※全体的に痛々しい描写があるので注意












「アズサくん、包丁、危ないよ」

 今日は楽しい調理実習の日だ。
 五人一組で編成された班のみんなで、美味しいクリームシチューを作る。教科書に書き綴られた解説と調理開始前に先生が説明していた通りにいけば、人参や玉ねぎやお肉を切り分けて鍋で炒め、あとは水を投入してルゥと一緒に煮込むだけの簡単な行程らしいのだけれど、調理開始早々、わたしは困り果てていた。先程から、同じ班の無神アズサくんの様子がおかしい。嶺帝学院の制服の上に真っ白いエプロンをつけたアズサくんは、まな板の前で包丁を構え、放心状態のようだった。

「……え?」
「え、じゃなくて。そんな風にして包丁を持ったら危ないよ」
「……危ない? どうして?」
「どうしてって……」
「大丈夫、俺が、こうしていたいだけだから」

 なにが、大丈夫なんだろうか。目線の高さまで包丁を持ち上げるというなんとも危なっかしい格好をしているアズサくんを、隣に並び玉ねぎを刻んでいるわたしは、とてもじゃないけれど見ていられなかった。我が班ではわたしは玉ねぎを刻む係、アズサくんは人参を刻む係、あとの三人は具材を炒めたり味付けをしたりお皿を用意したりする係に、それぞれ分担されている。よってわたしたち以外の三人は今、ガスの様子見や調理器具の準備に忙しいので、どうやらアズサくんのこの異変に気が付いているのはわたし一人のようなのだ。
 アズサくんはわたしの呼び掛けに小さな反応しか見せなかった。こちらに一瞬だけ目を向けると、また、目の前でぎらぎらと光る包丁の刃先に視線を移してしまう。その瞳はどこかうっとりと夢見心地のようにも見えて、わたしはますます意味が分からなかった。

「……わたし、玉ねぎ切り終わったけど……」

 仕方がないので自分の仕事に戻り、全ての玉ねぎを切り終えてから、痛みで潤む目で隣を見たら、歪む視界の中アズサくんは未だに包丁をうっとりと眺めている。まるで、それが美しい芸術品だとでもいうような眼差しだ。もちろん彼の前のまな板には、少しも切られていない人参のぽってりとした姿が伺えるわけで、わたしは頭を抱えてしまいそうだった。本当にアズサくんはよく分からない。そういえば教室で授業を受けている時も、いつもアズサくんはぼんやりとしている気がするし。

「ねえ、本当に危ないよ。アズサくんが料理苦手なら、人参もわたしが切るから。とりあえず包丁をかして」
「……ああっ」

 アズサくんの目の前から包丁を取り上げたら、彼は宝物を取り上げられた子供のような悲しげな瞳でわたしを見つめた。それから、わたしの手に収まる包丁に視線を移し、じいっと見つめる。一秒、二秒、三秒……わたしの体感にして約一分くらいはそうして見つめていたのち、彼は突如として、きらきらと瞳を輝かせはじめた。まるで、新しい宝物を見つけた瞬間、そんな感じだった。

「……名前さん」
「え?」
「ねえ、その包丁で、君は俺を……」

 ぼそぼそっと呟くようにアズサくんは言ったので、その先は聞こえなかった。彼が普通に喋っていたとしても、余裕の無くなったわたしに、聞き取れたかは自信がないが。じりじり、じりじりとアズサくんがわたしの方に近づいて来たからだ。その眼差しは至って真剣そのもので、何故か背筋が冷たくなってしまう。男の子にしては随分華奢だと思っていたアズサくんも、こうして近づいてみると、わたしよりも大きな身体をしていた。そんな事を感じられるような至近距離にいること事態、おかしな事態なのだ。今は、調理実習の最中だというのに、こんな風に迫ってくる必要が何処にあるだろう。やっぱりアズサくんは少し変だ。各々の役割に各々が真剣に向き合っている家庭科室の中、アズサくんの異変に気が付いているのは、やっぱりわたし一人。

