5








柔らかな、微笑み。
それが特別でないのなら一体何だ。


ずっと俯いていたボリスが顔をあげる。その視線を迎え入れるように、イヴァンはその肩を抱いた。
何てことはない。
ただの、先輩後輩のスキンシップ。
大した意味なんてない、あるとしても信頼の証、その程度のハズだ。
なのに、どうして。
どうしてそれ以上の何かに見えてしまうのはなぜ?
いや、見えたとしても別にいいじゃないか。二人が、先輩後輩にしては親密な関係で合っても…あの、ボリスに心を許す相手がいたとしても…。別に、気にするようなことじゃ…。


コプチェフは思わず、柱の陰に隠れた。
距離があって二人が何の話をしているのかまでは聴きとれなかったが…けれど、コプチェフの網膜には肩を抱かれているボリスの姿が鮮明に焼きついていた。


言葉にしようのない、
どこか焦りにもにた、得体の知れない感情。心臓の鼓動がいっそう大きくなった気がして、ぎゅうと喉仏が締め付けられるみたいだった。

初めてだった。
こんな感情を抱いたのは。

今すぐにでもボリスの腕をひっ掴んで抱き寄せたい。そんな衝動に駆られる。彼はきっと驚いた顔をするだろう、けれど、その闇色の瞳をしっかりとこちらに向けさせたかった。そして、問う。なぜ、自分には何も話そうとはしないのか。話せないくらい自分は頼りないのか。その程度の信頼関係なのか。
そんな問いは、次々と溢れてきてまるで憤りの様相を呈していた。
しかし、理不尽だと感じるこの感情が、どうして生まれるのかわからない。


これは、マズい。と、コプチェフは我ながらそう思った。もはやこれ以上この場にいたら、正体不明の感情が制御できなくなる。そうなったらどうなるか、予測不能なのがさらにコワかった。
少しでも遠くに行かなければと、コプチェフは生き残った理性を総動員させフリーズしていた足を動かした。

どこに行こうか、はっきりとは思いつかなくて。デスクに戻ればニコさんがいるからきっと怪しまれる。それだけは避けたかった。
ともかく少しでもここから離れるべきだと外に出ようとした、…その時だった。



「あ、コプチェフ先輩」



すっとぼけた声が唐突に目の前からふっかけられた。はっとして俯かせていた顔をあげたそこに、見覚えのある姿が。



「あ…君…」
「俺です、アリョーシャですっ!」



アリョーシャ青年は嬉しそうに、目の覚めるような赤毛を揺らした。昨日の今日で、彼の姿はもちろん忘れようがない。
しかし、しまったとコプチェフは心の中で舌打ちしていた。タイミングが悪すぎる。



「あれ、先輩どうしたんですか?なんか、顔色悪…」
「んなことないって、気にすんな」



できるだけ明るくそう言って、アリョーシャ青年の肩を叩く。まさか顔にまで出ていたとは、よっぽど重症らしい。



「あのっ、昨日はすみませんでした…ボリスさんにもコプチェフ先輩にもご迷惑を…」
「ああ、俺のことは別にいいからさ(ボリスはどうか知らないけれど…)」



むしろ、それを言うならアリョーシャ青年の方が心配だった。将来有望の期待に溢れた彼の心を踏みにじったのは他の誰でもない、ボリスその人だ。



「君こそ大丈夫なの?」
「え、何がですか」
「何がって、ボリスに相当言われてたじゃん」
「あ、あれ…ですか」



アリョーシャ青年はハハハと頼りない笑い声をだした。どうやら苦笑しているつもりらしい。



「あれは俺が悪いんですよ」
「悪いって…」
「ボリスさんの気持ちも知らないで、俺勝手なことぬかしてました」
「……」



彼は眉根を下げて至極困ったような顔をしてそう言った。
鼻の下を人差し指でこする。おずおずと彼はコプチェフを見上げた。



「尊敬してるとか、そういうのって俺の勝手っすからね。あとで聞いたらボリスさんがそういうの喜ばないのも有名だったんですね…」
「…そういうのって…」



コプチェフは言葉を濁す。



「スターリングラードのこととか…?」



きょとんとしたのは、アリョーシャ青年だった。しかし、彼はすぐに意図を察する。



「コプチェフ先輩は、特科じゃないですもんね。有名たって、特科の間だけですから」



コプチェフは意を決した。



「それ、…教えてくれないか?」



彼が何も話さないつもりなら仕方ない、と。
もうすでに、待っていようと思う決意よりも、待っても無駄だという気持ちの方がまさっていた。
そうだ、…信頼されてる、なんて、唯一の相棒だから、だなんて、そんなのこっちの勝手な思い込みにすぎなかったんだ。

