16
雪がちらついている。
ふわふわと揺れ、流され、地面に落ち消えてゆく。
雪はどうして白いのだろう、とふと思った。何か至極当たり前のように感じるけれど、白い塊が空から降ってくるなんてやけにファンタジーじみてはいないだろうか。
昔シベリアに住んでいたことがある。
何もかもが真っ白に染まるそこにいると、世界の始まりに立っているような気分になった。
自分というちっぽけな存在さえ、忘れてしまうくらい…全てが、真っ白で。
本当にもう何もかもどうでもよくなって、消えていって…
トントントン、
不意に窓が叩かれる音がした。
見れば、窓の外、両手に湯気立つ紙コップを持った相棒が立っていた。
あけて、そう口パクでいうその姿がなんだかおかしい。
言われなくとも、と身を乗り出し運転席のドアを開けてやった。
途端、一気に冷気が入ってくる。
「うー、寒い…」
差し出された紙コップを受け取った。中身は、案の定的にコーヒー。もう何日間、どれだけこれを胃に流しこんだことか…。
「おま…、またコーヒーかよ…」
「いや他になくってさ、俺のココアだけど、どう?交換する?」
「……遠慮しとく」
「はは、ごめんね」
なんでてめぇが謝んだよ、と口の中だけで呟いた。
彼は運転席に乗り込み、ドアを閉めた。そのブルゾンの肩に少し雪が残っている。
気まずい、なんて…今更か…。
とりあえず、紙コップ越しの温さを味わった。じんわりと、冷え切って乾燥した指に熱が伝わってくる。
白い湯気が、くすぐったかった。
「…なんかさ。あいつら、実は中でもう2人死んでたらしいよ。よくわかんないけどさ」
「………」
「撃たなくて良かったよ」
証言とれなくなるところだった。
そう続けて、コプチェフは紙コップに口をつけた。
うっすら雪に埋もれたフロントガラス越し、護送車のテールランプが見える。
慌ただしい人の影。それにしては、ラーダのエンジン音くらいしか聞こえてこない。
気ぃなんか遣うなよ。
バカバカしいくらい皮肉ばかりがこみ上げてくる。
「…生き残ったのは?」
「赤タンクと、確か…ヒゲ」
「…ビンゴ」
「なに、予想的中?」
「赤タンクは生命力強そうだった」
「いやいやいや、ボリスたまにわけ分かんないよ」
コプチェフはそう小さく苦笑した。
湯気が揺れ、甘いココアの香りとコーヒーの香りが混じり合う。
フーフーと息を吹いて、ちょっとだけ唇に触れてみた。…まだ熱い。
「…腕、もう大丈夫?」
思い出したような軽い口調。
さりげないそういうところが、いちいちムカつくのだ。誰も気遣えなんて、言ってない。
「大丈夫だっ…」
少々荒く言った気配はもろバレだろう。
顔を見るのも見られたくもなくて、窓の向こうに視線をやった。
くすぶる湯気が鬱陶しい。
「…そう、良かった」
明らかに安堵したような口調。
じくじくと胸の奥深くで何かが疼いている。
フラッシュバックのように甦ってくるあの瞬間。
情けないことに、痙攣する自分の腕ぐらいしか覚えていなかった。久しぶりに働いた涙腺は、加減がわからなかったのか、思う存分眼の水分を使ってしまったらしい。
さっきから眼球が乾いて仕方ないし、心なしか視界がぼやけている気がする。
コプチェフがあの後どう処理したのかはわからない。けれど、何も言わないということはきっと上手く片付けてくれたんだろう…。
久しぶりに慣れない感情が発露して、身体が勝手に暴走した。
慣れないことなんてするもんじゃない。今でも頭がぼーっとする。
嗚呼、どうしてこんなにも不甲斐ない。
いつの間に…こんなに弱くなった。
どうして…。
「迷惑かけた、悪かったな…」
依存してはいけない。
したくない。
でも、でも…なんでコイツは。
「あのね、こういう時は普通ありがとうって言うんだよ」
一番欲しい笑顔で、一番欲しい言葉をくれる…。
「ボリスが無事で良かった…」
嗚呼、もう…ダメかもしれない、と。
今此処で鼻を啜ったら、泣いてるみたいに思われそうで嫌だった。
ごまかすようにもう一度窓の外を見やると、其処には雪、雪…白い雪…。
これからどうしようか。
「ボリス、飲まないの…?」
「……冷ましてんだよ、バカ…」
「はは、そっか猫舌だもんね」
「うるせ」
相変わらず、手の中のコーヒーに冷める気配はなかった。