんてアズサくんにしか判断出来ない事だと思うし、もしアズサくんの傷が思いの外酷くて、今日教室に行ったときアズサくんの席に誰も座っていなかったらどうしよう、そんな恐怖ばかりが顔を出した。わたしの切り裂いた傷で、アズサくんが今もなお苦しんでいるのだとしたら。
 目を瞑ったら、じわじわと広がって行く赤色が目蓋の裏で何回も何回も再生される。
 目を開いたら、家庭科室の前にいた。沈黙を守る閉ざされた家庭科室の扉がそこにある。なんとか学校には来たものの、教室に行くのが酷く恐ろしかったわたしは、家庭科室の前でうだうだと迷っていた。犯人は現場に立ち返るという刑事物ドラマのあの鉄則は、こういうケースにも汎用出来るのかもしれない。わたしがこうしていたところで、アズサくんへのお詫びにはならないのに。ごめんなさい、教室に行って、アズサくんが席にきちんと座っていたら、そうして謝ってしまったほうが堅実だ。そうするべき。そうしなくては。

「……名前さん……」

 そうしよう。決意した瞬間に、背後からゆったりとした声が投げ掛けられ、酷く驚いてしまった。わたしの心臓はおかしくなったんじゃないかってくらいに跳ね上がり、肩もそれと同じくらいに跳ね上がる。気配もなく突然声が聞こえたのには驚いたけれど、その声が今考えていた人物の声じゃなかったらここまでは驚かなかったんじゃないだろうか。額にじっとりと滲み出てくる汗の成分はきっと、罪悪感が大多数を占めているに違いない。

「アズサ、くん」

 家庭科室の名を標榜するプレートと、閉ざされたドアばかりを眺めていたわたしは、ゆっくりと後ろを振り返った。からくり人形のようなぎこちない動作で、ぎ、ぎ、ぎ、と歯車の音でも聞こえてくるんじゃないかという具合だ。それでもわたしは人形じゃないので、瞳にはきちんと、廊下に立つアズサくんの姿が映し出された。アズサくんの制服の袖口が切り裂かれているなんて事はなかったけれど、そこから伸びる手にはぐるぐると幾重にも包帯を巻き付けてある。包帯の汚れの無い純白が、むしろ生々しさを醸し出している気がするのだ。あの下には、間違いなくわたしの罪の証が鎮座している事だろう。

「アズサくん、ごめんなさい」

 ゆらりと何処か地についていないような印象で立つアズサくんに向かい、わたしは深々と頭を下げた。もうわたしには、こうして謝る事しか出来ない。暫くそうして床をじっと見た体制のままでいたけれど、アズサくんは何も言ってくれなかった。簡単に許してもらえるなんて思ってはいなかったけれど、流石に少し焦れてしまって、そっと顔をあげる。アズサくんは不思議な生き物をみるような目付きで、わたしを見下ろしていた。

「……どうして、君は謝るの?」
「だって、わたしは昨日、アズサくんに――」
「俺はね、昨日のお礼を君に言いに来たんだ」

 ありがとう。アズサくんの薄いくちびるは、滑らかに動きながら、そんな感謝の言葉を確かに紡いでいったような気がする。わたしは訳が分からなくなってしまった。アズサくんは何処か上機嫌な様子で、それは現状には凡そ不釣り合いな感情に思え、不気味とすら思った。

「名前さんのお陰でね、俺の腕に、仲間がまたひとり増えたんだ……」

 アズサくんは何処を見ているのか分からない焦点の定まらない瞳で、うっとりとした表情を浮かべて見せた。ぞくり、背筋になにか冷たい物が、走り去っていった気がする。それは昨日まで山があったはずの場所が、今日突然、海になっていたような、そんな違和感。わたしは彼に咎められこそすれ、感謝をされるなんて事はまかり間違ってもあってはいけないのだ。

