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「ボリス、ボリスっ…ちょ、待って…ボリス…」
「……っ…」



呼んでも呼んでも止まらない背中に、痺れを切らして強引にその腕をつかんだ。
がくんと彼の体は揺れ、停止を余儀なくされる。ゆっくりとコプチェフを振り返ったその顔は、史上最高に不機嫌そうだった。



「…なんだよ」



これまた史上最高にぶっきらぼうな声。
ついでに睨みつけるのも彼は忘れない。



「それはこっちのセリフだって…。何でさっき無視したの、」
「…してない」
「嘘だ、止まってくれなかった!」
「聞こえなかった」
「…それ本気で言ってんの?」
「……」



唇を噛んで押し黙るボリスにコプチェフははぁとため息を吐く。
言い返せない嘘なんてつかなきゃいいのに…。ボリスは変な所で意地を張る。
いつから聞いていたのか知らないが、少なくとも彼の機嫌をここまでぶち壊しにしてしまったような部分は聞いていたらしい。目があった途端、逃げるように踵を返した彼を…追いかけないわけにはいかなかった。



「何も言わないで行っちゃうとかやめてよ、こっちがビビるからさ…」
「……」
「ボリス、」
「……」
「…聞いてる?」
「うるさい!」



突然だった。
いきなり沈黙しだしたので、どうしたのかと顔を覗き込もうとしたところ、いきなり声を上げられた。
しかものけぞったコプチェフに、ボリスはさらに追い討ちをかける。



「勝手にヒトのこと詮索してんじゃねぇよっ!」



言うや否や、掴まれていた腕をボリスは勢いよく振り払った。
ひしと正面から睨みつけるその瞳は普段以上の迫力で、コプチェフは思わず後退る。
こんなに強い怒りをぶつけられたのは、初めてだった。



「……ボリスっ…?」



どん、とコプチェフの胸を押しやってボリスは距離をとろうとする。
その肩は乱れた呼吸に上下して、強く握り締められた拳は白くなっていた。



「言ったろ、バカみてぇって」



彼は言葉を吐き出す。



「俺のことなんて、どうだっていいだろっ…」



その瞬間、世界が静止してしまったように音がなくなった。

どうでもいいのなら、どうしてそんな傷ついたような顔をする?

思わず抱き寄せようとした手はすげなく払われてしまった。
ボリスは嫌々をするように俯いたまま首を振り、背を向け行ってしまう。

動けなかった…。




















薄汚れたブランケットの隙間から、冷たい夜風が侵入してくる。外気に晒されてすっかり冷え切った鉄の塊は、指先から容赦なく熱を奪って、触れているのさえ苦痛だった。
思わずかじかんだ指先に息を吹きかけると、はぁと白い息が宙に舞う。



『わりぃ、遅くなった…』



不意に後ろからそんな声がかかった。
振り向くと馴染みの相棒が両手に蓋を開けた缶詰めを持ってこちらに歩いてくる。
割れた窓ガラスの破片を彼のブーツが踏みしめる度、じゃりじゃりという独特な音がした。



『…っ…また豆か…』
『しょうがないだろ、これしか支給されねぇんだから』



渡された缶はもちろん温められてなんかいない。ひんやりとし感触に眉をしかめ、ついでに中味も覗く。どろどろした液体は、薄暗いせいを除いても決して旨そうな食べ物には見えなかった。



『うー…』
『食わなきゃ、死ぬぞ』
『…いらない、やる』
『コラ』



押しやったものを押し返される。
月明かりを受けた相棒の横顔は、煤で汚れながらも笑っていた。


市街への爆撃開始から、約1ヶ月。

ついに敵軍に街の中央駅周辺を占拠され、部隊は南北に分断されてしまった。
司令部はフェリー乗り場近くの地下壕から北部の工場地区にある石油備蓄施設の地下室に移され、南に残った部隊はすでに絶望的とみなされていた。

部隊を再編成する為、一時後退した仲間たちの様は惨憺たるもので、とても南の残存部隊への救援などできる状態ではなかったのだろう…。

司令部はあっさり、仲間を見捨てた。


部隊内ではすっかり厭戦ムードが蔓延していたが、この街を死守することがこの国にとってどれだけ重要なことかは、みんな否が応でも分からされていた。
しかし、頼みの冬まであと数ヶ月…。
それまで保つかどうかさえ危うくなっていたのも事実だった。



『…う…マズい』



水を吸ってふやけた豆の感触は、ぐしゃぐしゃと気持ち悪い。
冷え切った薄味スープの味なんて、まともなものを食べてない舌には塩味すら感じるかも微妙なところだった。
一口含んで思いっきり顔をしかめると、相棒は苦笑した声を漏らす。