今年の春、署長室で握手したあの瞬間から何ひとつとして、進歩していない。
所詮“相棒”なんて、形だけのものだった。

コプチェフは自分でも少々やけになっているのは気づいていた。しかし、もうどうにでもなれという気持ちの方が強かった。



「…えっと、」



アリョーシャ青年は戸惑ったように、大きな緑色の瞳を揺らす。



「…ボリスさん、あのスターリングラードの戦いで狙撃師団に従軍してたらしいです」



スターリングラード。
もう一度、ゆっくり頭の中で反芻させた。ふと、アリョーシャ青年が尋ねる。



「…コプチェフ先輩は、従軍なさってなかったんですか?」
「俺は…まだギリギリ徴兵されてなかったよ。同じ歳の奴らでコムソモールに入って義勇兵になってた奴もいたけど」
「そうなんですか。…ボリスさんもそうだったのかな?」
「ボリスは俺より年上だから。まさか、あいつが義勇兵なんて。柄じゃないね…」



狙撃師団に入っていたのなら、正規の軍人、それもちゃんとした訓練を受けているはずだ。



「…スターリングラードにいて、よく生き残ったな…」
「…そうですよね…」



これが本当の話なら、ボリスは相当過酷な戦場を体験していることになる。あの若さで、そんな奴は滅多にいらないだろう。
普段の彼からチラと覗くあの暗黒は、このことに違いなかった。



「…それで、ザイシャってのは?」
「えっと、スターリングラード戦の有名な狙撃手ヴァシリ・ザイチェフって知りませんか?スターリン栄誉なんとか勲章も貰ってる…」
「あー、聞いたことある。確かなんか何百人か殺した人だよな…」
「そうです。今じゃ狙撃の生きたバイブルみたいな人ですよ。その人が指導した狙撃手たちのことを、ザイチェフって名前にあやかってザイシャって言ってるんです。俺たちの間では」
「…なるほど、それがボリスね」
「まぁ、ボリスさん本人から直接聴いた話じゃないので…」



アリョーシャ青年は気まずそうに鼻の頭をかいた。



「そもそも、ボリスさんは軍人やめてミリツィアに入ったってことになりますし…」
「いや、ミリツィアの年寄り連中はみんな退役軍人だよ。…時代が時代だったし」



そこで二人は沈黙に落ちた。
この場にいない彼の姿がふと、目蓋の裏に浮かぶ。
コプチェフは大きくため息を吐いた。



「ま、よくわかったよ。ありがとな」
「あ、いえ」



んじゃ、と言おうとしてアリョーシャ青年が声を張り上げた。



「俺、お二人のこと今でも尊敬してますから」
「はっ…なんか増えてね?」
「ボリスさんの相棒だなんて、コプチェフ先輩すごいです」
「あのな…俺はべつに……」



そこで言葉が詰まった。
波のような感情が轟々と渦巻いている。
そうだ“相棒”ってなんだ。一体自分が、彼の為に何をしてやれている?
信用さえ得られてないのに。
これで“相棒”?



「…俺たち、そんなんじゃないからさ」
「でも、お二人はこのミリツィア一の…」


それ以上は聞きたくなかった。
確かに、今までそれなりの数の事件を二人でこなした。デカい仕事もあったし、パトロールや交通整理や、地味な書類作業だって一緒にやってきた。

けれどそれで、最高のコンビだなんて。
相棒の痛みひとつ共有できないくせに、最高のコンビだなんて…。

…バカみたいだ。



「悪い…わざわざ話ありがとな」



思わずアリョーシャ青年の口をふさいでいた手を離して、コプチェフは曖昧に笑った。余裕がなくなっている自分を情けなく思った。


くるりと、踵を返した先。
しかしその瞬間、コプチェフの顔は凍りついた。
そこに見覚えのある姿があったのだ。






















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