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『英雄…?』
発音した舌先からまるで何かビリビリと痺れるようだった。視線の先、見覚えのある男は相変わらず柔和に微笑んでいる。
『一度見てみたかったんだよ、英雄さんの“初めて”の相棒ってやつ』
『…初めて?』
『あれ、君は知らなのかな?彼の、人嫌い伝説』
『……』
あからさまに不審そうな顔をしてしまったからだろう、男はごめんごめんと表情を崩した。
『彼だけなかなか、コンビ作るの嫌がってたみたいでさ。僕らの間では有名だったんだよ』
僕ら、そう言って男は自分の腕章を見せた。それはコプチェフの相棒である彼の腕にもついている、狙撃手の証。
『そんな彼が、やっと組んだ相手って気になるだろう?』
男は再び微笑を浮かべた。
見られているのはこっちなのに、その包み込むような雰囲気は、どこか他人に嫌悪感を抱かせないようなものだった。
しかし、逆にそれがコプチェフには怪訝に思えてならない。もしかしたら、話題が話題だからかもしれないが…。男は、困ったなぁと眉根を下げた。
『そんなに警戒しないでくれよ。単に僕は興味本位で君に話しかけただけだから』
『はぁ、』
『僕はイヴァン、よろしく』
『…コプチェフです』
すっと差し出された手を握れば、否応なく男の体温を感じさせられた。
がこん、がこん、…。
規則的な音が静かな車内にこだましている。凍てつく冬が来るまでにはまだ随分早いのに、せっかちなこの国の空は、早くも空から雪を降らせていた。
フロントガラスを行ったり来たりするワイパーの向こう、ひらひらと舞う粉雪はラーダカスタムの風圧に負けて脇へそれてゆく。
時間帯は夜で、歓楽街のネオンが車内をぴかぴかと照らしていた。
車内にはもちろん、コプチェフ以外にもう一人いるのだが、彼はずっと存在を消すかのようにだんまりを決め込んでいた。
助手席側の窓に片肘をついて、ひたすら窓ガラスの外を眺めている。
空気は重苦しくはなかった。
しかし得体の知れない闇を孕んでいた。
もしかしたらそう感じたのはコプチェフだけかもしれない。少なくともコプチェフは普段からの彼との沈黙には馴れつつあった。
随分と気分屋な彼は、日によって落差が非常に激しい。何が原因になって彼のテンションを左右するのか見極めるのは難しいが、気まぐれに付き合うのは上手くなった。
ところが本日は、彼のテンションを陥れた原因が何かハッキリしている。
厳密にいうと、原因、というだけで理由まではハッキリしないのだが…。
それでも、いつもと違う。
どうして、あんなこと言ったんだ?
なんて、口にするのは容易い。
しかし、答えを得るのは不可能だろう。
今回のは、根が深い。
それは完全にコプチェフの勘だったが、やけに確信めいたものも感じていた。
晴れて相棒となって数ヶ月。
ほとんど毎日お互い1日の大半を共有しているのだ、少なくとも表面的な気配やクセは把握している。
ボリスはたまに、底知れない闇を見せるから恐い。触れたら最後、ずるずると呑み込まれそうな深い、闇。
今回もその暗闇がありありと浮き彫りになったといえる。
自己と他人との敷居が高い彼でも、あそこまで明確に誰かを拒絶することなんて、コプチェフの知る限り未だかつて見たことがなかった。
あの青年の何が、ボリスの地雷を踏んだのかハッキリとはわからない。
それが今、彼に纏わりつく影のように漆黒を覗かせている…。
がこん、がこん、
ワイパーとラーダカスタムのエンジン音を、こんなにありがたく感じたことはなかった。きっと、無音の世界であれば自分は堪えられないだろう…と、コプチェフはふと目頭が重くなった気がして、眉間を指でぐいぐいと押した。
その時だった。
「…訊かないのか…?」
ぼそり。
ともすれば聞き逃してしまいそうな低い声。依然、窓ガラスに頬をくっつけそうにして外を眺めながら、彼はそう言った。
「……訊いたら、教えてくれるわけ?」
何を、だなんてそんなバカな話はしない。けれど、ボリスが息を詰める気配はした。
ほらね、と内心コプチェフはため息をつく。
「…無駄なことはしないよ」
「…それで、物分かりのいいつもりかよ…」
「もちろん。そのつもりだけど」
「…うぜー」
彼が話すたびに、彼がもたれているサイドガラスが白く曇った。
オレンジ色のネオンが鈍く反射して、青白いはずの彼の肌を健康そうに見せている。
「少なくとも、簡単な話じゃないってのは感じてるね」
信号停止からアクセルを踏み直した。
華やかな歓楽街、人も多いし車も多い。車内から一歩でも飛び出せば、賑やかな喧騒に包まれることだろう。
しかし今、車内という二人だけの空間は暗く静まり返っている。
「…簡単な話だよ…」
ボリスは呟くようにそう言った。
「…バカみてぇに簡単な話だ…」
ふと、脳裏にあの瞬間のボリスの表情がよぎる。人というものは、あんな悲痛な表情をできるものなのかと、思わず考えてしまうくらい…苦しそうだった。
コプチェフもどうしてこんなに胸が苦しくなるのかわからなかった。