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スターリングラード。

その名を聞いて何か分からないような人間はおそらく、この国にはいない。
それを聞いて何を思うかは人によって違うかもしれないが…けれど、少なくともそこで何が起こったか、それを知っている人間ならきっと、特別な感情を抱くはずだ。

ある人は、誇りに思うかもしれないし。
ある人は、傷ましく思うかもしれない。
近代史上最悪、今後これ以上の犠牲者はでないだろう、とまで言われるほどの残酷な戦争。確かに、結果だけみれば勝ったのは紛れもない事実だった。けれど、空襲で街は瓦礫の山と化し、多くの人が死に、大きな傷跡ばかりが残った。それは、その名と共に、今でもこの国の人たちの心に染みついている。

そして、また、彼の心にも何かを残しているに違いない…。



















「ボリス、ボリス、ボリス…」



ぶつぶつ呟きながら相棒を探したが、デスクにその姿は見当たらない。
ほっとけば延々と愚痴なるものをこぼし続けそうだったカンシュコフを少々無理矢理に見送って(追い出して)来た帰りだった。
自販機でコーヒーを買ってから、彼は此処に戻らなかったのだろうか。そういえば、今日はまだ挨拶もしていない。



「…ヤバい…なんかヤバそ…」



デスクで大人しく仕事してないところを見ると、今日は相当機嫌が悪いに違いない。
触らぬ神に祟りなし…いや、まさか!ボリスの場合、触らなければ一体何倍返しになることか!腐っても相棒だ、これで今生の別れ…というわけにはいかない。



「はぁ…」



しかし実際、今回は何と声をかけてやればいいのか思いつかないのも確かだった。
お気に入りのランチ定食が売り切れだった時とか、ラーダの暖房がぶっ壊れて凍死しかけた時とか、…そんな日常の範疇の出来事ではないのだ。今回彼の機嫌を陥れているものは…。



「どーしたもんかなー…」



とりあえず、気まずいなりにも何とか彼を探しに行こうかな、なんて深くため息をついたその時だった。



「おー、ため息吐いてっと幸せが逃げるぞー色男」
「…ぁいでっ」



バシン、といきなり後頭部に衝撃。
ガバッと振り返った先、にんまりと満面の笑みを浮かべた男が立っていた。



「うーわ、ニコさん痛いですって」
「んなとこでボケっとしてっからだよ阿呆」
「手加減ナシ…っつか脳みそ響いたしマジで」



痛い痛いと恨みがましくコプチェフは男を見上げた。コプチェフもかなりの長身だったが、男はそれ以上の大男だった。

男の名はニコライ、通称ニコさん。
コプチェフの先輩にあたり、ともかく豪快で有名。
ニコさんなんて呼ばれてるが、もちろんニコニコなんて可愛らしい笑い方はしない。ガハハハと彼は豪快に笑った。
と、コプチェフが敏感に反応する。



「…う、ニコさん…酒臭。ちょ、今仕事中っすよ、なに飲んでんすか?」
「阿呆飲むわけねぇだろが。これはまだ…昨日のがちっと…」
「…ちっとって…」
「これでも二日酔い中ー!」
「嘘だっ見えね!」



思わず声を上げたコプチェフだが、いや俺もさ、色々あんだよー…と彼はそう言って珍しく疲れたような顔になった。
何かあったんですか?と、後輩として聞かないわけにはいかない。



「いや、この春から新しく相棒になった野郎がさー」



この春…。
そういえばコプチェフとボリスがコンビを組んだのもこの春だった。



「まだ慣れてないんですか?」
「いや、仕事は普通にやってんだけど…なんか掴めねぇっつぅか」
「掴めない?」
「そいつ、仕事はできんだけどさ…俺とは合わねーんだよ多分、性格上」
「性格上…ねぇ…」



