「どう?」
「何が」
「今日、調子いい?」
「…別に」



こういう時のボリスの返答は短い。

バイポッドに備えつけられたドラグノフを構えたまま、彼は一心にスコープを覗いていた。
ドラグノフの黒い先端は窓の外に突き出していて、おそらく今この瞬間も約100メートル先にいるだろう人間に狙いを定めているに違いない。
双眼鏡からチラと視線を落としたそこで、ボリスは冷たいコンクリートの床にうつ伏せに寝そべっていた。
つまり、プローンという射撃の基本姿勢。
狙撃というのは非常にデリケートな分野で、できうる限りの安定性を求められる。
引き金を引くその瞬間でさえ息を止め、呼吸による振動を防ぎ、弾はたった一発で決着をつけなければならない。
彼はぴたりと愛銃に寄り添い集中していた。
その姿は、普段のパトロール時、助手席で寝こけている彼とはまるで別人だった。
その眼差しは鋭く、正面に向き合っていなくとも十分にその気迫に圧倒される。
思わず、身震いするくらいに…。





それは、この国にしては比較的麗らかな夏が近い午後のことだった。けたたましく鳴り響いたミリツィアの無線は、それらすべてをぶち壊す事件の到来を告げていた。何が目的だったのかは分からない。
犯人の男はとある飲食店で銃を乱射し、数人を殺害した後、人質をとって立てこもっていた。
緊迫した状況は数時間続き、必死の交渉も虚しく犯人の精神状態はかなり悪化していた。
これ以上は危険と判断し、よってミリツィアは最終的措置をとることを決定したのだ。

犯人の立てこもるビルから通りを隔てたとある立体駐車場。
そこに、ボリスとコプチェフは陣をとっていた。
最終的措置を実行するために。


今日も寝不足だと、気怠げにぼやいていた彼が任務を言いわたされた時のことをコプチェフはよく覚えている。
ああ、またか…というため息に反して、彼の瞳は肉食獣さながら研ぎ澄まされていた。


ドラグノフを構え、息を潜めるこの瞬間、ボリスは本当に別人になる。
身に纏う空気は恐ろしく冷たく殺伐として、どこか本能を剥き出しにしたような殺気を孕ませる。

実を言うと、コプチェフはこの瞬間が苦手だった。
普段とこの特別な瞬間との、彼の恐ろしいくらいのギャップに、どうしても辟易してしまうのだ。



通常、狙撃任務は狙撃手と観測手の2人でチームをつくる。
観測手とはいわば、狙撃に全神経を注がなければならない狙撃手のバックアップで、周囲の警戒、情報収集、指揮所や突入班などとの連絡を一手に負わなければいけない。
つまり、それがコプチェプの任務で、ボリスのサポート役というわけだ。
だからもちろん、気が抜けないのには変わりないのだが、いつもどうしても気後れしてしまう…。

それは彼との仲が深まるにつれ、より顕著になってゆく気がした。
彼を理解できた気になんて、到底させてはくれない。むしろ、どんどん突き離されてゆくかのように。
彼を見失ってしまう。
すぐ隣にいるのに…。




「…おい、…コプ」
「あっ、ごめん…。なに?」
「何じゃねぇよ、お前。記録規定は?10分過ぎたろうが、」
「うわ、ほんとだ。やべっ…」



思わず思考の波に沈んでしまっていたコプチェフはボリスの声に慌てた。
任務中は随時、事件の経過を記録しなければいけない。
後になって裁判での証拠として採用されるからだ。
斜め下から訝しげなボリスの視線を感じる。彼なりに、相棒の凡ミスを怪しんでいるらしい。



「お前、どうした」
「いや別に。どうもしてないって…ちょっと考え事してて」
「…ばかやろ…」



ボリスはあからさまな呆れた溜め息を吐いて再びスコープを覗き込んだ。
普段なら容赦ない罵倒が飛んでくるものの、任務中の彼は基本無口なのだ。
きっと余計なことに力を使いたくないのだろう。
もちろん、コプチェフとしては面白くない。
普段の、無防備な癖にトゲトゲしい彼の方がずっと気馴れていた。



