空が低い。
低い空だ。

手を伸ばせば届きそうだと、利き腕をうんと高く伸ばしてみたけれど。
案の定、見せつけられたのは所詮数十センチ程度の己の哀れなリーチだった。





















「ボリス」



突然降ってきたみたいに呼ばれた名前に、ボリスは伸ばした手そのままで驚いたように振り返った。



「何やってんの?」



闖入者ことコプチェフは、何にもおかしくもない癖に初めからニッコリと笑んでいた。長い腕を支給ブルゾンのポケットに突っ込んですらりと立つ姿は、まるでそこにテレポートしてきたみたいだった。現にこんなにも近いのに、ボリスはその気配さえ感じとれなかった。



「…何って、休憩…」
「ちがうよ、それのこと」
「……」



彼が顎で指し示したのは、さっきから空に上げっぱなしだったボリスの右腕だ。ボリスは言われて初めて自分の腕が上を向いていることに気がついたみたいに、慌ててそれを下ろす。



「なに、ストレッチ?」
「…いや…」
「じゃ、何」
「…なんとなく…、…空…」
「空?」
「届くかなって、」



それは、言うまでもなく、普段らしからぬ返答だったにちがいない。言葉が飛び出してからボリスはしまったと思った。自分でもその瞬間、己の言語野を疑った。おずおずと相棒の表情を伺えば、案の定相棒は、文字通りの間抜けづらを浮かべている。



「なに、頭でも打った?」
「…うるせ、ばか」
「いやいや、いきなりらしくないこと言い出すからさ」
「……」



コプチェフは困ったような曖昧な表情を浮かべて、頭をかいた。
びゅうと、冷たい風が二人の間を吹き抜ける。その時間帯の屋上には二人以外他に誰もいなかった。フェンスにもたれていたボリスの隣にコプチェフは並ぶ。



「どっかに消えたと思ったら、こんなところで、さ、……なに、失恋?」
「アホか…」
「だよねぇ、そんなキャラじゃないもんねぇ」



コプチェフは何がおかしいのか一人苦笑した。パトロール帰りの休憩時間、車を戻して帰ってみれば相棒の姿はどこにもなかった。探し回った末、たどり着いた此処で彼は謎の行動をとっていたというわけである。

横目で盗み見みたその横顔には、取り分け目立った感情はみられなかった。
普段から、感情表現に乏しい彼のことだ。おおよそ何を考えているのかわからないといったところ…。


その闇色の瞳の先には、灰色の街がある。一年のほとんどを厚い雲と深い雪に覆われた、錆びれた街。



「この街、好き?」
「べつに」
「俺は好きだよ」
「言うと思った」
「なにそのバカにしたカンジ」
「お前の思考回路は幼児並みだからな」
「うわ、ひっでぇ。ボリスひっでぇ」



ガシャン、傷ついたと主張しようと空ぶった脚がフェンスに当たって音をたてた。ボリスは眼を細めている。多分、ちょっぴり笑っている。

ふと、振り仰いだ灰色の空は落ちてきそうなくらい、近かった。
なるほど、これは届きそうだと、その瞬間コプチェフは思わず手を伸ばしかける。

その時、ぽつりとボリスの声がこぼれ落ちた。




「昔…、この街を、守る為に…」




それは、くぐもった、低い声。




「その為に死んでこい、って…言われた」




すっと、空に伸ばされたのは、色が抜けたように白い手だった。何の前振りもなく唐突な行動。空が目の覚めるような青空であればきっと、その手も映えたことだろう。しかし、生憎この街の空にそんな気の利くようなものはなかった。陽の光を遮る雪雲は、彼の腕さえも取り込んでしまいそうに暗澹とたちこめている。





「届きそうなんだけどなぁ、」





呟かれた声は冷たい風に吹き飛ばされ消えてゆく。そこには何の余韻もなく、ただ相変わらずまっすぐな闇色の瞳があるだけだった。

コプチェフは思わず、締め付けられた胸の痛みに顔を背けた。













「届かない」















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