「ねえ……君も、見る? 俺の新しい、友達」

 アズサくんは左腕の制服の袖を捲りあげると、さらけ出された包帯で白く染まっている腕に、ゆっくりと愛おしそうに指を這わす。そして、ベールを剥がすよう、ぐるぐると何周にも巻き付けられた包帯を解いていった。わたしは目の前の出来事を、まるで遠い遥か彼方で起きる出来事のような心地で眺めていた。ただ、包帯の向こうの肌の色が現れる度に、肩が痙攣でも起こしたように、ぴくんと小さく反応を示す。

「ほら、見て……名前さん。ふふ、こんなに立派な傷、ひさしぶりなんだ……」

 腕を覆っていたもの全てを剥がし終えたアズサくんは、またうっとりとして言った。わたしはアズサくんの腕に釘付けだった。白く、男の子にしては随分と細い骨ばった腕には、下から上に幾つものケロイド状の傷跡が走り、ぼこぼこと隆起していた。見ているだけで自分の痛覚をつくつくと刺激されたような気分になってしまう腕だ。その中でも一際目を引いているのが、わたしが昨日、包丁で裂いた傷口。手首に遠慮なくひかれた、一の字のような傷。真新しいそれはずくずくとした赤色をしていて、白い腕にばっくりとクレバスのような裂け目を、痛々しく描き出している。目を反らしたくとも、わたしの筋肉が硬直してしまったみたいに動かなかった。

「ごめ……、ごめんなさい」

 震える息でなんとか吐き出す。改めて自覚した、わたしは何て酷い事をアズサくんにしてしまったのだろう。あの傷は、きっとアズサくんの腕にいつまでもいつまでも寄生し続け、彼を苦しめ続けるに違いない。彼は、きっと、わたしに酷く腹を立てているのだ。だからこうしてわたしの罪の証である傷を、見せつけてくるのだろう。

「どうして謝るの……? ほら、ちゃんと見て、目を反らさないで……こんなに綺麗な傷なのに」

 アズサくんが一歩足を踏み出すと、傷口がわたしの目の前に差し出される。血独特のあの生臭いような香りがした気がして、ひゅっと息を飲む。けれど、彼の言う通り、目を反らす事は許されない。これが、わたしがアズサくんにしでかした事実。アズサくんはわたしに、それを弁えさせる為、こうしているのだ。

「ごめん、なさい」
「また、謝った。俺は感謝しているのに……君は俺に、存在理由をくれたんだ」

 自分の腕に裂けるそれを眺め、またうっとりとした顔をする。とても、自らの大怪我を眺めている人間の表情とは思えないそれが何なのか、わたしには理解できないようなアンバランスな光景。

「ねえ、名前さん。……触って、みる?」
「……え?」

 アズサくんの右の指先がわたしの手に触れた瞬間、あまりの冷たさに酷く驚いてしまった。左腕は、まだ目の前にさらけ出されたまま。彼の右手の折れてしまいそうな不健康な細い指はわたしの手に絡み付き、わたしの手を持ち上げる。触ってみる? アズサくんが、自分の傷口に触れさせようとしているんだと考え至るまで随分の時間を要したので、気が付いた頃には既にわたしのてのひらはアズサくんに導かれ、傷口の前までやって来ていた。

「……さあ、触ってもいいよ」
「で、でも、そんな事をしたら、アズサくんが痛いよ」
「俺は、大丈夫だから……君に、触って欲しいんだ」

 わたしはもう、殆ど泣きそうになってしまったけれど、アズサくんは至って真剣な瞳をして、こちらをじっと見つめていた。指先はぶるぶると震えていたけれど、ゆっくりゆっくりと、彼の傷口に近づいて行く。殆ど暗示のようにして、わたしの指はわたしの意思とは関係なく動いていた。