「なんか……近いんだけど」

 じりじりと後ずさりを続けながらそう言ってから、ふと、自分がまだ彼から先程取り上げたばかりの包丁を両手で握っている事に気が付いた。アズサくんの身体はもう、目と鼻の先。もう一歩でもアズサくんが歩み寄ってきたら、包丁の先は彼の腹部へとめり込んでしまうだろう。加えてそれに気がついた瞬間に、先程まで玉ねぎと共に向かい合っていた筈のまな板を乗せた調理台に、足が行き当たってしまった。もう、後ずさりすらままならない。それなのに、アズサくんは今にも次のもう一歩を踏み出そうとしている。わたしは驚いて、咄嗟に包丁を握りしめた手を自分の方へと引っ込めた。反射的な行動だったのだと思う。
 包丁の柄に、両のてのひらに、何か強い手応えのようなものを感じ取ったのは、その瞬間だった。

「……ぐっ」

 最初は、何が起こったのか、全く分からなかった。それでも、アズサくんのくちびるから漏れた苦痛に耐えるような吐息を聞いた瞬間に、嫌な予感が全身を駆け抜けていった。すぐに目に飛び込んでくるのは、真っ白なアズサくんのエプロンに、鮮明な赤色が何滴か飛び散って彩りを描き出しているところ。アズサくんは眉間に皺を寄せ、左腕を抱えるようにして踞る。

「っ、アズサくん……!」

 わたしも咄嗟に屈み込み、彼が抱えている腕を見下ろす。手首の内側の制服の生地が真っ直ぐ横に裂け、その間からじわじわと血液が染み出して、制服の紺を染め上げようとしていた。ぽたり、ぽたりと彼の真っ白だったエプロンは尚も赤の面積を広げてゆく。血は床にも滴り落ちて、木目の間に落ち込んでいった。わたしはゆっくりと、震えそうになる首を動かし、自分が握りしめていた包丁の方を見た。両手に収まる包丁の先は、赤色に染まっている。

「っ、ねえ、大丈夫!? アズサくん! アズサくん!」

 わたしが、彼を傷付けてしまったんだ。手を引っ込めた瞬間に、彼の左手首を、包丁の先が掠め、無遠慮に皮膚を切り、肉を裂いてしまったに違いない。大変な事をしてしまったという気持ちでアズサくんの肩をさすれば、彼は見つめていた自らの腕からわたしに視線を移して、口角をくいっと大きく吊り上げた。……笑ってる? 現在進行形でぽたぽたと血が滴り落ち、床に血だまりを作り出している最中に浮かぶその笑顔は異質なものに見えて、わたしは肩を震わせてしまった。アズサくんは、やっぱり様子がおかしい。
 彼はにこにこと笑顔を浮かべたまま、口を開き、なにかを言いかけた。

「きゃ……きゃああああ!」

 わたしたちの異変に気がついたらしいクラスメイトの一人が悲鳴をあげたのはそんな時で、アズサくんの言葉は彼女の喉の奥から作り出される叫びに全て掻き消されてしまった。同じ班の味付け係だった彼女は、お玉片手に床にじわじわと広がってゆくアズサくんの血液を瞳に映しながら、肩を痙攣させている。彼女の悲鳴により、アズサくんの怪我は家庭科室にいる生徒全員の知るところとなった。クラスじゅうが軽いパニック状態だった。
 先生がやってきて、アズサくんを無理矢理保健室に引き摺っていくまで、わたしはばくばくと鳴る自分の心臓の音を強く感じながら、浅い呼吸を繰り返していた。わたしのこの両手で、クラスメイトに大怪我を負わせてしまった。てのひらで感じた彼の肉を切り裂く瞬間の手応えと、傷を受けた後のアズサくんの不可解な笑みが、何度も何度も鮮明に蘇ってきた。

20131120

   

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