甘ったるい匂い。

指先の体温、それだけでも溶けてしまう。茶色い、そのカタマリに詰め込まれた、甘くも苦くもないどろどろした思い。

嗚呼、吐き気がする。









on valentine's day












「あの、コレ受け取ってもらえませんか?」



油断したと思った。
陽も沈み、一日も終わりに近づいて、知らず気が抜けていたんだろう。一人、人気のない廊下を歩いていた時だった。
目の前にむんずと突き出された、ファンシーな箱。
その中身が何であるか分からないほど、疎くはないつもりだった。



「…俺に?」
「は、ハイっ」



上擦った声に余裕はないようで。わずかに紅潮した顔は、どことなく初々しかった。いかにもという程、派手でもなく控え目でもなく。どちらかというと、美人というよりは可愛い系の女の子だった。
好みじゃないけど悪くはないなぁ…なんてまるで他人事みたいな感想が脳裏によぎる。もちろん、名前なんて知らない。
さぁ一体、どこのどなた様でしょうか。



「えっと…その…。て、手作りですっ。頑張ってつくりましたっ」



二人だけの廊下に、彼女の一生懸命な声が響いた。
ぎゅうと瞑られた健気な瞳。コレ…って義理の範囲か?
花のコサージュに赤いリボンがついた、可愛らしい白い小箱。
義理?…いや、雰囲気的に明らかに違うよな。

まさか、



「…ボリスさんの、為に……」




うわ、と思わず声が漏れそうになった。
やっぱり最後まで気を抜くべきではなかった。こんな所通らなきゃよかった。後悔先にたたずとはまさにこのことだ。

嗚呼、苛々する…。
別に健気な彼女が悪いわけじゃないんだけれど。差し出された小箱が悪いんじゃないんだけど。
これっていわゆる本命ってやつだよな、なんて改めて認識したって、結局、最初から言う言葉は決まっているのだ。



「悪いけど…。俺、甘いの苦手だからさ」



狡いのは承知で、視線を逸らしてそう言った。
本日何度目かのセリフ。機械的だったのは、自分の中ですっかり定番だったからだ。そう一年中でこの日だけやけに多用される、お決まりのセリフ。
びくりと女の子の肩が震えるのが気配で分かった。

嗚呼、苛々する。
つんと鼻先をくすぐる、甘いチョコレートの匂い。
不意にある光景が脳裏に甦った。



『ありがとう、嬉しいよ』



誰もが見惚れる柔らかい笑顔を見せて、あの男はそう言っていた。
想いの詰まった“ソレ”を受け取って貰えた女の子たちは、途端嬉しそうに顔を綻ばせる。まるで花開いたかのように、本当に幸せそうに…。


吐き気がした。
むせかえるような、甘い匂いも何もかも。

なんでそんなどろどろしたモノを受け渡しして、そんな幸せそうな顔ができるんだか。

理解できない。



「…ご…ごめんなさいっ…」



唐突に、震えた声で彼女はそう言った。
スッと引っ込まれる白い小箱。今にも泣き出しそうな顔。
唇を噛んで、まるで必死に嗚咽をこらえるかのように。



「ご迷惑をっ…おかけしましたっ…」



彼女は吐き出すようにそれだけ言って、くるりと背を向けた。

嗚呼…こんなのばっかりだ、と。
ふとそう思った。
所詮、あいつみたいな笑顔を咲かすことも咲かさせることもできず。

徐々に遠ざかってゆく、小さな彼女の背中…。



『…頑張ってつくりましたっ…』



鼓膜に纏わりついてくる。
甘ったるい匂い。

…ったく、苛々する。




「おい、君…っ!」


























「うっわ、何…珍しいじゃん。ボリスがチョコ受け取るなんてさ」



ソファテーブルに置かれた白い小箱。
それを目ざとくコプチェフは目に留めたらしい。
いつも通りに仕事上がりのまま部屋にやってきた彼は、やはりいつも通りだった。
少々荷物が多いのと、その身体に甘い香りをぷんぷん漂わせていること以外は。