「“オヴニル1、応答せよ”」



不意にイヤホンから声が鳴った。
瞬間、緊張が走る。



「こちら、オヴニル1」
「“予定通り同時突入を実行する。標的、確かか”」



チラリと窓の外を見やった先、雑居ビルの真下にミリツィアの突撃隊の黒い制服が見えた。
双眼鏡を構え直し、ビル内の人影を確認する。
もちろん、イヤホンからの指揮所の指示はボリスにも同時に届いている。
隣で、彼がゴーサインを出したのがわかった。
誰とは言わず、一人勝手に頷いていた。



「対象1、捉えています」
「“了解、対象1を標的として射撃を許可する。オヴニル1、スタンバイ”」



もう一度、チラリ。
ボリスが息を殺すのがわかった。今までにない真剣な眼差し。
殺意を宿した、その深い深い黒瞳。



「“撃て”」



一瞬。

ダン、と、

鈍く重くドラグノフが前後した。双眼鏡の丸窓の先、人質をとり立てこもっていた男の背が崩れてゆく。
それはスローモーションのようで、ひどく刹那的だった。
ボリスの射撃は正確で、男の頭部を確実に撃ち抜いていた。
銃器を片手にせわしなく動いていた男は、その瞬間、あまりにもあっけなくその愚かな人生の幕をとじた。
そう、ボリスの手によって。



「“クリア、突入!”」



どん、というくぐもった音が鉛色の空に響き渡った。
仲間の突撃隊が、ビルの中に突入してゆく。
一気に復活した雑音たちは、コプチェフの意識を現実に置き去りにしていった。

赤いものは見えない。
聞こえないはずの悲鳴が、延々と鼓膜を震わせていた。



「…ちっ…腹冷えた、」



ふと、ボリスが悪態をついた。
硬直していたコプチェフは、思わず我に返る。
相棒のそんな第一声はあまりに唐突だった。
仕事を終えたドラグノフからボリスはゆっくりと体を離し、ふうと息をつく。
そこにはもう、鬼気迫る殺意も何も存在せず、彼は小さく「おわった」と零す。



「お見事」



声を出した喉はやけに渇いていた。
ありきたりな賞賛はもう聞き飽きたのだろう。
ボリスはフンと一回鼻を鳴らしただけで他には何も言わなかった。
彼は冷えたらしいお腹をさすっている。

そういえば。
未だかつて、彼の口から自身の狙撃の腕前を自慢されたことはなかった。
それが何故か?
だなんて想像するのはきっと、愚かなことなんだろうけれど…。


いつのまにか、がやがやという喧騒が通り一杯に広がっていた。
けたたましい救急車のサイレンがそれに混じり、よりいっそう通りは賑やかになっていく。



「“人質、確保完了。ターゲットは即死した。オヴニル1、ご苦労”」



非常識なくらい淡々とした無線の声は、二人だけの空間に空しくこだました。
ふと見やった先、ボリスの視線はどこか遠く、焦点が定まっていない。
「了解」そのセリフはどちらが言ったのか解らなかった。



ボリスの足元にドラグノフから吐き出された空薬莢がひとつ転がっていた。
小さく感傷的な色を残したそれを、彼は静かに拾い上げる。



「あー…。今晩、ビーフストロガノフ食いてー」
「はっ?え…それ俺に言ってんの?」
「お前以外に誰がいんだよボケ」



放り投げたようなその声は、いつも通りの彼らしい悪態だった。ぼーっとつっ立っていたコプチェフの肩を軽くこつんと叩き、ボリスは苦笑する。



「お前、今日なんかおかしいぞ」
「いやいや。そんな急に言われてもさ…ねぇ?」
「そうだ!お前つくれ」
「はっ?それマジで言ってんの?」
「じゃなきゃ奢れ、」



理不尽な要求を突きつけながら、ボリスはひょいと空薬莢を宙に投げた。
くるり、半回転したそれは素直に彼の手元に落ちてくる。

不意に。
どこか無邪気なその仕草が数秒前の彼の姿と重なった。
ああ、とコプチェフは思う。
そうだ、これだ。この落差に、いつも持ってかれてしまうのだ。
眩暈を感じる。

降参、誰かが言ったそのセリフに、コプチェフは深い溜め息を吐いた。



「…リョーカイ」






キラリ。

彼の投げた空薬莢が鈍く光った。











神様にはできないこと、僕等にはできること。

















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