「……っ」

 こんなにも赤々とした傷口なのだから、少しくらい熱を持っていてもいいようなものなのに、触れたその場所はしっとりとしていて、そして冷たい。少し触れただけなのに、アズサくんの額には苦痛を訴えるよう深いしわが刻まれる。思わず離してしまいそうになる手をアズサくんが取り、逆に傷口へと押し付けられた。指先の爪の部分全てが、アズサくんの肉にめり込んだ。彼の表情が更に険しいものとなり、くちびるの端からは確かに呻き声のような物が漏れ始める。それでもアズサくんはわたしを解放してはくれなくて、ゆっくりと、裂け目を横になぞる事となった。ぬちり、と音がして、潤滑油の役目を果たすが如く赤いものがじんわりとしみだしてくる。わたしは溢れそうになる涙を堪えるのに、必死だった。ごめんなさい、ごめんなさいと、何度も心で唱えながら。そうしていれば良心の呵責から少しだけでも逃げられるような気がしていた。わたしがアズサくんをどれだけ苦しめたのかは、もう痛いくらいに分かった、だからこんな風に自分を傷付けるのは、やめてほしい。

「ほらね、すごく、すごく、深くて立派な傷だったでしょう……。また、こんな傷を、名前さん、……君にね、つけてほしいんだ……」

 ようやく裂け目から顔を現したらわたしの人差し指の先は、爪の間まで赤くしっとりと湿っていて、アズサくんはそれをうっとりと眺めながら言い放つ。わたしの脳内は混乱を繰り返していて、彼の言っている事の意味なんて殆ど理解出来ないような状態になっていた。それでも彼がポケットからナイフを取り出して、それをわたしの手にしっかりと握らせた時、これはいけないと気が付いた。天井の照明を反射しぎらりと光る刃先はいかにも切れ味抜群といった感じで、ついにわたしは悲鳴をあげた。わたしが今握っているのは昨日わたしがアズサくんを傷付けた包丁と同じく、人を傷つける刃物だ。アズサくんの肉が裂けた時のてのひらに伝わる感覚は鮮明に思い出せる。酷く恐ろしくて、おぞましいものを手にしているというような気分になる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、わたしが全部悪いの……わたしが悪かったから……もう分かったから……もう、許して……ごめんなさい、ごめんなさい……」

 ぼろぼろと、涙が溢れてくる。もう自分が何を言っているのかも分からないけれど、わたしはえんえんと泣きわめきながら、アズサくんに謝罪を繰り返した。アズサくんはそんなわたしを見て、不思議そうな顔をした後、酷く困り果てた顔になる。

「……どうして、泣くの?」

 アズサくんは少しだけ考えた後、わたしの体をふわりと包み込み、抱き締めた。いいこ、いいこ、と母親が子供をあやす時のように、とん、とんと背中を叩く。華奢に見えたアズサくんの体も、こうして抱き締められると男の子のものだという事が分かる。温度は全く感じられなかったけれど、それは暖かい、というような気がした。耳朶に落ちるアズサくんの言葉のひとつひとつが、優しいような響きを帯びていたからかもしれない。アズサくんは本気でわたしがどうして泣いていたのか分からないとでもいうように、どうして泣くの、だとか、泣かないで、そればかりを繰り返している。それでもわたしの手にはナイフがずっと握らされたままで、もう誤って彼を傷つける事のないように、わたしはずっと化石のように硬直したままでいた。

「……ああ、きっと俺ばかりが傷をねだったから、悲しくなってしまったんだね……」

 それからアズサくんはわたしの体を離して、わたしの顔を覗きこんだ。その時にはわたしの涙は止まっていて、アズサくんは少しほっとしたような顔をしている。するり、わたしの手からはナイフを抜き取られて、それはアズサくんのてのひらの中でぎらぎらと凶悪な輝きを放つ。