ニコさんは困ったなぁとぼりぼりと頭を掻いた。
いや、合わないのはほぼ8割ニコさんのせいでしょ。…と危うく喉まで出かかったセリフをコプチェフは何とか踏みとどまった。変に絡まれたら厄介なことになるの間違いなしである。
ニコさんはもちろんイイ人だが、若干大らかすぎて雑すぎる…というか何というか。それが人間関係にだってそのまんま適応されるのだから、かなり一方通行になるのは必然で。
同僚たちの間にも広く知られてるのは、酒好きのニコさんは酔うと相当タチが悪いということだ。アレこそまさに絡み酒というのだろうか…ともかく一対一で飲みに誘われたりしたら大変なことになる。



「あのー、話を聞きたいのは山々なんすけど。俺、今ボリス探してて…」
「ボリス?…あー、あいつなら見たぞ」
「え、どこで?」
「俺の相棒と一緒にいた。南館だ」
「南館…」



南館とは、今いるミリツィアの通常業務が行われている本館の隣にある建物のことだ。
別名、訓練棟とも呼ばれている。
しかし、コプチェフに引っかかったのはそこではなくニコさんの相棒と一緒という部分だ。



「ありがとうございます。…俺見てきます」
「おう、お前俺の相棒って知ってたっけ?」
「…いや、知らないっすけど」
「そうか、そいつな…イヴァンって野郎なんだけどよー」



イヴァン?
コプチェフの瞳が驚きに見開かれた。



「お前、顔知らねーよな…」
「あ、知ってますよ。その人なら」



もちろん、知らないわけがなく…。
コプチェフは短く言葉を切った。





















舌先を転がった苦味は、じわりじわりと味蕾を刺激して独特の芳香を鼻腔に解き放つ。
コーヒーは舌に残る。



「で、僕に何の用?わざわざ君が来てくれて嬉しいんだけど」



目の前には柔和な顔をした男。ボリスの二期上の先輩、イヴァンだ。



「だから、後輩のガキに変なこと吹き込むのはやめろって話」



スチール缶の飲み口から唇を離すか離さないところでボリスはもごもごとそう言った。
チラリと、隣に並ぶ男の顔を覗き見た視線がもろに捕まってしまう。
くすりと、イヴァンは笑みを零した。



「変なことってなあに?」
「……ザイシャとか、スターリングラードとか…」
「変なことじゃないよ。事実だし」



イヴァンは少しも悪びれた風もなくそう言った。彼の柔らかな金髪がふわりと、風になびく。
二人は、本館と南館をつなぐ渡り廊下に立っていた。そこからは、訓練用の演習場を望むことができる。



「俺が嫌がってることわかってて、言ってんのかよ」
「まさか、」
「……」
「なに、何かあったの?」
「…何も」



ウーソーだ。
わざとらしく間延びした声を上げたイヴァンは、すっと目を細めた。



「ボリスさ、大事な相棒にこのこと話してないでしょ」
「…話す必要なんかっ」
「せっかくできた相棒なのに」



イヴァンはボリスの目を真っ直ぐ見つめた。



「心開かなくて、どうするの?」



ぎり、ボリスが強く唇を噛む。



「そんな必要なんてねぇよっ…相棒なんて、ただの、ただの…仕事上の相棒だろ」



缶コーヒーから完全に顔を上げて、逆にイヴァンを睨みつけるボリス。
その瞳はどこか必死じみている。



「その、仕事。僕ら狙撃手の仕事が、どれだけアブノーマルなものかわかってないのかな?」
「………」
「わかってるでしょ、むしろ僕より」
「…っ…」
「そんなことじゃ、いつか自分で自分の首絞めることになるよ」



がばっと、ついに耐え切れなくなったのかボリスがイヴァンに背を向けた。
今や噛み締め続けた唇には血が滲んでいた。その闇色の瞳は動揺に揺れ、落ち着きなく床をさ迷っている。



「うるせ…」



小さくこぼれた言葉は、普段の彼からしては驚くほど弱々しいものだった。
イヴァンはふっと、苦笑する。



「せっかく、相棒になれた相手なんだから」



じんわりと温かい温度をその言葉は持っていた。
再び、風が吹き二人の髪をなぶった。



「……」



もう一度、少し冷えたコーヒーを口に含むと、さっきより少しだけ苦味が増した気がした。


























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