『そんな顔すんなよ、俺だってマズく思えてくらぁ』
『うるせ。……見張り交代は?まだかよ』
『まだもう少し。そういや、広場の奴らザイチェフさん見に行ったらしいぜ』
『ザイチェフさん?…相変わらず人気だな』
『お偉いさんたちも、期待してるんだろ。戦闘鼓舞にはうってつけだもんな。もう何人ヤってることか…』
『…もうすぐ100人いくって言ってた』
『うわ、すっげぇ。…そりゃ勲章もんだぜ、英雄英雄』
『本人は嬉しそうじゃなかったけどな…』



そうは言っても、英雄の存在っていうのは確かに前線の兵士たちの心の支えになる。彼はこの泥沼の戦争の唯一の希望だった。共に命をかけて戦う、綺麗事以前にそれは気持ちの問題だ。
もちろん、自分だって例外じゃない。
あの人がいれば、この状況もなんとかなるんじゃないか…そんな楽観的な気分にもなれた。



『いーじゃん、ボリスは可愛がってもらってんだから』
『…声かけてもらってるだけだ』
『なんで、みんな羨ましがってるぜ』
『…大した意味なんてねーよ』



確かに同じ狙撃手として彼に声をかけてもらえるのは光栄だと、心の中では自分でもそう思っていた。
けれど、それを自慢にしたって現実的に何か変わるわけでもないことも、一方でちゃんと分かっていた。
もちろんすげない物言いは照れ隠しだということを、相棒はちゃんと承知しているらしく。それ以上、余計なことは言わない。彼は相変わらず締まりなく口元を緩めていた。



『早く終わるといいな、』
『……』



スプーンをくわえながら呟いた相棒の視線は、遥か遠くをさまよっていた。

何が、なんて訊くまでもない。
いつか終わる、…そのいつかの時ばかりを思い描いて楽観的になれるだけ、まだ自分たちは恵まれているのだと、心の片隅ではわかっていた。
孤立し、救援の望みも絶たれ、いつか…なんて想像することさえできなくなった、ただ死んでゆくしかない仲間たち。
いざそんな淵に立たされたら、自分はどうなるのだろう、と。それはあまりに現実的すぎて、答えをだすのが怖かった。

不意に寒気がして、ぶるりと震えた。
冷たい豆のスープはまだ半分以上残っている。



『ボリス、寒いのか?…俺のブランケット貸してやるよ』
『…いいって、』
『遠慮すんな、ほら』
『お前が寒いだろうがっ』
『俺は血管太いから大丈夫』
『なんだそれ、』
『お前に死なれちゃ困るんだよ、俺は』



困ったように笑う、そいつの笑顔が好きだった。くしゃりとできる笑い皺は、きっとこんな場所じゃなきゃ本当に無邪気で眩しい笑顔になるだろうに。

いつか、綺麗な青空の下、こいつの笑った顔がみたいな…なんて。



『そりゃ、お互い様だバカ』





いつか、いつの日か…。

















ガシャン。

床に落ちた目覚まし時計は、午前一時を指していた。
目を閉じてから一時間もたっていない。
はぁとため息をついた先、目覚まし時計の電池の蓋がとれて、単三電池が床にコロコロと転がっていた。

また、だ。
また…こんな夢を見るなんてどうかしてる。

忘れたい…、なんていう自分は酷い人間なんだろうか。いくら消そうたって、消えないことだって分かっているのに。少なくとも自分だけは、あいつのことを背負って生きてゆくべきだと分かっているのに…。



「もう…許して…くれよ…」



だから、相棒なんていらなかったんだ。

ダブらせてるんじゃない、まさか、そんなんじゃない、ちがう、ちがう…ちがう…。

あいつは……優しすぎるから。


拒絶したくて…。
もう二度と“いつか”なんていう気持ちを、他人に抱きたくなんかなくて…。
誰かと近くなることは、その誰かを背負うことになる。近ければ、近いほど、それは重く深くなってゆく。

それが、恐い…。
どうしようもなく、恐い。



きっと、これは警告に違いない。
過去から現在への、警告。

これ以上、近くなってはいけないと…。





中途半端にかかったブラインドの隙間から光光と月明かりが漏れていた。
あの日の晩と同じ色に、思わず目を逸らしてしまった。


そうだ、と気付いた。


ちょうど今頃なのだ。
国内に攻め込んだ独軍を、国境の外に追い出す為のこの国特有の猛烈な冬が、待ち遠しいこの季節だった。

じっとりとかいた汗は、体温を急速に奪ってゆく。

思わず身震いした。


あの日の晩と、同じように…。



























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