「だったら、今度は、俺が君に傷をつけるよ……これで、おあいこ……」

 わたしは、心臓を鷲掴みにされたような心地だった。アズサくんはナイフの先をわたしの左手首の柔らかい部分――彼のばっくりと裂けた傷口の鎮座しているのと同じ場所に向ける。脳裏に想像される痛みにがたがたと肩が震え出すのと同時、酷く安心しているような自分もいる。やっぱり、彼はわたしに怒っていたのだ。ぎらぎらと光るナイフは恐ろしかったけれど、先程の自分を傷付けるという訳の分からない行動よりかは、納得も出来るし幾分も安心する。こうする事で、わたしが彼に与えた痛みを少しでも減らせるのなら。

「……それで、アズサくんの気が済むのなら」

 わたしは左腕を持ち上げて、彼がより行動に移しやすくするよう、手首を差し出す。アズサくんは再び不思議そうな顔をしてから、ナイフを構えた。制服の裾をぐっと上まで持ち上げると、わたしの、アズサくんと比べたら脂肪の乗ったやわらかな腕が露になる。アズサくんとは違いそこには傷跡ひとつ存在しなかったけれど、鳥肌が立っていた。冷たい刃が宛がわれ、肌が更に粟立ってゆく。ナイフがゆっくりと肌の上を滑り始めると、焼けるような痛みが体を突き抜けていった。

「……っぅ」

 刃がずぶずぶと肉にめり込んでいく様子が瞳に映し出されると、もっと痛みが増すような気がして、わたしは顔を床に向ける。床に落ちる二人の影しか写し出されなくなった視界のなか、奥歯を噛み締める事で何とか悲鳴を噛み殺す。ナイフはゆっくりと確実に、わたしの痛覚を刺激してゆく。すっと手首に埋まっていた異物が退かされたというような感覚がするとともに、わたしの中の血液が、あふれでて行くような感覚までする。とにかく、手首がちりちりと熱い。すぐにでも血が滴り落ち、昨日のアズサくんがそうであったように、床に赤いしみを広げて行くのだとばかり思っていたが、見下ろした床には何の変化も無かった。それどころか、熱をもっていた筈の傷口に、なにか冷たいものを宛がわれたような感覚。それから、ぬるりとしたような感覚がして、冷たい物が傷口に差し込まれたような感覚がした瞬間には、激痛が襲ってきた。

「……っあぐ」
「……ん、……んん……」

 何がおきているのかとそちらに首を巡らせれば、わたしの手首にできた傷口にアズサくんがくちびるを押し付けて、蓋をしていた。まるでミルクを舐めとる子猫のように、ぺろぺろと溢れ出る血液を舐めとり、体内に取り込んでいくアズサくん。くちびるの端を赤く染めながら夢中になって血を貪るその光景は異常で、この世のものとは思えないほどなのに、何故だか美しく思えてしまった。足から、力が抜けてゆく。

「っ、……や」
「大丈夫……、君の血は……無駄にしないから……俺が全部、舐めとってあげる」

 抵抗しようにも力が入らない。一歩、二歩、後ずさったが、一緒になってアズサくんもついてくる。やがてわたしの背中は家庭科室の扉に行き当たり、身動きが取れなくなる。背中を扉に預けながら、わたしは膝を折り、ずるずるとその場に座り込んでしまった。アズサくんはそれでもまだわたしの腕に顔を埋めていて、小さな吐息を吐き出しながら流れ出る血を舐めとっている。その最中、ナイフの柄を再び、わたしの手中へと滑り込ませる。上から手を包み込まれ、それをしっかりと握らされた。ようやく顔をあげたアズサくんのくちびるは真っ赤に染まっていて、そのくちびるは吊り上がり、綺麗な弧を描く。その顔は、どこにだって曇りの見つけられない、清々しいまでの笑顔なのだ。そう、わたしが彼を傷付けてしまった後に見た、昨日の笑顔そっくり。

「……次は、君の番。俺に、もっともっと、たくさん傷をつけて……」

 ああ、アズサくんは、まだわたしを許してくれていないのだ。曇りの無い瞳に見つめられ、わたしはもう殆ど何も考えないまま、手中のナイフを握りしめる。てのひらからは固くて重く、そして冷たい罪の感触が伝わってきた。

20131115

   

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