「それも、本命っぽいし…。なに、くれた娘タイプだったの?」
「…うっせぇ黙れ」
「えぇーっボリス、否定しないの?ウソ、なんかショックなんだけど…」



ショックー!そう言ってコプチェフはガキみたいな顔をした。
拗ねたように唇を尖らして、小箱を手に取ってしげしげと眺めている。
待て待て、食卓に置かれているでっかい紙袋は一体誰のだよ、オイ。
ったく、自分のことは棚に上げやがって。

そんな恨みがましい視線に気づいたのだろう、彼は若干表情を崩した。



「や、…あれはだって…せっかくの好意だし…」
「なら、同じだバカ」



風呂上がりで濡れた髪を拭いていたタオルを首にかけ、冷蔵庫からペットボトルを取り出す。
否が応でも、彼が持ち帰って来た巨大紙袋からは甘い香りがぷんぷんした。



「でもさ、ボリスいっつも断ってるのに…一人だけ受け取るって…やっぱさぁ」
「なんだよ、悪いか」
「いや、悪くはないけど…。でも気になるじゃん」



数人掛けソファを一人で占領している彼は、肘掛けに顎を載せて未だ不満そうな視線をこちらに送ってくる。
自分は余るほど受け取っといて、人が珍しく受け取った一個は気に入らない、ということか。
ったく、理不尽な駄々をこねるようになったもんだ。



「気になる?嫉妬の間違いじゃねぇの?」



バカにしたようにそう言えば、彼はさらに表情を曇らせた。
俺は内心笑いを噛み殺す。
なけなしのプライドに障ったのか、コプチェフは少々いきり立ったようだ。沸点の高い彼にしては珍しい。…どうやらよっぽど、例外の一個が気に入らないらしい。



「言ってくれるね。まー、そういうことになるけどさ」



冷蔵庫にもたれてペットボトルを傾けていた俺は、その瞬間わずかにびくついた。
いつの間にか、コプチェフが目の前に立っていたのだ。
手には、あの白い小箱が携えられている。



「…な、…お前…」
「嫉妬してるよ、その女の子に」
「……っ…」



口調はおどけてはいるが、表情は堅い。
ふわりと、仄かに甘い香りがした。



「…お前、クサい」
「クサい?…あぁ、チョコのこと?」
「お前から匂うんだよ…」
「まあ、さっきまで食べてたしね」



甘い甘い、くすぐられるような香り。
嗚呼…苛々する。吐き気がする。



「早くシャワー浴びて来いよ、…マジで…」
「……ボリスさー、そんなにチョコレート嫌いなのに…なのに、何で?何でコレ受け取ったの?」
「…うっせぇよ。別に何でもいいだろ」
「何でもよくない」



さっと、影が差した。
背の高い彼がいっそうこちらに迫ったのだ。
思わず後退した背は、冷蔵庫の壁にぴったり貼り付いている。
更に強まったチョコレートの匂い。
この部屋中がチョコレートで埋め尽くされたような錯覚に陥る。
気持ち悪い。



「…っ…てめ…、近寄んな…!」



ガタン。
押し返そうとした手が逆に掴まれた。
予想外の強い力に、持っていたペットボトルが床に落ちる。
キャップを締めていなかったせいで、床にミネラルウォーターがバラまかれてしまった。



「バカっ…なにすん…」
「ボリス」
「!」
「近寄んな、って何?どこのお嬢様気取り?」



ぐいっと縮まった距離に、耳元で囁かれた低い声。
素足に冷たい液体の感触がした。
それと同時に強烈な甘味臭。



「…くっ…」
「言ってくれないって、やっぱ相当なことって意味だよね…。ボリスもしかしてその娘に惚れちゃった?」
「な、わけねぇだろバカっ…!」
「じゃあちゃんと教えてよ、どうしてこの娘のだけ受け取ったのか」



鼻孔を満たした香りは、そのまま脳みそまで届いて頭蓋骨の中に充満しているみたいだった。
気持ち悪すぎて、くらくらする。
そのくせ、数センチ先のやけに真剣なコプチェフの瞳は、逃げることを許してくれない。



