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ホワイトボードに“早退”という文字を見つけて、やり切れない気持ちがよりいっそう強まった。
顔を合わせるのも、つらかったのだろう。ただでさえ体調が優れないのに、自分の存在によって彼の心労がさらに増すのは何よりやり切れなかった。












『恐いんだと、思う』
『恐い…?何がですか』



そっと、目を伏せたイヴァンの表情は意外なくらい悲しそうに歪んでいた。



『彼は…あのスターリングラードで、相棒を亡くしてるらしい』
『………』



まさか、とは思っていた。
彼の周りの人間が、何人か命を落としているだろうことぐらいは容易に想像がついていた。けれど、まさか唯一無二の相棒まで…。
イヴァンは更に続けた。



『君には想像しにくいかもしれないけれど。狙撃手っていうのはさ、孤立無援なようで実は、すごく依存するんだよ相方っていうのにさ…。もともと繊細な分野なせいか、メンタルが凄く反映されやすい。だから、まだ新米の狙撃手が、スターリングラードみたいな恐ろしい場所で、一体何が支えになっていたのか……そんなこと、わざわざ言わなくても分かるだろう?』



イヴァンはどこか遠い目をした。
切れ長の瞳の先、一体何が見えているのか。コプチェフは胸の奥が疼くのを感じた。



『どういう状況で相方を失ったのかは知らないよ。…でも、それが相当なトラウマになってるとしたら…』



トラウマ。
ギリシャ語でいう傷という意味らしいそれはつまり、精神的外傷のこと。



『きっと、恐いんだよ……』



恐い…。

それはコプチェフにとってもひどく残酷なことだ。
失った相棒を無意識にダブらせてしまうという…特定の行動ではなく、そうだとしたら…。それは、相棒というコプチェフの存在自体が彼を苦しめてしまう、ということ。

これ以上残酷なことなんてない。

近くなればなるほど、傷を抉る。
相棒でいる限り、苦しめ続ける。

そんなの…救われないじゃないか。




ボリスの顔がふと、思い浮かんだ。
あの…儚げな背中に彼は、一体どれだけの想いを背負っているのだろう。


































『…もう、ダメだ…』



ぽつりと、呟いた声が閑散とした室内にやけに響き渡った。力の抜けた相棒が、キッチンの床に座り込んでいる。ドン、という腹の底に響く砲撃音がする度に、パラパラと天井から砂埃が落ちてきた。どこかの幸せな家庭だったはずの部屋は、今は無残にも荒れ果て、わずかな家具が取り残されているだけ。
窓ガラスが割れた窓から、冷たい風が吹き込んでいた。



『もう…ダメだ…』



もう一度、彼はそう言った。

ふと、泥で汚れた床に写真立てがひとつ落ちていて。その小さなモノクロの世界で、小さな女の子が儚げに笑っていて。彼女の両脇に優しそうな両親が。その母親の腕の中には白い布でくるまれた赤ん坊が。
みんな、微笑んでいた。
そっと、指を伸ばす。震えたそれが、モノクロ写真の表面を撫でる。

この家族は一体どうしたのだろう、と。去来した想いは切なく重かった。この家族が人並みの幸せを育んでいたはずだろうこの部屋には…もう何も残っていない…。



『…ボリス、』



やけにしんとなった静寂に添うように、彼の声が響いた。



『ついに此処まで…、来ちまったな…』



顔を上げると、小さくうずくまった相棒の肩が小刻みに震えていた。
喉の奥に何かがつっかえたみたいに。何か言おうとして、何も言葉にならない。

立ち上がり、窓の外を窺った。4階建てアパートの真下に黒い装甲車の陰が見えた。
最上階の此処まで奴らが至るのに、あとどれくらいか…。



『もう…弾もねぇもんな…』



自殺もできねぇよ、と彼は皮肉げに笑いながらそう言った。
足元に転がるモシン・ナガンは、弾が無ければただの鉄の塊だ。
腰のベルトに残る手榴弾は、たったひとつ。これでふっ飛ばせるのは、せいぜい人ひとり分の頭ぐらいだ。
それで死のうだなんて、これを受け取った時ほんの少しでも考えただろうか…。
まさか、
今だって恐くて言い出せないっていうのに。

モシン・ナガンを構え続けてできた豆が、ひりひりと痛かった。
それがたくさんの人間の命を奪った証、…だなんてそんな事はつまらない綺麗事にすぎない。
自分の命に比べたら、名も知らない敵兵士の命なんて微塵も惜しくなんかなかった。
それを正当化なんてするつもりはないけれど、それでも、死ぬのが恐いことに変わりはない。
死ぬ時は、こんな豆の痛みより何十倍も何百倍も痛いんだろうな…。ずるずると、壁に背中をこするようにして腰を落とした。
口の中がカラカラだ。



『何かしゃべれよ、お前…』



頭を両膝の間に突っ込ませながら、相棒がもごもごと言った。
なんだよ、それ。
思わず笑みが零れる。



『話すことなんかなんもねぇよ…、ばーか』
『お前、最期までそういうこと言うのな…マジへこむ…』
『…はっ…はははっ…』



乾いた笑い声は、場違いに部屋に響き渡った。
訝しそうに彼は煤で汚れた顔を上げる。



『お前よくこんな状況で笑えるな…』
『自分こそ、さっきまで散々喚いてたくせに』
『もう諦めたんだよ。…死ぬしかねぇって…』



小さく、本当に小さく、彼の声はフェードアウトしていった。

ふと、相棒の凭れるキッチンの上に薄汚れた白い布切れが見えた。
降伏…。頭の中にその二文字がよぎる。



『捕虜って、どんなもん…?』
『は?…バカやろ。降伏しても無駄だって、どうせどさくさに紛れて殺されるだけだ』
『…だと…思った…』
『なんだよ。お前がそんなこと言い出すなんて意外だな』
『……いや、やっぱ死にたくないからさ』



死にたくない。
それを口にしたその瞬間、じわりと何かが体中に浸透していった。すると突然、ありありと自分の心臓の拍動が聞こえてきた。

生きてる。

うるさいくらいに、体が主張している。



『ボリス…?』
『…俺、生きたい』
『……』
『お前だって、そうだろ?』
『……』
『おい、ユーリィっ』

『………ったりめぇだろ!!』



その瞬間、突然彼が身を起こした。
這うようにこちらに来て、強引に胸倉を掴む。



『何でっ…お前は…そういうこと…言うんだよ…っ』



強い眼差しは、徐々に滲み…ぽたぽたと大粒の雫がそこから零れ落ちた。
ぐちゃぐちゃになった泣き顔は伏せられ、そのまま強く抱きしめられる。
その時、自分がどんな顔をしていたのか、…分からない。けれど、きっと同じく泣きそうな顔をしていたに違いない。
彼の言葉は押し殺した呻き声に変わって、掻き消えてゆく。鼻をかすめる硝煙の匂い。それは随分嗅ぎ慣れた、彼の匂い。

震えているのを隠そうと、必死に腕に力を込めるその健気な姿が、何だかやけにおかしかった。


…バレバレなんだよ…馬鹿。



視界が滲みそうになるのを、必死でこらえた。




















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