「…、っ……ぅ…」
「ボリス」
「…大…した…意味なんて…ねぇよ」
「ならなに?」
「…俺も…お前みたいに…」



─誰かを心底幸せな気持ちに、させてみたかったから…。



「…っ、…」
「……」



嗚呼、もう限界。
鳴り始めた頭痛に、目を閉じようとしたその時だった。
唇に、柔らかい感触がした。



「何で、…んな…めちゃくちゃ健気なこと言ってんの…?」



見開いた視界一杯に、あの憧れた、穏やかな微笑みがあった。思わず息を呑んだその唇に、再び吐息が重なる。



「…ふっ…ん…はっ、やめろ…!」



少々強引に、その胸を押し返した。
上擦った呼吸がみっともない。ごまかすように睨みつけると、彼はまったく動じていないようにふっと笑った。



「意外だよ。ボリスがそんなこと考えてるなんてさ、」
「うるせぇっ、もう黙れ!」
「かわいすぎるからさ」
「…っ…やめろって!…てめ、白状しただろうがっ退けっつの!」
「やだ」
「はっ?」
「やーだ」



にやりと、その口角が緩んだ時点で俺は無理やりにでも逃げれば良かったんだろう。
しかし、虚を突かれた身体は言うことをきかなくて…。
コプチェフが器用に小箱を開いて、チョコレートを摘み上げるのを呆然と見守っていてしまった。



「その娘、嬉しかっただろうね」
「……」
「変に優しいんだもんなぁ、ボリスってば」
「…な、…」



コプチェフの長い指に摘まれたその茶色い塊は、ココアパウダーがまぶされたトリュフらしきものだった。
形も悪くないなと、しげしげと観察するコプチェフの瞳は言いようのない光が宿っていた。
そこにどんな感情が秘められているのか、いまいち判別できない。



「その娘さ、つけあがらなきゃいいんだけどね」



彼はクスリと笑って、それを自分の口に放り込んだ。
てっきり、こちらの方に無理やり押し込まれると思っていた身としては、逆に拍子抜けしてしまった。
しかし、それがまずかったのだ。



「うん…悪くはないね…」
「は?てめ、意味わか…んン!」



ゴツンと、冷蔵庫に後頭部がぶつかった音。噛みつくように押し付けられた唇。
驚いて半開きだった隙間に、間髪入れずどろどろの半固体が流し込まれた。
瞬間、舌がびりびりと痺れるような強烈な甘味に包まれる。一気に鼻孔を通り抜けるカカオの芳香。



「んっ…んンーっ!」



跳ねた肩はやんわりと抑えこまれ、首筋をなぞって顎に伸びた手でさりげなく口角を上向かされた。
パニックから一転、完璧なキスの態勢。

やられた、という思考はもう、濃厚なチョコレートの刺激に圧倒されてしまった。
何も考えられない。
甘くて、猛烈に甘くて、許容範囲を軽く上回る強烈な糖度。気持ち悪い。



「…く、はっ…っ」
「どう?彼女のチョコレートの味は、」
「…マズ…」



正直な感想にコプチェフは苦笑する。



「俺、ボリスにはしょっちゅう幸せにさせて貰ってるからさ。だから、もう俺だけで十分。…ねぇ、いい加減独り占めさせて…?」



かなわない欲しかった笑顔で。
頬に血が集まるのを感じながら、だからそういう自分はどうなんだよ、と不満とも不安ともとれないものがこみ上げてきた。
不公平だと思うのだ。
お前はよくて何で俺はダメなんだ。
不公平すぎる。
しかし、何か言ってやろうと思ったその瞬間、猛烈な吐き気に襲われた。



「…ゔっ…」



思わず片手で口を覆う。
驚いて目を丸くするコプチェフを押しのけて、キッチンのシンクに突っ伏す。



「ゔぇぇ、…がはっ…けほっ」



そのまま盛大に嘔吐した。

うわ、最悪…。

幸い吐瀉物は唾液と若干の胃液くらいで、喉がわずかに焼けたぐらいで大したことはなかったが。
ったく、洒落にならない。



「ボ、ボリス…大丈夫?」
「てめ…ぶっ殺す…」
「あはは、ごめん。つい」
「ついじゃねぇよ!」
「いや、チョコで吐くとかヤバいってボリス」
「うっせぇ!誰のせいだ誰の!!」



嗚呼、これだからバレンタインは大嫌いなんだよ。


むせかえるような甘い匂い。
誰かの想いが詰めこまれた甘いカタマリ。
そんなもの気持ち悪くて。
吐き気がするんだよ。











end.













>>キスして吐くボリたんが書きたかっただけ…(^^;












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